今日は元宵節(げんしょうせつ)
この言葉に初めて出会ったのは、10年以上前、確か1999年か2000年だったような、
長崎に赴任していた当時、市内のある小さな中国寺でその謂れに触れ、その時近所の方々が元宵団子をふるまってくれた。
その時のほんのり甘さが残る味が忘れられない。
新年になって初めての満月の夜にその団子を食べながらお祝いするとか。もちろん無病息災も含めての事だと思うが、その時のお話はすっかり忘れてしまった。ただその団子は満月にちなんでおり、丸いなべでその団子をゆでる訳だがまるで天空に満月があるような気分になった。
ここからは引用:
「元宵節の由来は漢代にまでさかのぼることができる。漢朝の実権を掌握した呂后が崩御すると国内では諸呂の乱が発生、これを平定した陳平等により劉桓が皇帝に推戴された。反乱平定を達成したのが正月15日であったことより、以降皇帝は毎年この日に宮殿を出て民衆と共に祝賀したことに由来する。この日を文帝により元宵節或いは元夜、元夕と命名された。」
「元宵節には湯円を食べる習慣がある。湯円はもち米を原料とした団子であり、中には様々な具が入れられる。甘いものとしては砂糖、胡桃、ゴマ、小豆餡、氷砂糖などが、塩辛いものとしては肉や野菜で作られた具が入れられる。」
あれは元宵団子ではなく「湯円」なんですね。
「熱湯の入れられた鍋で茹でる際、湯の中で団子が踊る姿を天に輝く満月に見立てた。そして家庭が団円(円満の意味)と音が似ている「湯円」という漢字が使用され、宋代の周必大も『元宵煮浮円子」という詩の中で「今夕是何夕、団円事事同」と表現し、現在でも台湾では「吃了湯円好団円」という民謡が広く知られている。
元宵節に湯円を食べる由来は唐代に元宵節に食べられていた麺蚕にさかのぼることができる。宋代になると乳糖円子と称されるようになりこれが湯円の前身であると考えられる。宋代の詩人周必大による『元宵煮浮円子』という漢詩の中に「星爛烏雲里、珠浮濁水中」という一文があり、現在の湯円に近い形態であったと想像される。
明代になると元宵の名称で呼ばれることが多くなる。劉若愚の『酌中志』にその製法が記載[4]されている。また清代になると八宝元宵と称される湯円が美食として知られるようになり、元宵節に欠かせない料理として定着していくこととなった。」
こんなことを思いながら、今夕の団子を思い浮かべている。
この言葉に初めて出会ったのは、10年以上前、確か1999年か2000年だったような、
長崎に赴任していた当時、市内のある小さな中国寺でその謂れに触れ、その時近所の方々が元宵団子をふるまってくれた。
その時のほんのり甘さが残る味が忘れられない。
新年になって初めての満月の夜にその団子を食べながらお祝いするとか。もちろん無病息災も含めての事だと思うが、その時のお話はすっかり忘れてしまった。ただその団子は満月にちなんでおり、丸いなべでその団子をゆでる訳だがまるで天空に満月があるような気分になった。
ここからは引用:
「元宵節の由来は漢代にまでさかのぼることができる。漢朝の実権を掌握した呂后が崩御すると国内では諸呂の乱が発生、これを平定した陳平等により劉桓が皇帝に推戴された。反乱平定を達成したのが正月15日であったことより、以降皇帝は毎年この日に宮殿を出て民衆と共に祝賀したことに由来する。この日を文帝により元宵節或いは元夜、元夕と命名された。」
「元宵節には湯円を食べる習慣がある。湯円はもち米を原料とした団子であり、中には様々な具が入れられる。甘いものとしては砂糖、胡桃、ゴマ、小豆餡、氷砂糖などが、塩辛いものとしては肉や野菜で作られた具が入れられる。」
あれは元宵団子ではなく「湯円」なんですね。
「熱湯の入れられた鍋で茹でる際、湯の中で団子が踊る姿を天に輝く満月に見立てた。そして家庭が団円(円満の意味)と音が似ている「湯円」という漢字が使用され、宋代の周必大も『元宵煮浮円子」という詩の中で「今夕是何夕、団円事事同」と表現し、現在でも台湾では「吃了湯円好団円」という民謡が広く知られている。
元宵節に湯円を食べる由来は唐代に元宵節に食べられていた麺蚕にさかのぼることができる。宋代になると乳糖円子と称されるようになりこれが湯円の前身であると考えられる。宋代の詩人周必大による『元宵煮浮円子』という漢詩の中に「星爛烏雲里、珠浮濁水中」という一文があり、現在の湯円に近い形態であったと想像される。
明代になると元宵の名称で呼ばれることが多くなる。劉若愚の『酌中志』にその製法が記載[4]されている。また清代になると八宝元宵と称される湯円が美食として知られるようになり、元宵節に欠かせない料理として定着していくこととなった。」
こんなことを思いながら、今夕の団子を思い浮かべている。