年末と言えば
いつも思い出す頃の事…
昨日、
何故か、このブログの人気記事二位に入ってた、
「2017年10月頃の事」(2020.11.21記)の記事。
私も、
もう一度読んでみた。
もう母は駄目なのかも…という絶望的な気持ちを抱え、
私は左足の小指を骨折して大変な状況だった。
左足は足首までギプスで固定され、慣れない両松葉杖姿で、一歩歩くのも転けそうだった。
弟も夫も仕事が忙しく、一人で母が死んでしまうのかという辛さと戦っていた。
特に夜が怖かった。誰も助けてくれない、私一人で頑張らないとと思った。
まず、
私の足はどうなってもいい、母の介護をしなければ、
母はもう寝たきり、瀕死の状態…その介護が一番大事なのに…
近くの接骨院を見つけ、ギプスを取ってくださいと頼みに行った。
多分、頼みながら私は泣いていたと思う。母の介護をしなければならないのに、私は一歩で転けそうなのだから…
接骨院の先生は本当に親身になって考えてくださった。
多分ギプスをしてまだ3日目位だった。
接骨院ではギプスを外す事は出来ないので、他の病院を紹介して貰い、車ですぐ行って下さいと言われた。
「母を助けなければ…私の足はもうどうなってもいいから…」と涙をぼろぼろ流しながら、初めてのちょっと遠い病院まで車を走らせた。
その病院で、「え!本当にいいんですか!?」と言われながら、ギプスを外して貰った。
結構、外すの大変なんだよね、凄く時間が掛かった。
そして、すぐ元の接骨院に戻った。そこの先生の優しさには涙が出た。
小さいギプスにして貰えて、
「一歩で転けそうになる」という状況からは脱して、両松葉杖から、ひとつの松葉杖だけで歩けるようになった。それでも大変ではあるけど、よっぽどましになった。
母がデイサービスに行ってる間に、何とか間に合った。
母はデイサービスに行っても、ずっと苦しそうに寝ている状態だった。
確かこの日が最後のデイサービスとなった。
母は家でもずっと苦しそうにしていて、夜私が見てない時に死んでしまうのではないか、と私は怖かった。
ギプスを取った2.3日後に、
緩和ケア病棟に診察に行くことにした。
私が一人で考えて、弟には事後報告だった。
病院に行く日も一人で行った。弟も夫も仕事が忙しく休めなかった。
この日が本当に本当に、大変だった。
ふらふらの寝たきりの母と、びっこをひいて松葉杖の私。
両松葉杖からひとつの松葉杖になったとは言え、大変だった。
病院の玄関口に車を止め、車椅子を借りに行って、車から母を出し車椅子に乗せる。
車椅子に母を乗せるのは、松葉杖を使う私一人では無理なので、職員の方にお願いしに行った。
後で考えれば、緩和ケア病棟のどなたかに協力をお願いしとけばよかったかも知れない。
でも私の怪我の事まで言うのをためらったのかも知れない、その頃の私は…
病院の窓口まで何とか行って来訪を告げたら、緩和ケア病棟の方が来て、車椅子を押して、案内して下さった。私は片松葉杖を使って、後を追うのも大変な位のていたらくだった。
緩和ケアの優しそうな先生にやっとお会いでき、松葉杖姿の私を見て、大変でしたね~と優しく声を掛けられた時は、もう胸がいっぱいだった。
ぐったりした母を見て、もう長くないと思われたのかも知れない。
なるべく早く連絡しますね
と言われ、実家に母を連れ帰った。これ又、大変だった。何とか一人で頑張った。
私は、何とか母の介護を頑張って、母とずっとずっと一緒にいたいという気持ちでいっぱいだった。何とかなる。母は私が見る、という気持ちでいっぱいだった。
緩和ケア病棟の素晴らしさがまだわかってなかったかも知れない。
多分2日後位に連絡があり、次の日が入院となった。
明日入院するよと言うと、
何と、母が入院を喜んでるのだ!
「よかった~」とうきうきして笑っていた。
母は元々いつも笑っている人なのだ。
きっと、母は私の怪我が辛かったのだと思う。
自分のせいで娘に怪我をさせて苦労させてる、
と思ってたのかも知れない。
それで、
元々楽しかった2人暮らしが、私の怪我で重苦しくなってたのかも知れない。
お母さん、ごめんね、
そんな思いをさせて、
二人で病院で頑張ろねと思った。
そして、
11月1日、入院の日、母はうきうきと嬉しそうだった。
綺麗な個室。眺めもいい。看護師さんもめちゃ優しい。
実は、先生には後一週間も持たないと言われてた。
でも、母は私があげたアイスクリームがおいしかったらしく、それを期に食べれなかった食事が
いっぱい食べれるようになった。
私は一日中、母と一緒にいた。
しばらくは病室で夜も寝たけど、夜は自宅に帰るようになった。
朝から夜まで病室で一緒に暮らした。
母に食事を食べさせて、私も食べ、
楽しかったんだよね。
一週間しか持たないと言われた母が元気を取り戻し、楽しく、それから3ヶ月半も一緒に暮らしてくれたんだよね。
本当に楽しい3ヶ月半だった。
母は、布団に入って「あ~極楽~極楽~」と可愛い顔でいうのが口癖だった。
最後は、
苦しみもなく安らかに、
「あ~極楽~極楽~」と言うかのように
逝ったのだった。
冬になると、
この頃の事をよく思い出す。
楽しかった最後の3ヶ月半を思い出す。
今、
コロナ禍で、入院のお見舞いも付き添いも全く出来ないと聞く。
患者さんも家族も辛いだろうなあと思う。
一日も早い終息を祈うばかりだ。
