6月19日深夜2;13に
入院していた病院より緊急連絡があり、
着いて直ぐに対面しました。
呼んでも既に返事はなく、天国に赴いたようです。
当直の医師より診断があり臨終の告知がありました。
手を握り、顔などを妻と丁寧に拭いてあげました。
手はまだ温かく柔らかにしていましたが、
4;00頃には冷たく堅くなり始めました。
四時過ぎに霊柩車が迎えに来ました。
母は2週間程前に一度危篤の知らせがあり、
その時、入院後初めての対面が許されました。
原則コロナの為、禁止ですが日曜日であったことだし、
「危篤ということで特別に許可した」とのことです。
当初血圧が40くらいまで下がり、危機的でした。
ところが、
駆けつけて顔や手足をなでている内に120~90まで戻り、
一旦帰宅しました。医師が言うには奇跡が起きたようですと、
お話がありました。その後自宅待機していました。
この日、二度目の危篤の知らせでは、もう奇跡は起こりませんでした。
葬式場につくと通夜と葬式の打ち合わせを行いました。
二十日夕刻六時より通夜を執り行い、二十一日八時半より、葬式、火葬、
など諸々の主な行事を終了しました。
私の脳裏には母の戦中、戦後の生き様が走馬灯のように
何度も巡っていました。
父が、終戦直後に帰還し、大阪市に住んでいた母は大急ぎで
佐賀にある郷里に帰ったそうです。
父は満州の戦線に出陣していましたが、
日ソの不可侵条約後一時帰郷し、
一週間ほど休暇があり、その間に祖母と母の兄に勧められ、
簡単に結婚式を済ませたそうです。
その後、出陣命令があり、直ぐにフィリピン戦線に向かったそうです。
その後しばらく終戦まで大阪の家族達と共に生活していたようです。
そして、終戦の日を迎えました。
父は無事帰還しましたが、不幸なことに今で言う「PTSD]に
罹っていたようです。
ここから母は苦難の人生を迎えた様です。
父は一族に迎えられ、
実家の農業を継ぐ予定でしたが務まりませんでした。
また就職も決まらず職を転々としました。
母はそこで慣れない農業や家事仕事で
女中奉公のように働いたそうです。
昭和20年末に
戦地フィリピンから佐賀県の諸富町に父が帰還し、
21年末にそこで姉が生まれ、
その頃父は農協へ供出用の米を使い込み一族会議ののち
実家から勘当され追い出されてしまいました。
4町以上の田畑を私有していたというので相当な額だったようです。
こんな男に一族郎党を任せられないということになったのでしょう。
その後転々として、
24年に私が福岡県の今の筑後市羽犬塚で生まれました。
28年に佐賀県の炭鉱の町、小城で次女が生まれ、
末女が31年に佐賀県三田川村(今の吉野ヶ里町)で生まれました。
この日、母が産気づいたとき父は飲み歩いていて、
苦しむ母に頼まれ父を捜し回ったことを記憶します。
本当にあり得ない時代であったと思います。
世を正しく見定め、
国民大勢のための政治を心がけないで、
自らの利益のために行動すると
再び同じ失敗を犯しかねない時代を
迎えるでしょうね。
この中をくぐって生きてきたお母さまに敬意を表します。
お悔やみ申し上げます。
私も 戦争未亡人だった母を救急車の中で
手を握り冷たくなってく姿を思い出しました。
戦後の子育ての苦労は大変だったことでしょう。
ご冥福をお祈りいたします。
そして再びあんな時代が来ないことを!
今夜はキレイなお月さまが出ています。
お母さまの ご冥福をお祈り申し上げます(合掌)