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16日アーノンクール (指揮アルノルト・シェーンベルク合唱団 (合唱)

2006-11-17 | 外来指揮者・ウィーンフィル・交響楽団
         11月16日(木)NHKホール 1F R3-12 13000円・ヤヤ高い

私の席が1階右側で、好きなティンパニと合唱男声が良く聴こえました
ソプラノの歌唱が素晴らしい・・FMで生放送でしたね、録音しているので時間が出来たら聴き直してみます。
大阪でレクイエム再聴きする予定です
オケの印象は、意外と大人しい演奏・・オケ集団としても大人・おとな熟成されてます。
主役は合唱ですか・・素晴らしいですね。

何しろ 音楽の祈り 音楽の祈り 慈悲 旋律が綺麗、
 気持ち良い・・眠い 眠い・・氣持ち良い

ニコラウス・アーノンクール (指揮)
アルノルト・シェーンベルク合唱団 (合唱)
  堀内 修(音楽評論家)
[合 唱]   アルノルト・シェーンベルク合唱団
〈ソリスト〉
ユリア・クライター(ソプラノ) ベルナルダ・フィンク(アルト)
ウェルナー・ギューラ(テノール)ルーベン・ドローレ(バス)
[曲目]
モーツァルト/「主日のための夕べの祈り」 K.321
モーツァルト/レクイエム ニ短調 K.626

ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス

■ニコラウス・アーノンクール(指揮)
(c)Marco Borggreve
1929年ベルリン生まれ。ウィーンでチェロを学び、ウィーン交響楽団にチェリストとして在団。1953年にウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを結成し、古楽のオリジナル楽器による演奏普及に努める。70年代にはチューリヒ・オペラを中心にヨーロッパの主要オペラハウスでモンテヴェルディから近代までの幅広いオペラ・レパートリーを指揮。近年は、ウィーン・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボー管などのオーケストラへの客演も多く、古楽の経験を生かしたモダン楽器による演奏で数々の録音も行っている。楽譜を歴史的なコンテクストのなかで徹底的に読み直した演奏は常に新鮮な驚きに満ちており、現在最も尊敬され注目される巨匠の1人である。

■ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
1953年ニコラウス・アーノンクールによって結成された。以来、半世紀を経た今も、オリジナル楽器による演奏をリードするトップ・アンサンブルとして活躍している。1970年に開始したバッハのカンタータ全曲録音をはじめ、膨大な数のレコーディングは内外のさまざまな賞に輝いている。バッハ《ロ短調ミサ曲》とモンテヴェルディの3つのオペラ作品ならびに《聖母マリアの夕べの祈り》の録音は、時代を画する名演として古楽演奏の国際的な基準となった。ウィーンでの定期的な演奏に加え、ヨーロッパ各地へのツアーも行っている。プログラムでは主にモーツァルト、ハイドン、ヘンデルを取り上げ、ソリストにはメゾソプラノのチェチーリア・バルトリ、ソプラノのエヴァ・メイ、バーバラ・ボニーらを迎えている。

■アルノルト・シェーンベルク合唱団
アルノルト・シェーンベルク合唱団は、現在芸術監督を務めているエルヴィン・オルトナーにより1972年創立。メンバー全員が広い経験を有した声楽の専門家であり、ウィーン音楽大学の在学生ないし卒業生である。そのレパートリーは、ルネサンスから同時代の作品、ア・カペラから大編成のオーケストラを伴う作品、オペラまでと幅広く、アバド、ムーティ、マゼールのような著名な指揮者と共演している。アーノンクールとは20年以上前から活動をともにしている。これまで、ザルツブルク音楽祭、「ケルンテンの夏」音楽祭、グラーツの「スティリアルテ」音楽祭、ウィーン芸術週間、「ウィーン・モデルン」音楽祭、東京での「ポリーニ・プロジェクト」などに出演。1994年には、「クラシック音楽賞」で年間最優秀賞を受賞。

無能庵 独言

2006-11-16 | 無能唱元・唯心円成会
天に 星あり 地に 花あり

人に 情けあり 我に 迷いあり

幻に 住み 幻に遊ぶ

生を 楽しむこと 悠々 我はこれ 俗中の仙

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
星に 光あり 地に 光あり

人に 光あり 我に 光あり

地球に 光あり 幻は 光をくもらす

幻に 光あり  我は 俗 の 光

盤珪禅師の 意外な答え Ⅱ

2006-11-15 | 無能唱元・唯心円成会
それは、この鋳物師に対する慈悲心からなのです。罪の意識に恐れおののいている弱い凡夫を見た時、とっさに盤珪の慈悲心は発動し、このような寛容な答えとなったのです。

 では、盤珪は無法なことや不道徳なことを、いつでも、どうでもいいと思っていたのでしょうか? いいえ、そんなことはありません彼には次のような逸話もあります。

 盤珪が旅の途中で、渡し舟に乗った時のことです。
渡し守が、舟を岸に寄せ、陸に積んであった薪を、舟に積み込み、盗もうとしました、この時、客は盤珪一人であり、あたりに人影もなかったので、渡し守り悪心を起こしたのです。盤珪は、「盗んではならぬ」と渡し守に言いました。「うるさい、坊主、黙ってひっこんでいろ!」と渡し守は凄みました。「どうしても盗むなら、わたしを殺してから盗め。わたしはお前を泥棒にすることはできぬ」渡し守は、とうとう薪を盗むことができず、舟を置き去りにして、去って行ってしまいました。

