気ままなピークハンターズの山旅

日本百名山の頂と風景や国内旅行を中心とした絶景を掲載致します

国見峠(くにみとうげ)伊吹山系の峠

2024-07-30 11:43:02 | 登山に通った峠道
こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は滋賀県上板並地区と岐阜県春日美束地区の県境にある
国見峠(くにみとうげ)を取り上げてみたいと思います

伊吹山系にある国見峠(くにみとうげ)
国見峠(くにみとうげ、標高:840m)は
伊吹山系の北尾根に位置し、滋賀県上板並地区と
岐阜県春日美束地区の県境にあります
国見峠へのアクセスは、
滋賀県側の国見林道(工事や落石など通行止めに注意)と
岐阜県側の春日から国見スキー場を経て峠に至るコースがあります
現在滋賀県側の国見林道は道路崩落により通行止めです

国見峠の景観
石碑、祠、お地蔵様の豪華仕様の峠でした

国見峠之碑 平成6年12月国見林道開通記念

国見峠の景観 滋賀県側を眺める

国見峠(くにみとうげ)より眺める滋賀の百名山 伊吹山

国見峠に佇む祠と長寿大師像

国見峠に佇む石碑、祠、お地蔵様の豪華仕様の峠

峠ゲートから岐阜県北側展望 貝月山、鍋倉山方面を望む

国見峠の景観 滋賀県側を眺める

国見峠(くにみとうげ)より眺める滋賀の百名山 伊吹山

国見峠の景観

国見峠之碑

国見峠の碑文
国見とは太古の謎を偲ばせる言葉である
この峠道は近江と美濃を結ぶ歴史の間道であり、
塩と絹の道として往来する村人の暮らしの道であった
教如上人をかくまった鉈が岩屋は峠にも近く、
落ちのびた武将や子女の哀史は尽きない
また明治、大正期には伊吹の野麦峠でもあったのである
宮本武蔵が駆け抜けた峠、判団右エ門の大滝、
炭山村跡、さざれ石の伝説もある 
峠を下れば寝仏、尻まくり地蔵が、
訪れる人々に歴史の歳月を語りかけると記されています

現在滋賀県側の国見林道は道路崩落により通行止めです

国見峠の景観 滋賀県側を眺める

国見峠(くにみとうげ)より岐阜県側に下りてきました
これから愛知県にある伊勢神宮を遙拝できる伊勢神峠へと向かいました


最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう

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天下分け目の戦いの舞台 関ヶ原古戦場を訪ねて

2024-07-24 20:51:45 | 旅行
こんばんは!
本日の記事は近畿地方峠巡りの旅の途中、立ち寄った
天下分け目の戦いの舞台 関ヶ原古戦場を掲載してみたいと思います
奈良県のビジネスホテルを早朝に出発し、琵琶湖を周遊しながら
関ヶ原古戦場を訪れてみました

天下分け目の戦いの舞台 関ヶ原古戦場最終決戦の地
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、
安土桃山時代の慶長5年9月15日(1600年10月21日)に、
美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として
行われた合戦
向かって左方向、笹尾山中腹に石田三成の陣が小さく見える

関ヶ原古戦場最終決戦の地 解説の碑

関ヶ原古戦場最終決戦の地より眺める西軍本陣方面を眺める

石田三成本陣を固める島左近陣地



石田三成本陣を固める島左近陣地

関ヶ原の戦いのあらましが書かれているガイド板

石田三成本陣跡に徒歩5分と書かれている道標

石田三成本陣を固める島左近陣地



石田三成陣解説板



関ケ原 天下分け目の戦い最終決戦の地跡
関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の慶長5年9月15日(新暦1600年10月21日)、美
濃国関ヶ原(岐阜県関ケ原町)を主戦場として展開された野戦
「天下分け目の戦い」と呼ばれるように、
徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍に勝利し、
家康は1603年に江戸幕府を開く

関ケ原 天下分け目の戦い最終決戦の地跡より
東軍 徳川家康陣地方面を眺める

東軍 徳川家康最終決戦の陣地跡



東軍 徳川家康最後陣地 陣解説板

床几場跡 合戦の際、討取った敵将の首実検を行った場所



床几場跡

関ヶ原合戦は
豊臣秀吉の死後に発生した豊臣政権内部の政争に端を発したものであり、
徳川家康を総大将とし福島正則・黒田長政らを中心に構成された東軍と、
毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家・石田三成らを中心に結成された
反徳川の西軍の両陣営が、関ヶ原での戦いを含め、各地で戦闘を繰り広げた
この戦役の結果、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、
秀吉没後の豊臣政権を構成していた五大老・五奉行体制は崩壊した
家康の権力掌握は徳川氏を中心とする江戸幕府の成立に繋がり、
幕藩体制確立への道筋が開かれることになった

