さて先日久しぶりに訪れた目黒のいや正確には白金の自然教育園について少し気になっていた事がありネットで調べてみました。というのも明治時代にそこが当時の陸海軍の火薬庫だったと記録されていたのが妙に引っかかったのです。
そこには、
「明治時代には火薬庫となり、海軍省・陸軍省の管理となりました。しかし、大正2年(1913)に火薬庫は廃止され、大正6年(1917)宮内省帝室林野局の所管となり、白金御料地と呼ばれ、大正10年(1921)に御料地の一部が朝香宮の邸地となりました。」とあり、ここが火薬庫だった事を初めて知りました。
この地の近くには幕末期から火薬製造工場があったのも一要因でしょうか?
安政4年(1857年)、幕府はそれまで千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(えんしょうぐら、「火薬庫」)を目黒の三田村に移転したそうです。この地は水が豊富だったので砲薬調合用の水車場を設け、「目黒砲薬製造所」を作り幕府の軍事力強化に一役買ったとのことです。そして明治維新後も新政府は、内乱の鎮圧と対外進出に備えて兵器・火器の補強を図るため、新たに火薬製造所を作りましたが、それが旧幕営砲薬製造所跡の目黒の三田村で、「目黒火薬製造所」となったそうです。当時の東京には、東京砲兵工廠(明治3年操業、現在の後楽園)と目黒火薬製造所(明治18年海軍による操業、明治26年陸軍に移管・現在の防衛省技術研究所)があり、白金には火薬庫(現在の自然教育園)があったとの事でした。この火薬庫は海軍省・陸軍省の管理でしたが、大正2年(1913)に火薬庫は廃止され、大正6年(1917)宮内省帝室林野局の所管となり、白金御料地と呼ばれることになったそうです。
余談ながら、火薬製造所跡地の大部分は、海軍技術研究所を経て、現在、防衛省防衛研究所となっているそうです。
そこには、
「明治時代には火薬庫となり、海軍省・陸軍省の管理となりました。しかし、大正2年(1913)に火薬庫は廃止され、大正6年(1917)宮内省帝室林野局の所管となり、白金御料地と呼ばれ、大正10年(1921)に御料地の一部が朝香宮の邸地となりました。」とあり、ここが火薬庫だった事を初めて知りました。
この地の近くには幕末期から火薬製造工場があったのも一要因でしょうか?
安政4年(1857年)、幕府はそれまで千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(えんしょうぐら、「火薬庫」)を目黒の三田村に移転したそうです。この地は水が豊富だったので砲薬調合用の水車場を設け、「目黒砲薬製造所」を作り幕府の軍事力強化に一役買ったとのことです。そして明治維新後も新政府は、内乱の鎮圧と対外進出に備えて兵器・火器の補強を図るため、新たに火薬製造所を作りましたが、それが旧幕営砲薬製造所跡の目黒の三田村で、「目黒火薬製造所」となったそうです。当時の東京には、東京砲兵工廠(明治3年操業、現在の後楽園)と目黒火薬製造所(明治18年海軍による操業、明治26年陸軍に移管・現在の防衛省技術研究所)があり、白金には火薬庫(現在の自然教育園)があったとの事でした。この火薬庫は海軍省・陸軍省の管理でしたが、大正2年(1913)に火薬庫は廃止され、大正6年(1917)宮内省帝室林野局の所管となり、白金御料地と呼ばれることになったそうです。
余談ながら、火薬製造所跡地の大部分は、海軍技術研究所を経て、現在、防衛省防衛研究所となっているそうです。