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探偵学園

2021-01-31 03:28:49 | Comic
幻奏館殺人事件(探偵学園Q)

登録日:2019/07/20 (土) 10:03:33
更新日:2020/03/28 Sat 10:00:33
所要時間:約 20 分で読めます

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アリバイトリック クラシック音楽 クローズドサークル バイオリン 別荘 台風 心理トリック 急展開 探偵学園Q 毒殺トリック 洋館 衝撃のラスト 長野県 陸の孤島 音楽家 館もの


そろそろ独奏会の時間だ………

聴くがいい……罪深きエセ音楽家たちよ!

「冥界のマエストロ」の呪わしき旋律を…

単行本第9巻と第10巻に収録。全13話

日本を代表するバイオリニストの弓削雅臣に脅迫状めいた手紙が届いた。
筆跡から差出人は弓削の一番弟子だった宝生美鶴と考えられたが、美鶴は半年前に自殺をしていた。
弓削の弟子・五島田学から依頼を受けたDDCは、Qクラスに今回の依頼の内容を説明。
山奥*2にある弓削の別荘・幻奏館で行われる愛弟子と友人達の集まりに出向き、手紙の謎を解き明かす事を命じた。
だが今回の依頼には、九頭龍匠が作ったバイオリン「テスタ・ディ・ドラゴ」が関わっていたので、九頭龍の名前を聞いた途端にリュウの表情が変わった。
キュウとメグは団の指示で幻奏館へ出向くが、そこで美鶴の自殺について調べているはずのリュウと出くわす。
今回の集まりでテスタ・ディ・ドラゴの後継者が明かされるため、関係者の間には険悪なムードが漂っていた。
そんな空気の中、弓削がテスタ・ディ・ドラゴで「悪魔のトリル」を演奏するが、その直後に弓削の弟子の1人・白州真弓が殺害される事件が発生する。
現場にはCDで悪魔のトリルが流されていたが、これは自殺をした美鶴が最も得意としていた曲であった。
その後も幻奏館で次々と弓削の弟子が殺害されていくが、事件を捜査していたリュウは何故か焦りを見せていた。
果たして、死の交響曲に沿って殺人を繰り返す「冥界のマエストロ」とは一体誰なのか……?


【事件関係者】

五島田学(ごとうだ まなぶ)
CV:井上倫宏
バイオリニストで今回の依頼人。24歳。
弓削の弟子の1人であるが、弓削の世話役も担っている。
謎の手紙を受け、幻奏館で行われる集まりで何かが起きるのではないかと思い、この件の捜査をDDCに依頼した。
幻奏館へは遅れて行く事となっていたが、手紙が届いて以来奇妙な無言電話がかかってくるようになったので、彼の護衛にキンタと本郷が付く事になった。
幻奏館へ繋がる道が犯人によって塞がれてしまったので徒歩で向かう事となる。その途中で何者かに崖から突き落とされるが、キュウ達によって何とか助け出された。

弓削雅臣(ゆげ まさおみ)
CV:大木民夫
バイオリニスト。72歳。
日本を代表するバイオリニストの巨匠で、その演奏は聴く人の心を魅了する。
現在は病に冒されているらしく、病で倒れた後でテスタ・ディ・ドラゴを弟子の1人に譲ると公言している。
今回の集まりでテスタ・ディ・ドラゴを譲り渡す人物を、遺言を兼ねて発表する予定でいた。

白州真弓(しらす まゆみ)
CV:天野由梨
バイオリニストで弓削の弟子の1人。28歳。
弓削の一番弟子を言い張っているが、村雨からは「「一番」の上に「自称」がつくんじゃないの?」と嫌味を言われていた。
最初の被害者。ガラスや陶器の破片が散乱している部屋の中で、喉をナイフで一突きにされ殺害された。

村雨紫音(むらさめ しおん)
CV:千葉進歩
バイオリニストで弓削の弟子の1人。20歳。
歯に衣着せない物言いが取り得で、かなり神経質な性格。
亜里沙へのセクハラをリュウに止められると、「芸術家ってのは狂気を秘めてるって意味じゃ犯罪者と紙一重だ。ヘタに怒らせると何しでかすかわからないからね?」と忠告する。
第1の事件が起きると、弓削の演奏を凄い目つきで聴いていたリュウを疑う。
2番目の被害者。ドレッシングに毒を入れられ、それをサラダにかけて食べた途端に苦しみ出し死亡した。

