気ままなピークハンターズの山旅

日本百名山の頂と風景や国内旅行を中心とした絶景を掲載致します

朝熊峠 伊勢神宮内宮が一望できる峠

2024-06-30 10:36:09 | 登山に通った峠道
こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は伊勢神宮内宮が一望できる峠 朝熊峠(あさまとうげ)
(あさくまとうげ)を取り上げてみたいと思います

朝熊峠 伊勢神宮内宮が一望できる峠 標高404m
伊勢参らば朝熊かけよ 朝熊かけねば片参宮と伊勢音頭の
一節にうたわれている 朝熊岳の金剛証寺は伊勢神宮の鬼門
を守る寺として知られ伊勢神宮参宮後はこの寺へも参るのが
良いとされてきた 朝熊峠 朝熊岳の金剛証寺

伊勢志摩スカイライン展望台から眺める伊勢湾方面
左端方向に伊勢神宮があります

伊勢志摩スカイライン展望台 案内図
左端方向に伊勢神宮

朝熊岳道の終点、二十二町にある朝熊峠
かつて朝熊峠にあった東風屋(とうふや)旅館跡

かつての朝熊峠にあった東風屋(とうふや)旅館
朝熊岳道の終点朝熊峠 金剛証寺に行くには
大正14年(1925年)の朝熊登山鉄道のケーブルカー開業以前は
神宮司庁(じんぐうしちょう)辺りから登る宇治岳道(うじたけみち)か
朝熊町辺りから登る朝熊岳道(あさまたけみち)から徒歩で登りました
宇治岳道と朝熊岳道が合流する朝熊峠に東風屋(とうふや)旅館がありました
現在は昭和39年(1964年)に開通した伊勢志摩スカイラインがあり、
スカイラインで金剛証寺に直行しますと東風屋旅館跡の前は通りません
自家用車で東風屋旅館跡に行くにはスカイラインを伊勢市側から登り、
金剛証寺の手前に八大龍王社(はちだいりゅうおうしゃ)入口の
看板がありますので、そこを左に入ります
しばらく進みますと宇治岳道と合流しますので右折します
左折しますと、ケーブルカーの山上駅や内宮方面となりますが車では進めません
東風屋(とうふや)旅館は
昭和19(1944)年のケーブルカー休止とともにさびれ、
茶店を中心に営業していました
そして、昭和39(1964)年2月18日の火災により
本館別館とも焼失しました

東風屋(とうふや)旅館跡地
朝熊岳道の終点、二十二町にある朝熊峠見晴台

二十二町 朝熊峠の石仏

かつては朝熊峠東風屋(とうふや)旅館までボンネットバスが
運行されていた時代もありました

朝熊峠、奥が内宮方面現在の様子です
石垣などの遺構はたくさんあります

かつてお伊勢参りで賑わった朝熊峠を偲ぶ 石仏群

朝熊峠にある「従是神宮宮域」の碑
この碑の向こう側が伊勢神宮の所有の土地であると言う意味だそうです

伊勢志摩スカイライン最高点にある朝熊岳山頂

朝熊岳山頂より眺める伊勢志摩景観

朝熊岳山頂より眺める伊勢湾方面景観


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白沢峠展望台(嶺方峠)サイクリスト憧れの峠

2024-05-06 15:18:26 | 登山に通った峠道
こんにちは!
本日の記事はサイクリスト憧れの峠 嶺方峠(白沢峠)を
掲載してみたいと思います
残雪の志賀高原から長野市を抜けて白銀の北アルプス八方尾根へ
向かう途中立ち寄った超絶景!

トンネル先の絶景 
北アルプスを一望の超絶景! 嶺方峠(白沢峠展望台)と白沢洞門
国道406号の鬼無里~白馬間にある峠で、標高1100mの位置にあります
峠にある展望台からは、北アルプスの山々を一望できる超絶景を拝むことができます!
また峠のすぐそばにある白沢洞門は、トンネルの出口×絶景の北アルプスが撮影できる
スポットとしてとても人気があるそうです