関ヶ原合戦 東軍、西軍布陣図


最後まで御覧頂きありがとうございます
関ヶ原古戦場を後に伊吹山付近にある国見峠へと向かいました
次の投稿までご機嫌よう


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暗峠(くらがりとうげ)日本随一の酷道と言われる峠

2024-07-19 17:02:14 | 登山に通った峠道
こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は奈良県生駒市西畑町と大阪府東大阪市東豊浦町との境にある
暗峠(くらがりとうげ)を取り上げてみたいと思います

暗峠(くらがりとうげ)は、奈良県生駒市西畑町と
大阪府東大阪市東豊浦町との境にある国道308号及び
大阪府道・奈良県道702号大阪枚岡奈良線(重複)の峠
古くは闇峠とも書かれた 標高455m

暗峠を通る暗越奈良街道は「日本の道100選」に選定されており、
峠頂部の石畳の道端には、日本の道100選の顕彰碑が置かれている

国道308号線として現役の道路
石畳の峠頂上にある標識 奈良県生駒市側

奈良県側から暗峠へ向かうと車幅1.8m、ロングボディーの車
通行不可と掲示

狭いシェードをくぐり暗峠へ
上部の車道は大阪府道・奈良県道702号大阪枚岡奈良線
上記車道から車で下りることは出来ません

暗峠頂上にある標識 大阪府東大阪市
頂上付近は国道には珍しい石畳道路
峠の頂上には小さな集落があり、現在でも営業している茶店もある
この付近の路面は江戸時代に郡山藩により敷設された石畳となっている
この50mほどあるコンクリート舗装の石畳のそばに
大神宮灯篭や往年の道標などが見られる
この石畳は、暗峠が急坂であることから、
参勤交代で殿様が乗った籠が滑らないようにするために
敷かれたものである
これは現在においても健在であり、
石畳の道路が国道に指定されている道は極めて稀である

暗峠頂上の景観
1694年10月27日(元禄7年9月9日)、
松尾芭蕉が奈良から大坂へ向かう途中
この峠を通ったこのときに「
菊の香に くらがり越ゆる 節句かな」という
重陽の節句にちなんだ句が詠まれたといわれる

暗峠(くらがりとうげ)
「暗がり」の名称の起源は、樹木が鬱蒼と覆い繁り、
昼間も暗い山越えの道であった説や、
「椋嶺峠」が転じた説、「鞍借り」、「鞍換へ」が訛って
「暗がり」となったとする異説もある
上方落語伊勢参宮神乃賑の枕では、
「あまりに険しいので馬の鞍がひっくり返りそうになることから、
鞍返り峠と言われるようになった」と語られている

暗峠から奈良県生駒市方面の景観



峠の頂上には小さな集落があり、現在でも営業している茶店もある

上部の車道は大阪府道・奈良県道702号大阪枚岡奈良線
車で峠に下りることはできませんが、ガードレール下に
人がやっと歩ける細い小道有り

暗峠を奈良県生駒市に下りてくると集落があります

暗峠付近より眺める奈良県生駒市の景観


最後まで御覧頂きありがとうございます
奈良県ビジネスホテルに宿泊し翌日早朝、関ヶ原古戦場へ向かいました
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御斎峠(おとぎとうげ)家康が本能寺の変で避難した峠

2024-07-15 13:36:15 | 登山に通った峠道
こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は滋賀県甲賀市信楽町多羅尾と三重県伊賀市西山町を結ぶ峠
御斎峠(おとぎとうげ)を取り上げてみたいと思います

御斎峠(おとぎとうげ)は、滋賀県甲賀市信楽町多羅尾と
三重県伊賀市西山町を結ぶ峠
於土岐、於登岐、御伽とも表記する
昔から近江では伊賀・伊勢道、伊賀では
京道(京街道)と呼ばれていた   標高は570m
峠の名前の由来は、「三国地志」によると、
鎌倉・南北朝時代の禅僧、夢窓疎石(夢窓国師)が訪れた際、
この峠で村人のお斎(接待)を受けたことによるという
1582年、本能寺の変の後、摂津国にいた徳川家康が
三河国岡崎城へ帰還するため、宇治田原から滋賀へ抜ける
経路としてこの峠を使ったといわれる
案内した多羅尾光俊は、この功によって明治まで長い間、
多羅尾領を押えていた

