ラヴェンダーの咲く庭で

「みゃーきんぐ・ぷあ」から変更。保護猫と綴る日々の備忘録、独り言にすぎない半径5mの記録です!基本、読み専です。

お義母さんの思い出(と、東京湾の無人島)

2017-02-19 10:14:51 | 時は輝いている
快晴も快晴。10-1℃。

空気が澄み渡り、ドライブ中、窓から富士山が見える。


多動な旦那は朝から、目的もなくただ出かけたくて堪らない、
私は、今後の義実家の法事で金がかかる、(私の両親は自力で永代供養代まで30年分先に払ってしまっているので心配ない)
金がないので買い物などの用事以外は、普段通りに引き籠りたいという…。

人から見たら仲良さげな友達夫婦に見えるらしいが、
近頃は、休日はウロウロと暇を持て余して側に居られることすらが辛いw
まるで、夏休みに「どこにも連れて行ってくれないー。」と騒いでいる子供だ。
それが毎週エンドレス。
週末はストレスだが「今日を楽しみに働いているんだろうな。」と我慢している。

はじめはバイクに乗るのは反対だった、料理家のケンタロウのように事故を心配していたが、
今では「大型バイクでどこかに行ってくれぃ」と頼むと、「寒いから嫌だー」という、
皮ジャンだの色々揃えたのに。
ほとんど動いてないよ、ローン払っているバイク。(⇐銀行のお金は毎月マイナスにせっせと動いているが。)

さて、お義母さんの四十九日は3月4日だと思う(それより先に25日に納骨するが、)
仏教ではまだこの世をウロウロしているということなので、
お義母さんをインコのように、鬼太郎の目玉おやじのように肩にでも乗せて、
お義母さんの青春を過ごした横須賀に行こうではないか!と提案。

2015年の元旦の日にお義母さんは「死ぬまでに、もう一度横須賀に行きたい。」と騒いで、
長男、次男(=旦那)の運転で、大昔住んでいたところをドライブした。
そして、4日後の仕事始めの日に長男の末期がん(大腸がんの肝転移)が発覚、9月末に死亡、
義母は2017年の1月15日に誤嚥で死亡、
二人が亡くなるまでがとにかくあーだこーだで私の実家の両親より酷く、
死後も義実家に振り回されっぱなしのこの2年、色々在り過ぎた。


さて、横須賀に着いて、

東京湾には海堡(かいほう、かいほ)が浮かんでいる。
第一海堡は大昔、潮が引くと、自分の県側から浅瀬を渡って行けたものだった。
(潮の流れが変わり、今では渡れない。遠浅になっており、油断した元同僚はここで夜釣り中、命を落とした。)
唯一、観光客が行ける猿島は、軍事施設の跡が史跡にようやく認定され、(昔も漁船で夏の間だけ行けたが、)
今では観光船が出て、はとバスツアーの客がぞろぞろ、ツアーガイドさんもいて超観光地化している。


セメントで埋められた、軍艦三笠の脇から出航である。








即、上陸。























レンガもフランス積み、イギリス積みとか貴重な積み方があったと思う、
観光地化されていない頃に来た時は、ここの道も敷石や木の歩道など整備されておらず、もっとマニアックだった。
写真撮影、サバイバルゲーム目的、釣り人しかいなかった。
(横浜の赤レンガ倉庫も、廃墟の頃は良く行った。観光地化されてから本当に行かなくなった。)
















以前来たときは、この壊れた展望台でサバゲ―をしている人がいたり。


こんな立派なデッキなどなかった。


浜が潮の流れで小さくなっていた。

ガイドさんがついているグループ。



まだ整備されていないところ、以前は島中こんな感じだった。


島の一部の木は鵜の糞で枯れてしまっているが、
陸では悪さをしたその糞が、海中のプランクトンを育てたりで大活躍するそうだ。

ほんの小さな島一周が息が切れて、切れて、日頃の運動不足と、何よりも年齢を重ねたことを痛感する。
この島は、私達夫婦が結婚する直前に来たのだから、一瞬で過ぎていった月日に唖然とする。

さて、三笠の脇のパーキングに車を止めていたわけだが、
そこのパーキングの塀に停めてある自転車2台のカゴには、猫の餌満載。



ここにも猫のデリバリー屋さんがいるわけです!!感謝。

さて、義母の父、義祖父は戦艦赤城の教官だったので、軍港横須賀に勤務していたわけだ。

逸見という場所の小高い丘。

義母が子供時代過ごした家の方面を振り仰ぐ。

軍港だけあって、イージス艦や潜水艦が一杯。










あと軍港を見渡せる公園には、名前の由来の御雇い外人ヴェルニーさんの製鉄所の説明の為の資料館あり。










横須賀駅は思ったより小さく可愛い、





この鉄道レール再利用の軒など、素敵じゃあないか。

駅からお義母さんの住んでいた丘の家まではすぐ、
「見たことも無い義祖父さんは、毎日ここの前を通って港まで往復していたんだな」と感慨にふける。

戦争が激しさを増し、義母はここから千葉に疎開したのである。




そして、疎開先で終戦後、義父とお見合いし、夫婦仲が悪いのに旦那が生まれて、、、
「私達が結婚する」とドキドキしながら報告した時には、
反対どころか、心からの大喜びしてくれたのだった…。
二人が仲良くて嬉しいと。
最期まで、私の事は好いてくれたのだった…。

近頃の自分を反省。
コメント
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