長野市から40分程で日本の原風景をとどめる鬼無里に到着
本来であればゆっくりと散策するはずですが時間がなく
1枚の写真撮影となってしまいました

白沢洞門 トンネルを抜けると北アルプス一望の超絶景!
が現れます 一度は訪れて見たかった景勝地

白沢峠 白沢洞門内より眺める絶景
サイクリスト憧れの…と言っても過言では無い白沢峠は、
後立山連峰の山々が連なる最高の景色!
自転車・オートバイ・車などが立ちどまるため、
注意を払って撮影しました

白沢峠 白沢洞門

トンネルの手前には5台ほどの駐車スペースがあり、
ちょっとした展望エリアになっています
ここからは、鹿島槍ヶ岳・五竜岳・唐松岳・白馬鑓ヶ岳・杓子岳と、
北アルプス後立山連峰の名峰が一望できます
(白馬岳が見えないのは残念)

白沢峠 白沢洞門を抜けて白馬村へ

白馬村から眺める白銀の白馬三山絶景
残雪の八方尾根への旅は続きます
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最も美しく見えた峠道

2024-03-06 14:57:24 | 登山に通った峠道
こんにちは!
blogカテゴリー登山に通った峠道も98話となり、
訪れた峠道を少し振り返ってみたいと思います
印象に残った絶景が広がる峠、歴史を感じる峠、最も美しかった峠等
掲載してみたいと思います
2024年も関東甲信越を中心とした歴史散歩を楽しめる峠、
絶景を楽しめる峠等巡っていきたいと思っております
今回の振り返り記事は最も美しく見えた峠道
日本国道最高地点のある渋峠、国道292号・志賀草津道路沿いの山田峠を
お届けしたいと思います
峠道の振り返りは最も美しく見えた峠道で終了となります
2024年度はまだ行ったことのない関西方面の峠道を
計画中です 徳川家康公が本能寺の変を察知して伊賀越え
で明智光秀の残党狩り窮地を逃れた御斉峠(おとぎとうげ)、
日本の酷道と言われる暗峠(くらがりとうげ)等候補地です
伊勢神宮等を周遊しながらの旅となります

日本国道最高地点のある
渋峠(しぶとうげ)は、群馬県吾妻郡中之条町と
長野県下高井郡山ノ内町の間にある峠である
標高2,172 m

「日本国道最高地点」の石碑と日の出
渋峠には群馬・長野両県にまたがる「県境の宿 渋峠ホテル」が建つ
壁面や敷地に県境が描かれているため、
インスタグラムの撮影ポイントになっている 
付近には「標高2,172m」の看板も立つ
ただし真の最高地点は県境から数百m群馬寄りにあり、
2004年には「日本国道最高地点」の石碑が建てられた 
渋峠ホテルでは「日本国道最高地点到達証明書」が販売されている

日本国道最高地点付近に広がる雲海

日本国道最高地点付近よりのご来光

渋峠付近に広がる雲海の絶景

志賀高原日本国道最高地点付近

志賀高原日本国道最高地点付近より眺める草津白根山

「日本国道最高地点」の石碑
日本国道最高地点として自転車乗りやバイク乗りの聖地となっている

渋峠は
志賀高原 横手山と白根山の間を通過する峠で、
1961年に「中部横断観光道路」構想の一部に組み入れられ
工事が本格化 1965年に一応の完成をみたが、
当時は未舗装の状態であり管理もままならない状態であった 
このことから群馬県と長野県で協議を行い、
有料道路化することが決定 賀草津道路(有料道路)として
1965年に再開通したが、1992年には無料開放され国道292号に組み込まれている
標高は2,172mで、日本全国の国道でも最も標高が高い地点である

賀草津道路から眺める草津白根山



山田峠は群馬県吾妻郡中之条町と草津町の間にある
国道292号が経由している峠

山田峠付近より眺めるマジックアワーの絶景



山田峠付近より眺める美しいご来光

山田峠を通る志賀高原道路
国道292号・志賀草津道路沿いの草津白根山と
横手山の中間に位置する山田峠(2,048m)は、
明治時代まで北信州と上州草津温泉との交易道として
利用された山田道(山田側では草津道と呼んでいた)の要衝でした
近年、自動車道の開通で山田道が利用されなくなると
峠としての機能は薄れ、名前だけが残されました
高速道路や新幹線はもちろん鉄道も通っていない高山村において、
山田峠附近は唯一国道が通過している希有な場所ですが、
このことはごくわずかの村民に知られているだけです
また国道の峠の標高では第3位(あまり認知されていませんが)である等、
山田峠周辺には見所がいくつもあり、知る人ぞ知る名所です