 さて、前者の鋳物師の場合の、でたらめとも思える寛大さと、後者の渡し守の場合に見る、命を賭してまで示した厳しさと比べてみる時、そのどちらが本来の盤珪の姿なのでしょうか?
 実は、この両者とも、盤珪の本質ではないのです。あるいは又、両者とも、盤珪の本質なのです。そこには、固定した本質というものがある訳ではありません。
 盤珪は、ものごとを、本質をもって見たのではなく、虚心をもって見たのです。
すると、彼の心内には、パーニャの力がどっと流れこんできたのです。そして彼の心を満たしたこのパーニャが、その時、最も必要とされる行為を彼にとらせたのでした。すなわち、ある時は、並外れた寛大さを・・そして又ある時は、命がけの厳しさを・・
 盤珪はこれを「仏心の発露」というように表現しております。
 私に言わせれば「心を虚にして、そのあるがままを見つめれば、そのパーニャの力はおのずから生じてくる」のです。
 そして、盤珪禅師は、この力のことを「不生」という名をもって呼んだのでした。
(パーニャは般若の原語です)
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あるがまま 見る なにもたさない なにもひかない・・
善 と 悪 真・信 偽り  目線を低く・・あるがまま


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唱元氏とは関係有りませんが↓盤珪禅師・・法話もあります
瑞雲院のHP


盤珪禅師の 意外な 答え

2006-11-15 | 無能唱元・唯心円成会
盤珪禅師の意外な答え
 ある時、ある鋳物師が、盤珪禅師に尋ねました・「私は鍋釜に穴があいた失敗作品ができますと、その穴を「そっくい」(飯粒をつぶして作った糊)でふさいで、見えないようにし、無きずの完成品だと言って売っておりますのが、どうも気になっております。
 こういうことをしていると、その罪で、いまに罰・ばち があたるでしょうか?」

この返答に、盤珪は驚くべき答えを出しているのです。
盤珪は彼に聞きました。「それは、お前だけがしていることか?」鋳物師は
「いいえ、世間では皆同じようなことをしております」と言いました。
盤珪「夜中に売るのか?」鋳物師「いいえ、真昼間に売ります」そこで盤珪はこう言って聞かせました。
 「相手の買い手も目があって買うのだ。もし、きず物を無き きずだと言って、夜中に売れば、罪になることだが、真昼間のことだから、向こうきず物だとわかったら買うまい、余り悔やむほどのことでもない。そんなに気にするな」

こんな、法にも触れるし、あきらかに人の道にもはずれた行為を「あまり悔やむほどのことでもない」と、しゃあしゃあと言ってのけた盤珪の図太さには、私もあっけにとられました。なぜ、盤珪はこんなことを言ったのでしょう?

 それは、この鋳物師に対する慈悲心からなのです。罪の意識に恐れおののいている弱い凡夫を見た時、とっさに盤珪の慈悲心は発動し、このような寛容な答えとなったのです。

つづく

魂 と 体 Ⅱ

2006-11-14 | 無能唱元・唯心円成会
それはまるでペット・魂 か何かのように、首輪と手綱を付けて、手元にしっかり据えつけておかなければいけない、といったそんな感覚なのです・

 しかし、これも考えてみれば無理からぬことかもしれません。あるがまに、私が私を直視してみれば、私の体は老化が始まっているのです。口の中の歯は、もう五本も私の体から、おさらばして行きました。血気盛んだった・・若きころと比べれば・・青年時代の生命エネルギーは、やはり体を出て行ってしまったことを意味しております。
 ですからペット・魂・(生命力の根源です) がなんとなくフワフワして、浮氣っぽくなっているのも何となく解ろうというものです。

 ところがです、こうなってみるとつまり、魂に手綱をつけて、手元に引き据えておかなければならなくなると、この魂 の素晴らしさが初めて解るのです。
こんな可愛いペット・魂 を、あまり大切にしていなかった自分が、多いに反省されてくるのです。
 それと同時に、今までそれほど重視もしなかった人生の楽しい瞬間が、とてもクリアに感じとれるようになってくるのです。夏の朝の涼しい風。初夏の新緑の並木道、予期していなかったお金が突然手に入った時
「ああ、人生って、なんて楽しく、面白いことが一杯あるのか」
 こういう素晴らしい気付きが得られたのも「魂のゆらぎ」を感じ始めたかれです。思いがここに至った時、私はこれからの人生を一層、自分の魂と体に氣をつけて、楽しい人生を創造してゆかねばと決意した次第です。

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天風は、身と心を、統一しなければ成らないと云いますね・・心身一如 と

病をして・・健康の有り難さを知り・・
心・魂 が 体を覆って・・包みこみ・・魂・心が身を統御する・・と