こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は秩父山地の東麓、高麗川の谷口にある高麗本郷
高麗峠(こまとうげ) を掲載してみたいと思います
高麗本郷巾着田 緑の絨毯
巾着田ドレミファ橋を渡り高麗峠(こまとうげ)へ
高麗川を渡り高麗峠へ向かいます
高麗川にかかるドレミファ橋
奥多摩自然遊歩道を尾根伝いに高麗峠へ向かう
宮沢湖、天覧山、分岐点に到着 高麗峠は直ぐ側にある
高麗峠(こまとうげ)に到着
高麗峠 標高170m
秩父山地の東麓、高麗川の谷口にある高麗本郷
8世紀初頭、朝鮮半島から渡って来た高麗人が集団移住した地として知られている
高麗峠は高麗本郷と飯能を結ぶ役目をしていた
西武池袋線の高麗駅と東飯能駅の中間の東側、
奥多摩自然遊歩道の尾根伝いの場所に位置している
周辺には武蔵丘ゴルフコース、
宮沢湖ムーミンバレーパーク等があり、
人の声が聞こえてくるほどです
かつて、古代朝鮮半島には「高句麗」という国が栄えていました
しかし、唐(現在の中国)や隣国の新羅との戦いに敗れて
668年に滅亡してしまいます
そこから逃げ延びた人たちを716年に受け入れ、
現在の日高市を中心につくられたのが「高麗郡」という
ある種の行政区でした
高麗峠をかつて高句麗の人々が越えていったのでしょうか?
その後、時代が流れ、地名が改められることになる
江戸時代末期まで、日高市のみならず、
飯能市・鶴ヶ島市の全域と、狭山市・川越市・入間市・毛呂山町の一部を
含んだ広い範囲が「高麗郡」と呼ばれていました
因みに、この地に渡った朝鮮半島の人々は、
大陸の進んだ技術を数多く持ち込んで、
日本の発展にも貢献したと言われており、
その暮らしの名残は、
エキゾチックな雰囲気が漂う高麗神社や
高麗郷古民家(旧新井家住宅)など、
さまざまな史跡でも辿ることができます
奥多摩自然遊歩道より 高麗峠を眺める
高麗峠から巾着田へと戻ります
奥多摩自然遊歩道 登山道脇に佇む石仏
高麗川にかかるドレミファ橋を渡り巾着田へ戻ります
早春の巾着田曼珠沙華公園 緑の絨毯
早春の巾着田曼珠沙華公園に咲くロウバイ
早春の巾着田曼珠沙華公園に咲くロウバイ
早春の巾着田曼珠沙華公園に咲く梅
早春の巾着田曼珠沙華公園 緑の絨毯
平成29年9月20日に天皇皇后両陛下が巾着田を訪問されたことを記念して、
行幸啓記念碑が建立されています
記念碑の裏側には、天皇皇后両陛下が満開の巾着田を
散策されたお姿と、その際のエピソードが刻まれています
早春の高麗本郷巾着田(きんちゃくだ) 心の風景
最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は秩父山地の東麓、高麗川の谷口にある高麗本郷
高麗峠(こまとうげ) を掲載してみたいと思います
高麗本郷巾着田 緑の絨毯
巾着田ドレミファ橋を渡り高麗峠(こまとうげ)へ
高麗川を渡り高麗峠へ向かいます
高麗川にかかるドレミファ橋
奥多摩自然遊歩道を尾根伝いに高麗峠へ向かう
宮沢湖、天覧山、分岐点に到着 高麗峠は直ぐ側にある
高麗峠(こまとうげ)に到着
高麗峠 標高170m
秩父山地の東麓、高麗川の谷口にある高麗本郷
8世紀初頭、朝鮮半島から渡って来た高麗人が集団移住した地として知られている
高麗峠は高麗本郷と飯能を結ぶ役目をしていた
西武池袋線の高麗駅と東飯能駅の中間の東側、
奥多摩自然遊歩道の尾根伝いの場所に位置している
周辺には武蔵丘ゴルフコース、
宮沢湖ムーミンバレーパーク等があり、
人の声が聞こえてくるほどです
かつて、古代朝鮮半島には「高句麗」という国が栄えていました
しかし、唐(現在の中国)や隣国の新羅との戦いに敗れて
668年に滅亡してしまいます
そこから逃げ延びた人たちを716年に受け入れ、
現在の日高市を中心につくられたのが「高麗郡」という
ある種の行政区でした
高麗峠をかつて高句麗の人々が越えていったのでしょうか?
その後、時代が流れ、地名が改められることになる
江戸時代末期まで、日高市のみならず、
飯能市・鶴ヶ島市の全域と、狭山市・川越市・入間市・毛呂山町の一部を
含んだ広い範囲が「高麗郡」と呼ばれていました
因みに、この地に渡った朝鮮半島の人々は、
大陸の進んだ技術を数多く持ち込んで、
日本の発展にも貢献したと言われており、
その暮らしの名残は、
エキゾチックな雰囲気が漂う高麗神社や
高麗郷古民家(旧新井家住宅)など、
さまざまな史跡でも辿ることができます
奥多摩自然遊歩道より 高麗峠を眺める
高麗峠から巾着田へと戻ります
奥多摩自然遊歩道 登山道脇に佇む石仏
高麗川にかかるドレミファ橋を渡り巾着田へ戻ります
早春の巾着田曼珠沙華公園 緑の絨毯
早春の巾着田曼珠沙華公園に咲くロウバイ
早春の巾着田曼珠沙華公園に咲くロウバイ
早春の巾着田曼珠沙華公園に咲く梅
早春の巾着田曼珠沙華公園 緑の絨毯
平成29年9月20日に天皇皇后両陛下が巾着田を訪問されたことを記念して、
行幸啓記念碑が建立されています
記念碑の裏側には、天皇皇后両陛下が満開の巾着田を
散策されたお姿と、その際のエピソードが刻まれています
早春の高麗本郷巾着田(きんちゃくだ) 心の風景
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