霧島想七太(きりしま そなた)
CV:桐本琢也
バイオリニストで弓削の弟子の1人。30歳。
弓削の演奏を聴いた途端に顔が青ざめ、逃げるようにして部屋を出て行く。
第1の事件が起きた後で何者かに電話で「悪魔のトリル」を聴かされ、叫び声をあげていた。
どうやら美鶴の影に怯えているようで、美鶴のポルターガイストが自分達に復讐していると考えている。
3番目の被害者。注射器による毒で死亡。
部屋のパソコンに自分が犯人だと告白する遺書が残されていたので、罪を悔やんでの自殺だと考えられたが…

福丘一哉(ふくおか かずや)
CV:掛川裕彦
音楽評論家。46歳。
弓削の演奏を高く評価しており、テスタ・ディ・ドラゴの後継者選びにも興味を示している。
美鶴の事は生前娘のように可愛がっており、彼女の死を現在も悔やんでいる。

司馬朝絵(しば あさえ)
CV:茂呂田かおる
楽器コレクター。35歳。
テスタ・ディ・ドラゴに強い関心があり、手に入れるためなら何億でも出すと言っている大富豪。
福丘とは長い付き合い。

立木亜里沙(たちき ありさ)
CV:今野宏美
メイド。18歳。
最近入ったばかりだが、事件が起きるとひどく怯え、何かを隠しているような様子を見せていた。
その事に気づいたリュウには「悪魔のトリルが聞こえる」と言っていたが、その後で人目を忍んでテスタ・ディ・ドラゴを持ち出し、「悪魔のトリル」を弾いていた。

宝生美鶴(ほうしょう みつる)
CV:國府田マリ子
バイオリニスト。故人。
10代で海外の名だたるコンテストを総なめにした天才で、弓削の後継者とまで言われていた。
今年の1月の中頃、急に決まった演奏会に出演するため、幻奏館から車で町へと向かう。
その時に立ち往生してしまい、車を捨てて雪道を延々何十キロも歩く羽目になる。
その結果、両手に酷い凍傷を負い、指を何本も切断する事となってしまった。
指を失った事で演奏家生命を断たれ、事故の2ヵ月後に自殺。だが現場となった別荘には彼女の血が残っていただけで、彼女の遺体はどこからも発見されなかった。
なお、この事故は「4つの不運」が重なったせいで起きたとされているが、その不運にはそれぞれ1人ずつ弓削の弟子が絡んでいた。


【レギュラー陣】

キュウ
美南恵
団の指示で2人で幻奏館へ出向くが、そこでリュウと鉢合わせしたのでつい驚いていた。
リュウが村雨に犯人扱いされると、「Qクラスのメンバーであるリュウが、尊敬する先生の名を汚すようなことをするはずがありません」と庇っていた。
だが、捜査中のリュウの様子がどこかおかしい事に気づき、強引なやり方で霧島を犯人扱いすると、キュウは「今のやり方、全然リュウらしくないよ!!」と彼を諌める。
メグのほうも、リュウが何かに焦りながら推理をしている事に感づいていた。

天草流
美鶴の自殺について調べる役目だったが、テスタ・ディ・ドラゴに魅かれるものを感じ、団に無理を言って幻奏館を訪れていた。
第1の事件の際には冷静な判断力で、先走った行動をするキュウ達を止める。
だが第1の事件のアリバイトリックを暴いた後は、強引なやり方で霧島を犯人扱いし、逆にキュウに諌められていた。
この事件の裏にはある「組織」が動いていると考えており、その存在を感づいた事で幻奏館へ来たようだが…

遠山金太郎
今回は遅れて幻奏館へ出向く五島田の護衛を本郷と共に担当。
本郷の事はまだ信用しておらず、彼に何かを言われる度にムッとしていた。

鳴沢数馬
今回はDDSのITルームに残り、情報基地としてDDSとメンバーの架け橋となる。
キンタの受け売りで「足」を使って美鶴の遭難事故について調べ上げ、事故が起きる要因となった「4つの不運」にそれぞれ弓削の弟子が絡んでいた事をキュウ達に教えた。
情報を聞いただけで第2の事件の毒殺トリックも見抜き、ヒントとなるメールをキュウに送っていた。

団守彦
テスタ・ディ・ドラゴや脅迫めいた謎の手紙に、探偵としての勘が激しく警鐘を鳴らす。
そのため今回はチーム分けを自らの判断で行い、別々の観点から調査をするようキュウ達に命じた。