山田峠を通る志賀高原道路

志賀高原道路から眺める入山規制のかかる草津白根山


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近世の旧中山道宿場を繋ぐ歴史ある峠道

2024-03-02 12:51:36 | 登山に通った峠道
こんにちは!
blogカテゴリー登山に通った峠道も98話となり、
訪れた峠道を少し振り返ってみたいと思います
印象に残った絶景が広がる峠、歴史を感じる峠、最も美しかった峠等
掲載してみたいと思います
2024年も関東甲信越を中心とした歴史散歩を楽しめる峠、
絶景を楽しめる峠等巡っていきたいと思っております
今回の振り返り記事は旧中山道宿場を繋ぐ歴史をある峠
道3話(最終)をお届けしたいと思います

旧中山道沿いにある馬籠宿街並み
石畳を緩やかに進み馬籠峠へ

馬籠峠
馬籠峠(まごめとうげ)は、長野県木曽郡南木曽町と
岐阜県中津川市の境にある旧中山道の峠  標高790メートル

妻籠宿と馬籠宿の両宿の間にある馬籠峠

中山道の宿場町の中でも史蹟として保存状態の良い
両宿を含めて観光地として訪れる人も多い 峠には
「白雲や青葉若葉の三十里」という正岡子規の句碑が建っている
峠の名前は馬籠宿に由来するものであるが、
反対側の妻籠宿に由来する妻籠峠(つまごとうげ)という呼び名も
江戸時代には行われていた
かつては長野県内の峠だったが、
山口村が中津川市と越県合併したことで
県境の峠となった峠道は中山道の旧道と
岐阜県道・長野県道7号中津川南木曽線が並走し、
分岐と交差を繰り返している

馬籠峠 峠の茶屋



馬籠峠から妻籠宿へ

歴史ある古民家が建ち並ぶ妻籠宿

妻籠宿街並み
外国人観光客も多く訪れサムライロードとも呼ばれている

旧中山道の難所と言われた鳥居峠(とりいとうげ)へ

旧中山道の面影が残る石畳の遊歩道から鳥居峠へ



旧中山道の面影が残る道標石

中山道幾多の戦場の舞台となった鳥居峠
鳥居峠(とりいとうげ)は、長野県の塩尻市奈良井と
木曽郡木祖村藪原を結ぶ峠   標高 1,197m
中世には「ならい坂」「やぶはら坂」と呼ばれた
美濃国と信濃国の国境に位置しているので、
中世には戦いが何度も行われた 平安時代後期、
以仁王の令旨を受けた>源義仲(木曽義仲)は
平家追討の旗揚げをし、八幡宮にて挙兵の奉納をした後、
県坂(現在の鳥居峠) 御嶽遥拝所に参拝し、大夫房覚明に執筆させて
ここより出陣をしたとされる 硯水の傍に柳の木があり、
義仲は枝を折り 「我が事ならば、
この柳に根を生じて繁茂するであろうと立ち去った」とされ、
この柳はその後見事に根付き、成長したという伝説が残っている
渓斎英泉の浮世絵「木曽街道 薮原宿 鳥居峠」の絵には、
木曽義仲の硯清水の碑と湧き水が描かれている
木曾義元が戦勝祈願のため、峠に鳥居を建てて以来、
鳥居峠と呼ばれるようになったといわれている

鳥居峠から奈良井宿に繋がる林道

歴史的建造物が建ち並ぶ奈良井宿街並み

奈良井宿街並み

旧中山道の一里塚(復元されたものだと思われます)

この辺に旧中山道街道沿いに一里塚があったと言われている

和田峠の下に和田旧トンネル
今でも信号機がある相互通行の車道トンネル

和田峠から和田旧トンネルを見おろす

和田峠茶屋
和田峠(わだとうげ)は、中山道(中仙道)の峠で、
長野県小県郡長和町と諏訪郡下諏訪町の間にある
最大標高1,531m  中山道は、江戸幕府によって整備された街道であり、
平均すると2里程度の間隔で宿場町が置かれていたが、
この和田峠は険しい山の中にあり、峠の江戸側の和田宿と
京都側の下諏訪宿の間隔は実に5里半弱と長い
冬季の降雪も多く、中山道最大の難所とされていた
このため、途中に何箇所か旅人のための避難所や
茶屋が設けられていたほどである

