まじ卍

生活の中で気が付いたことを書いています。

手話について

2024-03-14 | 考え方
アイナ・ジ・エンドの「宝者」が話題になっている。
BS系 日曜劇場「さよならマエストロ~父と私のアパッシオナート~」の主題歌で
MVの中で手話をダンスのように表現していることについて一部の聴覚障がい者から
「MVを見たが、ろう者からすると何を言っているのか全く分からない、
意味をなしていないものだった」
「手話はオモチャではない。言語の一つ」
「リズムに合わせて動きたいだけで言語として成立していない」
「手話を消費コンテンツにしないでほしい」
という声が投稿されている。

私は聴者だが手話歴は長い。
私が手話を始めた頃には、「手話はろうあ者の母国語」と言われており
遊び半分で手話をすることに本気で怒ってくるろうあ者も多くいました。
当時よく言われていた話として、ろうあ者スポーツ大会のことが
「新聞の社会面に掲載されているが、スポーツ面に掲載されるべき」
と発言する人がおられ、社会面に載っている間は単なる障がい者の行事で
スポーツ面に掲載されてこそ障がいの壁が取り払われて
スポーツの一つとして認識されることと知り、感銘を受けた。
あれから40年以上の月日が経過した今日、スポーツ面に載っている。
とくに来年東京で開かれる「東京2025デフリンピック」のニュースは
世界から7~80か国から参加されることから国を挙げての行事となっている。

ろう者にとって大切にされているデフリンピックであっても
聴覚以外の障がいのある無しに関わらず、聴者にとっては参加資格はなく、
一部の方だけの対象でも社会全体の問題として取り上げられるようになった。
このことを考えれば、手話も2006年国連で採択された「障害者の権利に関する条約」
(障害者権利条約)で「手話は言語である」と定義された今日、
手話はすでにろう者だけのものではなくなっていると受け止めている。
それは私たち日本人がさまざまな言語を印刷した洋服を着たり、
音楽の歌詞の一部に取り入れたりと自由に使えるようになったと同じことと考える。
ただ現時点においては、たしかにこのMVは「上手な手話」とは言えないし、
歌詞の中のごく一部にしか使われていないなどの問題点もあり、
批判されるべき点が多数あるのも理解ができます。

最近は小学校で手話の授業があるようで、電車に乗っていると
遠足の子どもたちが車内で簡単な手話でおしゃべりしている姿を見かけます。
私は読めないふりをしながら、黙って会話を見ていると
悪口を言っているイジメている子どもたちの姿も見かけます。
しかしああいう悪ふざけにも手話を使われることも手話が世に広がる
過程だと微笑ましく思いますし、
私自身10代の頃には手話でカンニングもしていたのも思い出します。
難聴児だった子どもが思春期を迎え、手話をしなくなったことに
腹を立てたろうあ者に事情を説明して大きな心で見守ってほしいと
お願いしたこともあります。
部分的に問題はあるのかもしれませんが、
ここはまだ出発点であり、過渡期として捉えてひとつひとつに反対せず
より一般的な言語となっていく過程として見守りたいと思ってます。