本郷巽
キンタと組んで五島田の警護を担当する。
キンタと違って冷静な判断力を見せ、万一の時に備えて非常食も携帯していた。
その際にキンタに「探偵でもないのに用意のいい人間がいたら、それは何か?」と問いかける。
ちなみに答えは「その人物が犯人だから」。
どうやら既に犯人の目星をつけているようだが…

ミス・カオリ
冒頭でクライアントと接触し、「あるモノ」を頂く条件で今回の殺人計画を授けていた。


【以下、事件の真相。さらなるネタバレにご注意ください】

























…は…はい……先生……私です……
私がやったんです…

卑劣な罠で宝生美鶴を陥れたあの3人をこの手で…!


五島田学
今回の事件の犯人「冥界のマエストロ」。

実は彼と美鶴は恋人同士であり、バイオリニストとしても、恋人としても彼にはかけがえのない存在であった。

今年の1月、音楽界の巨匠・アントニオ・ジェラルデリの来日公演に出演するはずだったバイオリニストが急病で出られなくなり、その代役として美鶴を抜擢する。
美鶴の才能を買っていたため彼女に出演を頼む事にしたが、急遽彼女の出演を決めたのは「世界最高レベルの評論家達が見守る舞台の上で、彼女の天才的な演奏を見てもらいたい」という思いがあったからだった。
だが演奏会当日、美鶴はなかなか会場に現れず、霧島達が様子を見に行った時には美鶴は雪道で倒れていた状態だった。
この事故により美鶴は手に酷い凍傷を負い、両腕の指を何本も切断する事となった。
バイオリニストとしての生命も一緒に断たれた美鶴は、それ以降別人のように塞ぎ込み、海の見える別荘に引きこもるようになる。
かつて美鶴が「もし死に場所を選べるなら、こんな海のあるところで死にたい」と冗談を言っていた事を思い出した五島田は、嫌な予感が脳裏をよぎりすぐに別荘へ駆けつける。
だがその頃には既に美鶴は手首を切って自殺しており、彼女の遺書には正気を失いかけた彼女の悲痛な叫びが便箋3枚に渡って書き連ねられていた。
手紙の最後には「あの「テスタ・ディ・ドラゴ」だけは誰にも渡さないで。もしできるなら私の亡骸と一緒に海に沈めて。先生のバイオリンは私のもの。誰にも渡さない。死をもって私はそれを知らしめる」と書かれており、これを読んだ五島田は彼女の遺体を海へ沈めた。
今回、弓削に届いた謎の手紙は、美鶴の遺書の最後の1枚だったのである。

その後、五島田は美鶴の死の真相を確かめるため、事故が起きる要因を作った霧島・白州・村雨の3人に、美鶴の奏でる「悪魔のトリル」を無言電話でかけ続ける。
すると彼らは思ったよりも早くボロを出した。

やはりあの事故は霧島達3人が仕組んだ卑劣な罠によって引き起こされたものだった。
美鶴の演奏会出演を聞いた白州は霧島や村雨と組み、彼女を演奏会に出られなくするような罠を仕掛けていたのである。
その結果、美鶴は音楽家生命を断たれ自殺をしたので、霧島は彼女を罠にかけた事がばれないか酷く怯えていた。
しかし、村雨は「ばれっこないだろ」と高を括り、白州は「仮に疑われても証拠はないわ」と言い張る。
そして、自分達がやった事はただの「偶然」だと言いきり…

自殺したのは美鶴の勝手――

あたしたちはなにもやましいことなんてしてない!


仮にあの子が冥界から甦ったとしてもなにもできやしないわ!

…と開き直ったかのように吐き捨てた。
これを立ち聞きした五島田は彼らに殺意が芽生え、美鶴の復讐を決意。

甦れ宝生美鶴!
「冥界のマエストロ」…!

悪魔の調べに乗って…


おぞましきエセ芸術家たちに

死を――!!