和田峠からビーナスラインにつながる高原道路



中山道旧道の案内板
左方向に江戸方 接待  右方向に京方 和田峠とある

茅葺屋根の建物が見えるが、ここは「接待茶屋跡」

中山道石碑

中山道の歴史が書かれている和田峠案内板

「東餅屋(和田宿側)」「接待(和田宿側)」などと呼ばれ、
いまでも地名にその名を残している

和田峠から長野佐久方面に下って来ると
笠取峠 (長野県)(かさどりとうげ) 茶屋が見えてきました

笠取峠石碑

笠取峠 (長野県)は>長野県北佐久郡立科町と
長野県小県郡長和町との境にある、旧中山道および国道142号の峠
標高は900m  芦田宿と長久保宿の間にあり、
旅人が上り坂で暑さと疲れのあまり、皆いつの間にか笠を取っている
ことから笠取峠と呼ばれるようになったと
伝えられる 松並木が残り往時の面影を留めている

笠取峠マツ並木
この峠道は、近世五街道の1つ中山道の笠取峠である
徳川政権は、関が原の戦い後の慶長6年(1601年)
東海道に伝馬制を実施し、翌7年には中山道にも着手した

笠取峠マツ並木にある
中山道六十九次 長窪、芦田、望月の宿場が描かれた石碑

笠取峠マツ並木は徳川秀忠は、
慶長九年(1604)諸街道の改修、一里塚の設置とともに
街道に樹木を植えさせて並木をつくらせた
この幕府の植樹政策によって街道の並木は全国的な広がりをみせ、
松・杉のほかに樫・榎・漆などが植えられた
特に箱根や日光の並木は、「昼尚暗き」杉の並木として
広く知られている 笠取峠のマツ並木は、近世五街道の一つ
中山道芦田宿の西方1キロメートル地点から笠取峠にかけて
約2キロメートルにわたっている
言い伝えでは慶長七年頃、公儀より赤松苗753本を小諸藩に下付され、
近隣の村へ人足が割り当てられ小苗を植え付けたとされ、
幕末まで手入れ・補植等管理されていた
現在、松の総本数はおよそ150本で、その内、
約60本の松の樹齢は150~300年以上経たものである
その景観は往時の中山道をしのばせてくれるみごとなものである


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中世、近世の息吹を感じる峠2話

2024-02-26 10:14:58 | 登山に通った峠道
こんにちは!
blogカテゴリー登山に通った峠道も98話となり、
訪れた峠道を少し振り返ってみたいと思います
印象に残った絶景が広がる峠、歴史を感じる峠、最も美しかった峠等
掲載してみたいと思います
2024年も関東甲信越を中心とした歴史散歩を楽しめる峠、
絶景を楽しめる峠等巡っていきたいと思っております
今回の振り返り記事は中世、近世の息吹を感じる峠2話を
お届けしたいと思います

三国峠には上野赤城・信濃諏訪・越後弥彦の三明神を祀った
三国権現が建っている
三国峠(みくにとうげ)は、
日本の新潟県南魚沼郡湯沢町と
群馬県利根郡みなかみ町の境を越える峠
標高1,244m

三国新トンネルと三国旧トンネルが並ぶ

群馬県利根郡みなかみ町三国旧トンネル側から三国峠へ

群馬県利根郡みなかみ町三国旧トンネル側から
山道を徒歩で30分程で三国峠に辿り着きます

三国峠に到着
三国峠(みくにとうげ)標高1,244mの峠
峠上にある三国権現
(三坂神社・御坂神社・三阪神社・三社明神などとも呼ばれる)