御斎峠(おとぎとうげ)付近の景観

御斎峠(おとぎとうげ)より伊賀方面の街並みを眺める

御斎峠より伊賀越えの景観



伊賀方面より御斎峠(おとぎとうげ)を眺める

御斎峠(おとぎとうげ)跡石碑
この峠は、伊賀と甲賀を結ぶ峠で、
あの『徳川家康』が本能寺の変の際、急ぎ伊賀の国を切り抜け、
船で三河国へ渡る際に越えたと言われる峠です
これが、「伊賀越え」と言われており、
小説や映画の『梟の城』にも登場します





御斎峠(おとぎとうげ)にある石碑

御斎峠(おとぎとうげ)にある石碑
「本能寺の変」の報
堺に宿泊中であった家康は、6月2日の朝上洛しようとしていましたが、
京都から急ぎやって来た茶屋四郎次郎から、
事件の一部始終を知らされました
茶屋は情報収集のために家康が京都においた呉服商です
この畿内への旅は出陣ではなかったので、
家康周辺には少数の供しかいませんでした
しかも、明智光秀は信長との同盟者として
家康の命を狙って来るのは当然で、
本国へ通じる近江国の主要街道は押さえられていました
家康としては落武者狩りの危険を冒しても、
脇道を通って本国に至る逃避行をせざるを得なくなったのです
ただ、最短距離で伊勢湾に至る伊賀国は、
織田信長が前年に徹底的に攻撃し、全滅させた
「天正伊賀の乱」の地でした信長の死を知って、
反信長勢力が息を吹き返しており、
家康としてはなるべく伊賀国を通りたくなかったのが本音でした

御斎峠より三重県伊賀市方面を眺める

御斎峠より三重県伊賀市方面を眺める

御斎峠より滋賀県甲賀市方面を眺める

御斎峠から滋賀県甲賀市に下ってきました
この地域は多羅尾の名称が多く見られます
御斎峠より奈良県、大阪府との境
日本の酷道と言われる暗峠へ向かいました


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鈴鹿峠 国道1号有数の難所と言われた峠

2024-07-11 18:06:08 | 登山に通った峠道
こんばんは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は三重県亀山市と滋賀県甲賀市の境に位置する
東海道(国道1号)の峠 鈴鹿峠(すずかとうげ)を
取り上げてみたいと思います

鈴鹿峠
鈴鹿峠(すずかとうげ)は、
三重県亀山市と滋賀県甲賀市の境に位置する
東海道(国道1号)の峠  標高は357m

鈴鹿峠は
滋賀県側は比較的なだらかである一方、
三重県側は高低差が急激であり、現在でも箱根峠に次ぐ
「国道1号有数の難所」と言われるほど、険しい区間が多い

鈴鹿峠万人講常夜燈
江戸時代には東海道五十三次として坂下宿・土山宿が整備された
正徳年間(1711年~1716年)、重さ38t、高さ5.44mと
巨大な万人講常夜燈を四国の金毘羅まいりの講中が
鈴鹿峠に建てたと伝えられる
東海道を往来する行商人信者が常夜燈に火をともし、
伊勢の海遥か彼方、四国金毘羅神社に
航海と道中の安全を祈願されたと言われている

鈴鹿峠は
明治23年(1890年)に草津-柘植-四日市間に
関西鉄道(現在の草津線-関西本線)が開通したことにより、
東海道の要衝としての地位を失った
現在の鈴鹿峠は自動車社会の急速な進行に対応すべく
国道整備が進み、 旧街道は東海自然歩道の一部として残っている



自宅に戻ってから鈴鹿峠はこの先、徒歩で4分程の所に
旧道と共に静かに佇んでいることが解りました
車では目と鼻の先にあったようでした

鈴鹿峠
ネットで検索した画像を活用させていただきました(失礼しました)
お茶畑が側にあるようです

鈴鹿峠の道標石
ネットで検索した画像を活用させていただきました(失礼しました)
左 三重県 伊勢の国 右 滋賀県 近江の国と記されています

歌川広重 東海道五十三次 阪之下
筆捨嶺 │ 筆捨嶺とは鈴鹿山脈を形成する山の一つである岩根山の別称
これから先いつ行けるかわかりませんが、鈴鹿峠に立ち寄って
行けなかった風景を見てみたいと思います


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