そして冥王星から計画を授かり、美鶴を死に追いやった白州達を悪魔の調べに乗って次々と殺害していった。

今回使われたトリックは「自動殺人トリック」であり、このトリックを使ったのは「館に閉じ込められている人間の中に犯人がいる」と思わせるためであった。
実はキンタ達との待ち合わせ場所に来るまでに、白州殺しと村雨殺しのトリックの仕込みを終えていた。
台風が来る日に会合の日取りを決めたのは、3人もの人間を一度に殺す密閉状況がどうしても必要だったからである。
白州殺しのアリバイトリックと、村雨殺しの毒殺トリック*3の下準備を済ませると急いで幻奏館を出発し、キンタ達との待ち合わせ場所に向かう。
その途中で通り過ぎた道を2箇所、ダイナマイトで爆破していった。
ダイナマイトで道を塞いだのは、単にターゲットを館に閉じ込めるだけではなく、白州と村雨が確実に死ぬまでの時間を稼ぐためと、自分の手で霧島を殺害するチャンスを作り出すためでもあった。
館へ向かう途中の崖で誰かに突き落とされたふりをして身を隠し、キンタ達が自分を探しに降りている隙に幻奏館へ向かう。
そして霧島の部屋の窓まで行き、窓を開けた霧島を注射器で毒殺。自殺に見せかける工作をした後ですぐに崖まで戻り、自分から崖を滑り降りてずっとそこで気絶したかのように偽装していた。

ちなみに館に向かう時にずっと持っていたバイオリンケースは実は空っぽであった。
弓削が自分のために選んでくれた大切なバイオリンを雨で台無しにしたくなくて持って来ていなかったが、それが裏目に出てしまい、「事件が起き演奏する機会がなくなる事を知っていたからバイオリンは持って来なかった」として犯人だと見破られてしまった。

罪を認めた後は、白州達を殺した動機を告白。
だが亜里沙が持っていた包丁を見た途端目つきがおかしくなり、包丁を拾い上げたキンタを突き飛ばしそれを構える。

神々の食卓の秘密を洩らせし者は

タルタロスへ堕ちる

そう言った途端、謎を解いたキュウを包丁で襲おうとするが、間に割って入ったリュウの左肩を刺す事となる。
すぐにキンタに取り押さえられるが、その直後に気を失ってしまった。
どうやら降霊術殺人事件や軽井沢映画祭殺人事件の時と同様に、謎の人物に強力な後催眠をかけられていたようだが……

白州真弓
村雨紫音
霧島想七太
3人で共謀し、弓削の後継者と言われていた美鶴を罠にかける。
3人それぞれ「偶然」を装った罠を美鶴に仕掛けて演奏会に出演できなくするが、その結果美鶴は酷い凍傷によりバイオリニストの命である指を失ってしまう。
霧島は秘密がばれるのを恐れていたが、村雨は秘密がばれるはずがないと高を括っており、白州にいたっては「誰かに疑われても証拠がない」「自殺したのは美鶴の勝手」と笑顔で言うなど微塵も罪悪感を持っていなかった。
その際に白州は「美鶴が甦ったとしても何もできやしない」と吐き捨てていたが、この言葉によって五島田の怒りを買い、次々と殺害される事となった。
しかし霧島に関しては、怯え方から白州や村雨と違い保身だけでなく、美鶴を自殺にまで追い込んでしまったことへの罪の意識もあったかもしれない。もし彼が正直に真実を話し相応の罰を受けていれば今回の事件は起きなかった可能性もある。

司馬朝絵
館にいた彼女は偽物で、正体はミス・カオリ。五島田の監視をするために司馬に変装し館に来ていた。
リュウに変装を見破られた時に、彼に「僕達DDSは事件の謎を既に解いた」と言われたので、この事を組織に報告する。
事件の謎をキュウに解かれると、自分達が立てた芸術犯罪を台無しにされたとして、あらかじめ後催眠をかけていた五島田を使い、自分達の災いの芽になりかねないキュウをこの場で殺害しようとした。
だが、リュウがキュウを庇った事で、五島田はリュウを刺してしまい、この失態が組織に知られれば処罰は免れないと震え上がる。
しかも本郷に今回の事件に冥王星が絡んでいる事に気づかれてしまったため、とりあえず司馬になりきりその場をやり過ごそうとした。
だが不用意な発言*4をしたせいで冥王星のメンバーである事がばれてしまい、抵抗をするもののあっという間に本郷に取り押さえられてしまった。

ちなみに計画を見届けた後は、五島田からテスタ・ディ・ドラゴを頂く手筈だった。
また、本物の司馬朝絵はどこかに拉致監禁されていて、事件を見届けた後で後催眠を使い、拉致された記憶を消して解放する予定だったらしい。

警察が到着するとすぐに身柄を引き渡されるが、パトカーで護送されていた時に組織のメンバーに催眠術をかけられ、「タルタロスタルタロス…」と呟いた後で顔を激しく引っ掻き車内で大暴れする。
すぐに警官に取り押さえられるが、組織が行った催眠術によって自分が誰なのかも分からない状態にされてしまった。