三国峠道標

三国峠に建つ三国権現

三国峠を越えた名だたる人々が刻まれた石碑
中世以前 三国権現の縁起に坂上田村麻呂が、
法師温泉の開湯伝説に弘法大師(空海)の名が残る
1486年(文明18年)道興准后が三国峠を越える
(『廻国雑記』)尭恵法印が三国峠を越える
(『北国紀行』・三国峠の文献における初出)
1488年(長享2年) - 万里集九が三国峠を越える(『梅花無尽蔵』)
戦国時代 関東管領となった上杉謙信が、
関東への足がかりとして整備
上杉氏の会津移封の後、堀直寄によって改良が進められる
江戸時代 佐渡島への主要道路として、江戸幕府が整備
元文5年2月5日 - 越後長岡藩の藩士7名と人足4名が罪人の移送中、
雪災にあい遭難 1818年(文政元年)卯月 - 十返舎一九が越える
幕末の戊辰戦争の際には、三国峠の戦いが起こった等
古生、中世、近世にかけて歴史の息吹を感じることができる峠です

三国峠から三国山へ登る中腹より眺める県境の山
200名山の白砂山が見える

三国峠から三国山へ登る中腹より眺める苗場山と苗場スキー場

群馬県吾妻町側より万騎峠へ

万騎峠 吾妻郡吾妻町と長野原町の町境にある峠、
菅峰南方1.2kmほどの尾根にあり、標高1281m

かつては信州街道の須賀尾宿(吾妻町)と狩宿宿(長野原町)の中間に位置し、
草津への湯治客、善光寺参りなどの旅人のほか、
北信州の飯山・須坂・松代藩の江戸出し城米をはじめ、
信州の特産物であるソバ・大豆・小豆の輸送、
白根山や万座山から幕府の火薬製造原料となった
硫黄の搬出などで人馬の往来も多かったが、
明治26年信越本線の開通によりさびれ今は訪れる人もほとんどいない
頂上にはブナの古木があり、旅人の目印となったと言う
(歴史の道調査報告書/信州街道)ここからの展望は素晴らしく、
東は榛名山、西は白根山・四阿(あずまや)山から鳥居峠まで一望できる

旅人の目印になった 万騎峠のブナ古木

静かに佇む万騎峠
この万騎峠の名は、「曽我物語」にも記録のある
建久4年(1193)の源頼朝の三原・那須の狩の際、
狩宿の地に宿泊ののち、頼朝が万騎の兵を従えて峠を
越えたことに由来する
また別名を万字峠とも言われ、前記狩りの峠越えのときに、
山中の狐や狸が勢子に化けて行列にはいって邪魔をするので、
陣笠に卍の印をつけて越したことから、
卍(まんじ)峠といったのが、いつのまにか
万字・万騎となってしまったという伝説がある

長野原町北軽井沢側から万騎峠への道標

六十里越峠開道記念碑
国道252号を新潟県魚沼市方面へ走行していくと
六十里越トンネル手前に六十里越峠開道記念碑がある
昭和48年9月開通、あの田中角栄総理大臣の時代です

六十里越峠開道記念碑より眺める田子倉水力発電所

六十里越(ろくじゅうりごえ)は、
魚沼市大白川と、只見町大字田子倉の間に所在する峠で、
最高点の標高は863 m

六十里越は国道252号を新潟県と福島県に通じる峠道
その昔六里(24km)が十倍にも感じたことから六十里という名がついたと言われています
雪深い豪雪地にあるため例年12月上旬~翌年GW頃まで冬期閉鎖があり、
限られた半年間のみ通ることができ、
開通するとドライブやツーリングに多くの方が訪れます
国道252号に並走するように走るJR只見線は車窓から
眺める渓谷などの絶景が人気のローカル線で、
ドライブ中もタイミングが合えば
只見線と景色を一緒に楽しむことができる

六十里越峠開道記念碑付近より眺める田子倉湖絶景

六十里越峠開道記念碑付近より眺める越後の奥深い山並



新潟県県境より眺める六十里越トンネル

六十里越トンネル標識

新潟県県境より眺める六十里越(ろくじゅうりごえ)標識
六十里越 の歴史  戦国時代末期から江戸時代にかけて、
会津と越後の結びつきは深い
戦国時代に“越後の龍”と呼ばれた上杉謙信から家督を継いだ
上杉景勝が会津に移封し、高田藩初代(1614年)藩主である
松平忠輝は徳川家康の六男で、会津松平藩祖である保科正之の叔父にあたる
会津藩と高田藩の交流が生まれるのは自然で、
険峻でありながら「六十里越」を経る街道の往来が続いた歴史深い峠道


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