このところ「性」に関する大きな動きが、いろいろとあります。
たとえば今年に入って、フランスが同性婚を認める法律が成立しました。
世界的にみれば同性婚を法的に認める、あるいは異性婚と同等の権利を与える国は多くあります。
そしてどの国でも、反対派の理由は宗教や戒律、あるいは古い倫理の振り回しです。
日本でも戦国時代、武将がそばに稚児をおいて男色行為をすることはなかば当然と考えられていたし、大奥で女性同士が性的行為を繰り返していたことも、とっくに知られています。
もともと日本は性の概念におおらかな文化を築いてきました。
それが堅苦しくなったのは、ほんのここ1世紀くらいのもんです。
象徴的なことが、つい先日、日本で起こりました。
児童ポルノ規制法案の提出です。
まあ個人的には「時間切れで継続審議または廃案」は確実と考えているのであまり心配しませんが、逆にアグネス・チャンをはじめ感情的にこれらを押し通そうとする存在に、ものすごく落胆します。
児童ポルノで被害を受ける少年少女を守らねばならない、これはもう明らかなこと。
しかしこの法案は明確に「絵画、写真、コミック、アニメなど被害者が存在しないもの」も対象にしています。
そして「何がセーフかアウトか」の線引きがまったく明確でなく、すべて取り締まる側が判断していいことになっています。
こんな馬鹿な法律を成立させたら、まさに日本文化を自ら捨てるのと同じです。
たとえば宮沢りえの「Santa Fe」は撮影当時17才だったとの説もあり、国会の審議でも「判断の曖昧なものを破棄すべきであろう」と、疑わしきものは罰する姿勢を明確に出しています。
「Santa Fe」が表現手段のひとつなのかポルノなのか、は関係ありません。
裸が見えたらアウト、性器が見えたらアウト。
これでは古代ローマの彫像の下半身を布で覆った時代から、何も進歩していない。
とにかく問答無用でだめ、という思考停止状態です。
まして、この法律で解釈すれば、ベトナム戦争でナパーム弾に焼かれ、服を脱ぎ捨てて泣きながら裸で走ってくる少女の写真、ピューリッツアー賞も受賞したあの写真でさえ、取り締まる側がアウトといえばアウトになってしまうのです。
さらにいえば、コミックやアニメなど架空の表現でさえ、だめだといおうとしている。
「こんなものを読む奴は犯罪に走りたがる」という、いつもの決めつけです。
ならば包丁も自動車も、売ってはいけないことになりますよね。
包丁での殺傷事件や自動車の暴走事故をなくしたければ、存在そのものを禁止すればいい。
でもそんなことをしたら、現代の社会生活は成立しなくなってしまいます。
つまりアダルトのコミックやアニメは、被害者が皆無であるにも関わらず「なくなっても困らない」という理由で、槍玉にあげられているのです。
そりゃ、ばばあ連中にとっては、なくなっても困らないだろうね。
もちろん日本の現状が最良だとは、私も考えていません。
最近はコンビニでも成人誌はテープで閉じられて専用コーナーに置かれていますが、それでも自由に立ち読みできる雑誌の中には、乳房や陰毛を晒した写真が多くあります。
ましてネットを探せば、性器を露出したり性交中の写真が、小学生でも入手できる時代です。
この部分は、どうにかしなきゃいけない。
しかしそれは決して「児童ポルノの概念を際限なく広げて主観で逮捕できるようにする」ことでは、ないはずです。
よくいわれるのが「先進国で単純保有を違法としていないのは日本だけ」という理屈です。
しかしこの理屈の裏側に、単純保有を禁じた国でも決して性犯罪は減っていない事実、知らずにネットで受信していたために冤罪を押し付けられる事例が急増している事実、自分の子供の成長記録写真でさえ手が後ろに回ってしまう事実、があることは意図的に隠されています。
とにかく感情的な主張、「だって何々は悪いに決まっているでしょ」といいたがる奴には、注意せねばなりません。
ろくな奴じゃありません。
「私たちは」といったら風呂敷の広げ過ぎかな。少なくとも「私は」、加虐で性的興奮を持つ生き物です。
そして被虐で性的興奮を持つ女性と、歩んでいます。
それを頭から全否定したがる人間は、いくらでもいます。
でも「なぜそれが悪いのか」と訊ねたら、ほとんど「だって悪いに決まってるでしょ」という、実に貧弱な理屈。
負けるわけにいかないでしょ、そんな馬鹿に。
何がいいことか、悪いことか。
その判断には、見当外れの情熱ではなく、しっかりと地に足をつけた分析に基づく情熱が、必要なのです。