友情の決死行
後催眠で操られた五島田に左肩を刺されてしまったリュウ。
すぐに応急処置はされたが、傷は深く失血性ショックで貧血を起こしていた。
町へ続く道は崖崩れで塞がれていたが、早く病院へ運ばないと命が危なかったので、キンタはリュウを運ぶ役を買って出る。
後の事を本郷に任せ、リュウを担いで館を飛び出したキンタ。その途中で気がついたリュウに「こんな事になったのは俺のせいみたいなもんだからな」と謝るが、リュウはそれを否定し「僕の…せいだ…」と返していた。
1時間後、キンタ達が車を乗り捨てたところまで辿り着くが、そこの崖を登っていた時に手を滑らせ落ちそうになる。
咄嗟にキンタはリュウを崖の上に放り投げるが、その際に右肩を外してしまい、自力で登る事が出来なくなってしまう。
そこに、館にいるはずのキュウが登場。キンタが出て行った後にいてもたってもいられなくなったキュウは、命懸けで守ってくれたリュウを救うために、本郷の命令に背いて台車を駆使してここまで駆けつけたのである。
キュウ達は何とか崖崩れを乗り越えるが、そこにあるはずの本郷の車は谷底へ落ちており、救急車もそこからさらに10km先で発生した土砂崩れにより立ち往生していた。
それでもリュウを救うため、必死で走るキュウとキンタ。
その結果、何とか救急車のいるところまで辿り着き、病院へ運ばれたリュウは一命を取り留めた。
翌朝。病院で目を覚ましたリュウは、看護師からキュウ達の活躍で命が助かったと聞き、側で疲れ果てて眠っているキュウとキンタを見る。
その際に看護師に「この2人あなたの同級生?」と聞かれると、「同じ志を持つ仲間――いえ、親友です」と答えていた。

弓削雅臣
今回の後継者選びで、テスタ・ディ・ドラゴを五島田に譲ろうとしていた。
以前彼が言っていた「2人目の逸材」とは、五島田の事だったのである。
五島田は美鶴とはまったく違うタイプであったが、彼の隠れた才能を高く評価していたからこそ、彼をひときわ厳しく指導していた。
美鶴亡き後は後継者は五島田しかいないと密かに心に決めていたが、この事を早く打ち明けていれば今回の事件は起きなかったと思い、「私のせいだ…」と涙を流していた。

立木亜里沙
実は美鶴の実の妹。
美鶴の自殺の背景にテスタ・ディ・ドラゴの後継者争いがあった事を知り、自殺の真相を知るべく幻奏館にメイドとして来た。
五島田を美鶴の仇だと思い、最後に残った彼を自分の手で殺そうとして、キュウの推理中もずっと包丁を構えていた。
しかし、五島田が本当に美鶴の事を愛していたと知ると、包丁を落として涙を流し、自分は美鶴の実の妹である事を認めた。

夜が明けた後、3年前に亡くなった母が買ってくれたというバイオリンを演奏。
自分にはバイオリンの才能はないと言っていたが、その音色は荒削りだが心に響く、温かく明るい調べであった。
彼女の演奏を聴いた弓削は、その音色により自分の心に「希望」の灯がともったような感覚を覚える。
そして彼女を弟子に取る事に決め、生涯をかけて彼女の才能を伸ばす事を心に決めていた。

団守彦
事件解決後、弓削の様子を見るために彼の自宅を訪ねる。
弓削とは20年前のテスタ・ディ・ドラゴ盗難事件以来であり、招き入れられると久々の再会を喜んでいた。
弓削から「生涯をかけて亜里沙の才能を伸ばしていく」と聞かされると、厳しい面持ちで「同感です」と答える。
その様子を見ていた紫乃は、団の考えている事を察したのか心配した様子を見せていた。


