みっちっちのブログ

みっちっちの笑顔いっぱいの日々(*^_^*)

2017年10月頃の事

2020-11-21 07:35:42 | 日記
2017年の10月頃の母をよく思い出す。
母が亡くなる4ヶ月前、
ちょうどコウノドリ2期の頃の事。

このブログでは、
介護が忙しいと少し触れる程度だった。

母と二人で実家暮らしをしていた。
弟が土日に来てくれたので、その間だけ自宅に帰った。
土曜は母のデイサービスの日なので、
朝、私が見送って、夕方、弟が迎える、
という役割分担をした。

弟も忙しい仕事なのに、大事な休日を全部母の為頑張ってくれた。

母は肺がんの骨転移があって、痛み止めのテープを一日一回張りかえて、痛みはコントロール出来ていたけど、寝る時間が増えていた。

でも起きている時は、
一緒にテレビを見たり、一緒に簡単な体操をしたり、
つたい歩きの手すりを介護保険で付けてもらったので、
一人でトイレも行く事が出来た。

デイサービスも楽しんで行ってたけど、

10月の半ば過ぎ頃から弱っていって、もっと寝る事が多くなった。
母の口ぐせは、
ベッドに入って、にこにこと「ああ~極楽~極楽~」だった。
可愛かった(笑)


その頃、
母が玄関でよろけそうになり、
咄嗟に助けようとして、母は助かったものの、
私がよろけてたたきへ落ちて、
左足小指外側のつけね辺りを骨折してしまった。
悪い事に私は裸足だったのだ。

痛かったので、母がデイサービスに行ってる間に整形外科で診てもらい、
足首上までのギブスと両松葉杖姿になってしまった。

左足なので車の運転はできたが、買い物も大変、介護も大変、家事も大変、
何もかも大変で、
泣きたい気分だった。

あまり動かずに二週間後に来てと病院には言われたけど、
数日で、このままでは母の介護はもう無理と思い、
近くの接骨院に相談に行き、その接骨院の系列病院でギブスを外してもらい、接骨院で簡素な楽なはめものを作って貰えて、
大げさなギブスからは解放された。
親切な接骨院だった。親身に、母の介護の大変さを考えて下さった。

最初の整形外科、
足首まで固定する必要があったのか、なかったのか、
ま、多分あったのだろう、
でもあのギブスと松葉杖では本当にもう介護は無理だったのだ。

あの頃、
いつもスポーツでは体力のある私でも、もう疲れて、疲れて、
母が昼寝してる時は私もバタンキューと倒れるように眠りこけた。

接骨院のは簡素なはめもので、上にサポーターをしっかりはめても、
まだ痛くて「びっこを引く」という感じで大変ではあったけど、
ギブスよりかはずっと楽に動けるようになった。



母は、段々と寝る時間が増えて、デイサービスへ行っても、寝てる事が多かったそうだ。





私は本当に怖かった。辛かった。
2015年6月に告知されてた余命二年はとっくに過ぎて、
元気だと思っていたのに、やっぱり弱ってきたのだ。
私自身が思うように動けない不甲斐なさ、
そんな私を見る母も辛かったんだろう。
こんな格好で辛い母を看るのは、お互いに辛さが倍増するかのようだった。



呼吸も辛そうにしている事が増えた。
今にも呼吸が停まるのか、寝てる間に停まったらどうしよう、
とか考え、やっぱり辛くてたまらなかった。
母の前では明るくしていたけど、泣いてしまう事もあった。






そして、10月の末、
評判をよく聞いていた私の自宅近くの緩和ケア病院を見に行く事にした。

その日、弟も夫も仕事を休めず、「びっこ」を引き引き一人で母を連れて病院に行った。
はじめは辛い気持ちでいっぱいだった。


先生が診断して下さって、いい個室があったし、母も気にいったので、お願いする事にした。



11月1日入院

母は、緩和ケアとは知らず普通の綺麗な病院と思ってたのだろう。
入院した時は、一週間しかもたないと言われたのに、急に元気を取り戻したのだ。
母は安心し切った顔で何だか楽しそうだったのだ。
食欲もなかったのに、私がアイスクリームを食べさせると完食し、それから食事も完食するようになった。

私は朝から晩まで、母の個室で暮らしているかのようだった。
足の骨折も段々と癒えていった。

家族に寄り添って下さるボランティアの方とか、グランドピアノを弾いて下さるピアニストの方、
家族の気持ちもケアして下さる、いい病院で、母も私も安心して楽しく暮らせたと思う。

ボランティアの方は優しくて、色んな話をして癒された。
先生や看護師さんも皆優しかった。
クリスマス会では先生はトナカイの仮装をされてた(笑)
先生に「私もいつかこの病院に入りたいです~」なんて事を言ったら、
先生は笑いながら、「その頃にはこの病院はないかもですね~」との事だった。

緩和ケアはなくなる傾向にあるという。
本心から残念だ。


母は看護師さんとしゃべったり明るく可愛い笑顔を最後まで見せてくれた。

食事も、前日まで私が少しずつ食べさせて、楽しそうに食べてくれた。

緩和ケアでは治療は全くしない。
酸素の管を必要に応じて鼻に挿入する位で、
痛み止めも結局家で張ってた同じ量のテープを一日一回張るのみで、
最後まで痛みは全くなかった。
点滴も薬も全くなかった。

寝る時間が増えていって、そのまま老衰という感じだった。
2月16日、母90歳、
まるで、口ぐせの「あ~極楽~極楽~」と言ってるかのような、
安らかな顔で逝ったのだった。


病院で二人で過ごした最後の3ヶ月半。
私は楽しかった。母も楽しかったと思う。
母といっぱい話せてよかった。
母にありがとうと言えてよかった。

本当にありがとう、お母さん。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする