20年ぶりに自転車に乗っている。四条河原町の銀行からの帰り道、雨が降り出した。しばらく川端通を走ったけれど、雨に濡れて冷たくなってきた。川端通四条と三条の間の新門前通に赤い傘を見つけて、雨宿り。通りの南北に番傘を模した休憩所がある。傘の下には、石造りの椅子が4~5個。街路樹は、紅葉が始まっていた。
雨が止むまで10分ほど待って、東大路通を北へ上がり熊野神社を目指した。バスで何度も「熊野神社前」というアナウンスを聞いたことがある。どんな所だろうと思っていたのだ。
熊野神社は、その名の通り紀州の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)から熊野大神を勧請した神社である。811年、修験道の日圓上人によって開かれ、後白河法皇など皇族や公家の崇敬を集めた。1106年聖護院が建立されると、熊野神社は、その鎮守神となる。1162年、平清盛が奉遷使に任ぜられ、土砂や木材を紀州の熊野本社から運んだらしい。1221年承久の乱で没落、1467~77年応仁の乱で焼失するも、1666年聖護院宮道寛法親王によって再興された。1912年市電開通に伴い社域を狭められて今日に至る。主祭神は、イザナミノミコト、「相殿(あいどの)」と呼ばれる祭神は、イザナギノミコト、天照大神、速玉男神、事解男命。
熊野は、記紀の神が活躍した土地である。神武天皇は、高倉下命から捧げられた神剣を手に、天照大神が遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したのであった。熊野三山の神紋や牛王符には、八咫烏が描かれている。そして、ここ熊野神社でも、八咫烏は散見される。鳥居両脇の門に、拝殿の飾り瓦に、拝殿を飾る木彫り(足が一本しか見えないので自信はないが、やはりこれは烏だろう)に、拝殿前の提灯に。
写真(上・右)でも分かるとおり、菊の紋も使われている。また、次の写真からは、三つ巴も使われていることが分かる。三つ巴は、熊野三山の神紋でもある。ついでに言うなら、熊野本宮大社は八咫烏と三つ巴の併せ紋であり、菊紋も使用している。熊野速玉大社は五七桐も使用しているようだ。
境内には祖霊社、稲荷社、春日社があった。
これは、拝殿に隣接する祖霊社。氏子の祖霊を祀っている。次は稲荷社と春日社。稲荷社には、稲荷大神、金刀比羅大神を祀り、春日社には、春日大神、須賀大神、神倉大神を祀る。
この二社は、いつ頃どういう経緯で祀られたものなのだろう。少なくとも神倉大神は、熊野三山と関係があるのだが。神倉大神は、子どもの頃近くに住んで何度も行ったことのある神倉神社に祀られている神だ。速玉神社を新宮と言うのに対して、神倉神社は元宮と言われる。ご神体はゴトビキ岩で、元は自然信仰の場であった。熊野那智大社も同様に、那智の滝が信仰対象であったのが、その性格を変えてイザナギノミコトとイザナミノミコトを主祭神としている。須賀大神は、南部の須賀神社の神を指すのか、熊野の阿須賀神社の神を指すのか、それとも全然別の神社の神か・・・。熊野神社の由緒に関して、参考となるものがあまりに少なく、調べられずに消化不良気味。仕方がないので、別の角度から撮った写真でも最後に。
東大路通・丸太町通の角に位置し、人通りも車の通りも多い場所だというのに、鳥居をくぐれば、異空間だった。思ったよりも狭い境内なのに、大木が囲んでいて、静かで。ドングリが沢山落ちていて、苔むした木があって、山の中にいるみたいだった。
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