【その後】
キュウとキンタの活躍により一命を取り留めたリュウ。
見舞いに来てくれたキュウ達に笑顔を見せ、「ありがとう」とお礼を言うが、彼らと入れ替わる形で見知らぬ男性が病室に入ってくる。
その男性はブラック・パールという品種の黒バラを持っており、幻奏館の事件の顛末をやけに詳しく知っていた。
男性の正体は、DDSの宿敵である冥王星の一員・ケルベロス。
先ほどミス・カオリに「処刑」を行ったのは、催眠暗示のエキスパートである彼であった。
彼が冥王星の一員だと知ると「卑劣な殺人集団だ!!」と軽蔑し、出て行くように言う。
その言葉に対しケルベロスは「我々は殺人集団などではなく、クライアントの正当なる願望に手を貸し、完璧な計画を立案しコーディネートする誇り高き頭脳集団です」と返した。
そしてリュウの事を「キング・ハデスの血を引く、「冥王星」の大切な後継者」と言うが、その言葉でリュウの怒りを買い、「僕はお前ら犯罪集団の後継者にはならない!!」と花瓶を投げつけられた。

ケルベロスは去り際に「あなたはあくまで私のもの」と黒バラの花言葉を教え、「逃れられません。「血の運命」からは…ね」と言って病室を後にする。
その途端リュウの肩が痛み出し、頭の中で「お前の体にはこの私と同じ、誇り高き「悪魔」の血が流れているのだ」との言葉が響く。
そして、自分の運命から逃れられないと悟ったリュウは「お願いです、どうかこの呪われた命を今すぐ絶ってください。さもなくば「悪魔の血」に最後まで抗う力を僕にください」と神に祈るのだった。

数日後、リュウは無事に退院。キュウ達はお好み焼き屋でリュウの退院を祝った。
お開きになった後、リュウはキュウに「しばらくキミの家に厄介になれないか?」と頼む。
いきなりの頼みについ驚くキュウだったが、リュウの家が複雑な家庭環境だと考え、彼を自宅へ歓迎した。
その際にキュウは「どんな事情で家出するかはわかんないけどさ!オレ、リュウの味方だよ!!」と笑みを浮かべ、リュウは「ありがとうキュウ、本当に…」とお礼を言っていた。


【余談】
ドラマ版では第2話にて、今回のトリックの1つ「共鳴振動トリック」が使われている。

アニメ版ではケルベロスの代わりにオリジナルキャラのサー・アヌビス(CV:緑川光)が登場し、入院したリュウと会っていた。





追記・修正は悪魔のトリルを演奏しながらお願いします。

モンテッソーリ

2021-01-31 02:42:48 | DSM
モンテッソーリ教育を受けた有名人は世界中にいる
世界の有名人が受けたモンテッソーリ教育
セルゲイ・ブリン&ラリー・ペイジ(Google創始者)
ジェフ・ベゾス(Amazon創始者)
マーク・ザッカーバーグ氏(Facebook創始者)
「自分で選んでつかみとる力」が身につくメリット
モンテッソーリ教育はお受験のための早期教育ではない
「子どもの自立を促す」という本質
幼児期にモンテッソーリ教育を受けた子どもの共通点
「小学校の一斉教育になじめるか」問題への回答
どんな教育もただ受けるだけでは、それ以上でもそれ以下でもない
「個」の確立があっての、他人への思いやり
これからの時代に求められる「非認知能力」とは?
2020年学習指導要領とモンテッソーリ教育の親和性
「非認知能力」が求められる理由はAIの台頭!?
どんな時代も生き抜くモンテっ子たち
モンテッソーリ教育を受けた子どもたちのその後が描かれた本
モンテッソーリ教育を受けた子どもたちーーー幼児の経験と脳
世界一の子ども教育モンテッソーリ 12歳までに脳を賢く優しく育てる方法
モンテッソーリ教育で子どもの本当の力を引き出す!
「発達っ子」のおうちモンテ2年後の変化
環境設定や習慣化が息子に向いていた!
自信を持てると自律心が育つのは本当だった!
まとめ:環境が整い、選択の自由があると、子どもの才能や自律心は伸びていく。
モンテッソーリ教育を受けた有名人は世界中にいる

世界の有名人が受けたモンテッソーリ教育

将棋の藤井聡太7段(2019年7月現在)で一躍注目を浴びたモンテッソーリ教育。
日本では欧米と比べて知名度はまだまだですが、世界を見渡してみると、たくさんのモンテッソーリ教育出身者がいます。
しかもかなりの有名どころがズラリと勢ぞろいです!