いつも思い出す頃の事…
昨日、
何故か、このブログの人気記事二位に入ってた、
「2017年10月頃の事」(2020.11.21記)の記事。
私も、
もう一度読んでみた。
もう母は駄目なのかも…という絶望的な気持ちを抱え、
私は左足の小指を骨折して大変な状況だった。
左足は足首までギプスで固定され、慣れない両松葉杖姿で、一歩歩くのも転けそうだった。
弟も夫も仕事が忙しく、一人で母が死んでしまうのかという辛さと戦っていた。
特に夜が怖かった。誰も助けてくれない、私一人で頑張らないとと思った。
まず、
私の足はどうなってもいい、母の介護をしなければ、
母はもう寝たきり、瀕死の状態…その介護が一番大事なのに…
近くの接骨院を見つけ、ギプスを取ってくださいと頼みに行った。
多分、頼みながら私は泣いていたと思う。母の介護をしなければならないのに、私は一歩で転けそうなのだから…
接骨院の先生は本当に親身になって考えてくださった。
多分ギプスをしてまだ3日目位だった。
接骨院ではギプスを外す事は出来ないので、他の病院を紹介して貰い、車ですぐ行って下さいと言われた。
「母を助けなければ…私の足はもうどうなってもいいから…」と涙をぼろぼろ流しながら、初めてのちょっと遠い病院まで車を走らせた。
その病院で、「え!本当にいいんですか!?」と言われながら、ギプスを外して貰った。
結構、外すの大変なんだよね、凄く時間が掛かった。
そして、すぐ元の接骨院に戻った。そこの先生の優しさには涙が出た。
小さいギプスにして貰えて、
「一歩で転けそうになる」という状況からは脱して、両松葉杖から、ひとつの松葉杖だけで歩けるようになった。それでも大変ではあるけど、よっぽどましになった。
母がデイサービスに行ってる間に、何とか間に合った。
母はデイサービスに行っても、ずっと苦しそうに寝ている状態だった。
確かこの日が最後のデイサービスとなった。
母は家でもずっと苦しそうにしていて、夜私が見てない時に死んでしまうのではないか、と私は怖かった。
ギプスを取った2.3日後に、
緩和ケア病棟に診察に行くことにした。
私が一人で考えて、弟には事後報告だった。
病院に行く日も一人で行った。弟も夫も仕事が忙しく休めなかった。
この日が本当に本当に、大変だった。
ふらふらの寝たきりの母と、びっこをひいて松葉杖の私。
両松葉杖からひとつの松葉杖になったとは言え、大変だった。
病院の玄関口に車を止め、車椅子を借りに行って、車から母を出し車椅子に乗せる。
車椅子に母を乗せるのは、松葉杖を使う私一人では無理なので、職員の方にお願いしに行った。
後で考えれば、緩和ケア病棟のどなたかに協力をお願いしとけばよかったかも知れない。
でも私の怪我の事まで言うのをためらったのかも知れない、その頃の私は…
病院の窓口まで何とか行って来訪を告げたら、緩和ケア病棟の方が来て、車椅子を押して、案内して下さった。私は片松葉杖を使って、後を追うのも大変な位のていたらくだった。
緩和ケアの優しそうな先生にやっとお会いでき、松葉杖姿の私を見て、大変でしたね~と優しく声を掛けられた時は、もう胸がいっぱいだった。
ぐったりした母を見て、もう長くないと思われたのかも知れない。
なるべく早く連絡しますね
と言われ、実家に母を連れ帰った。これ又、大変だった。何とか一人で頑張った。
私は、何とか母の介護を頑張って、母とずっとずっと一緒にいたいという気持ちでいっぱいだった。何とかなる。母は私が見る、という気持ちでいっぱいだった。
緩和ケア病棟の素晴らしさがまだわかってなかったかも知れない。
多分2日後位に連絡があり、次の日が入院となった。
明日入院するよと言うと、
何と、母が入院を喜んでるのだ!
「よかった~」とうきうきして笑っていた。
母は元々いつも笑っている人なのだ。
きっと、母は私の怪我が辛かったのだと思う。
自分のせいで娘に怪我をさせて苦労させてる、
と思ってたのかも知れない。
それで、
元々楽しかった2人暮らしが、私の怪我で重苦しくなってたのかも知れない。
お母さん、ごめんね、
そんな思いをさせて、
二人で病院で頑張ろねと思った。
そして、
11月1日、入院の日、母はうきうきと嬉しそうだった。
綺麗な個室。眺めもいい。看護師さんもめちゃ優しい。
実は、先生には後一週間も持たないと言われてた。
でも、母は私があげたアイスクリームがおいしかったらしく、それを期に食べれなかった食事が
いっぱい食べれるようになった。
私は一日中、母と一緒にいた。
しばらくは病室で夜も寝たけど、夜は自宅に帰るようになった。
朝から夜まで病室で一緒に暮らした。
母に食事を食べさせて、私も食べ、
楽しかったんだよね。
一週間しか持たないと言われた母が元気を取り戻し、楽しく、それから3ヶ月半も一緒に暮らしてくれたんだよね。
本当に楽しい3ヶ月半だった。
母は、布団に入って「あ~極楽~極楽~」と可愛い顔でいうのが口癖だった。
最後は、
苦しみもなく安らかに、
「あ~極楽~極楽~」と言うかのように
逝ったのだった。
冬になると、
この頃の事をよく思い出す。
楽しかった最後の3ヶ月半を思い出す。
今、
コロナ禍で、入院のお見舞いも付き添いも全く出来ないと聞く。
患者さんも家族も辛いだろうなあと思う。
一日も早い終息を祈うばかりだ。