セルゲイ・ブリン&ラリー・ペイジ(Google創始者)


出典:Google
モンテッソーリ教育の学校に通っていた二人は、アメリカのTV番組で成功の理由の一つに「モンテッソーリ教育」があると答えています。

中でも「自分で選び、自分で考えるカリキュラム」があったことが重要だったということです。
彼らは起業後のGoogle社内においてもそのような企業文化を浸透させており、自主性を重んじる態度が、Googleと言う企業が次々と新しいサービスを生み出すエネルギー源になっていると語っています。

ジェフ・ベゾス(Amazon創始者)


出典:Reuters/Aflo
あまりの集中力に、ベゾス氏を移動させるには机と椅子ごと移動させなければならない、という逸話もあるそうです。
何もないところから全く新しいサービスや仕組みを生み出す独創性は、この集中力が鍵になっているのかもしれません。

マーク・ザッカーバーグ氏(Facebook創始者)


出典:REUTERS
Facebookの立ち上げ当初から「自由で公然とした情報の利用を可能にすべきだと考えていた」と話す彼もまた、既存の枠にしばられない 発想力のヒントをモンテッソーリ教育での取り組みから得ていたのかもしれません。

その他、ビル・ゲイツ氏(Micro Soft創業者)、バラック・オバマ前米大統領、英国王室(ウィリアム王子、ヘンリー王子、ウィリアム王子の長男ジョージ王子)、経済学者のピーター・ドラッカー、俳優兼映画監督ジョージ・クルーニー、などなど多くの著名人がモンテッソーリ教育を受けて育っています。

病跡学

2021-01-31 02:18:19 | DSM
日本病跡学雑誌
日本病跡学雑誌 (89), 46-64, 2015-06
日本病跡学会 ; [1969]-

強迫性障害
グレン・グールドの病跡,リズム論への寄与,演奏史上の位置
Glenn Gould : his Pathography, his Contribution to the Concept of Rhythm, and his Location in the History of Interpretation
津田 均

      第3回正賞 森島章仁『アントナン・アルトーと精神分裂病
      ─存在のブ ラックホールに向かって』関西大学出版会


伊東信宏(音楽学、大阪大学文学研究科)
「グールドと物としてのピアノの関係」



クルト・ゲーデル(Kurt Gödel, 1906年4月28日 - 1978年1月14日)は、オーストリア・ハンガリー帝国出身の数学者・論理学者・哲学者である。業績には、完全性定理、不完全性定理[1]および連続体仮説に関する研究が知られる。

Contents
1 略歴
1.1 オーストリア=ハンガリー帝国時代
1.2 アメリカ合衆国時代
2 業績
2.1 著作集
2.2 著書
3 参考文献
4 関連文献
5 備考
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
略歴[edit source]
オーストリア=ハンガリー帝国時代[edit source]
オーストリア=ハンガリー帝国のモラヴィアに生まれる。1924年、ゲーデルは、ウィーン大学に入学し、まず物理学を、後に数学を学んだ。そして、1930年には、最初の重要な業績である「第一階述語論理の完全性定理」を発表し、学位を得た。テオドール・スコーレム、ジャック・エルブランの二名がこれに限りなく等しい成果を出していたものの、ゲーデルが最終的に誤謬なく完成させた。
翌1931年、ゲーデル数の概念を用い、20世紀の数学基礎論、論理学にとって最も重要な発見とされる「不完全性定理」を発表した[2]。これは、ヒルベルトが数学の無矛盾性を証明するために推進した「ヒルベルト・プログラム」に関連して研究されたものであるが、「数学は自己の無矛盾性を証明できない」ことを示した不完全性定理は、ヒルベルト学派の主張した有限の立場を忠実に用いて、手法としての超数学を具体化することで、皮肉にもそのプログラムが本質的に不可能であることを暗示するというものであった。不完全性定理は、ジョン・フォン・ノイマンなど当代一流の学者の激賞を受け、「人間の理性の限界を示した」とも評されている。
1940年、ヒルベルトの第一問題(連続体仮説)について、「集合論のZF公理系が無矛盾ならば、そこに選択公理と一般連続体仮説を加えても無矛盾である」ということを証明した[3]。以上がゲーデルの三大業績と呼ばれている。この後、ゲーデルは、連続体仮説に関する研究から身を引いた。1963年、ポール・コーエンは、「ZF公理系に選択公理と一般連続体仮説の否定を加えても無矛盾である」ということを証明し、ゲーデルの結果と合わせて、「選択公理と一般連続体仮説はZFとは独立である(したがって、証明も否定の証明もできない)」ということを示した。このとき、ゲーデルは「これは自分がなすべき仕事だった」と悔やんだと言われ、コーエンの仕事を絶賛した。その一方で、ゲーデルは「すべての数学的命題に対して、人間は真偽を判定することが可能である」と信じていたと言われる。特に、連続体仮説に関しては、その否定を信じていた。
アメリカ合衆国時代[edit source]
ゲーデルは、ウィーン大学の講師を勤めたが、1940年頃にはナチス・ドイツを逃れるために、妻アデルと共にアメリカ合衆国に移住した[4]。ゲーデルは、米国の市民権を取得し[5]、プリンストン高等研究所の教授となった。この研究所では、アインシュタインと家族ぐるみで親密に交流し、物理学や哲学などについて議論を交わした。その結果アインシュタインの一般相対性理論におけるゲーデル解(1949年)を生んだ。この解は、非常に奇妙な性質を示したために、アインシュタインをして自身の理論に疑問を抱かせるに至った。
この渡米の際に「新居を購入[6]」する偽装工作を余儀なくされたために、人間不信に近い症状が出ていたようである。ゲーデルは英語を選択科目で選んだため語学の問題がなかったが、妻が英語をほとんど話せなかった[7]ために多くのトラブルが生まれたらしい。
1948年、ゲーデルは、アメリカ市民権を取得する。このとき、保証人に名を連ねたのがアインシュタインである。当時、アメリカ市民権を取得するには、米国憲法に関する面接試験が課せられていた。そのため、ゲーデルは、合衆国憲法を一から勉強しはじめた。面接当日、ゲーデルは「合衆国憲法が独裁国家に合法的に移行する可能性を秘めていることを発見した」とアインシュタインたちに語り、彼らを当惑させた。そして、移民審査をする判事から「あなたは、独裁国家(ナチス・ドイツに併合されたオーストリア)から来られたのですね。我がアメリカ合衆国ではそのようなことは起きませんから、安心してください」と言われた際、ゲーデルは、即座に「それどころか私は、いかにしてそのようなことが起こりうるのかを証明できるのです」と答えた。そのため、その場に付き添っていたアインシュタインたちが慌てて場を取り繕うという一幕があった[8]。
連続体仮説が偽で、ランダム性はいかなる局面においても完全に排除できることを疑わなかったため、ゲーデルの数学と論理学の研究は頭打ちになってしまった。1970年代初頭には、ポール・エルデシュからの「お前は皆の研究対象になるために数学者になったのであって、お前のライプニッツ研究のために数学者になったんじゃないんだ![9]」との懇願にもかかわらず、ライプニッツ研究を放棄することはできなかった。ライプニッツによる「神の存在証明」を洗練させたゲーデルの神の存在証明(英語版)として知られる論文を知人に配布した。しかし、その目的が、神学論争への加担ではなく、あくまで論理学的な興味の追求にあったため、ゲーデルは、誤解を恐れて生前は公表しなかった。その中で、ゲーデルは、ライプニッツの主張について、公理系を解明しつつ様相論理の手法を用いて明確な定式化を試みた。この論文は、ゲーデルが没してから9年後の1987年にデイナ・スコットの手によって初めて出版された。
晩年は、非常に内向的となった。また、精神にも失調をきたしており、毒殺されることを恐れるあまり、妻アデルが作った食事以外は、自分が調理した食事すら口にしなかった。その他にも、毒ガスによる暗殺を恐れたために、冬でも家の窓を開け放っていた。また、人前に出ることはほとんどなく、自宅に籠って哲学と論理学の研究を続けていた。最終的には、アデルが病院に入院して自宅を離れていた期間に、絶食による飢餓状態となった。すぐに病院に搬送されたが、プリンストン病院で死去した。このとき、ゲーデルの体重は、65ポンド(約29.5kg)しかなかった。
1987年に証明されたチャイティンの定理[10]と1991年に証明されたグリムの定理[11]は、ゲーデルの信念とは正反対の結果を示していた。
彼の遺稿は、大学時代までに修得した英語、ドイツ語、およびガベルスベルガー式速記と呼ばれるドイツの古い速記法で書かれているが、その速記法はすでに淘汰されたタイプであるため、解読が困難であることで知られている。幸い、彼が潔癖で几帳面であったため、遺稿のほぼすべてが残されている[12]。

Later life and death[edit]
Later in his life, Gödel suffered periods of mental instability and illness. Following the assassination of his close friend Moritz Schlick,[32] Gödel had an obsessive fear of being poisoned; he would eat only food that his wife, Adele, prepared for him. Late in 1977, she was hospitalized for six months and could subsequently no longer prepare her husband's food. In her absence, he refused to eat, eventually starving to death.[33] He weighed 29 kilograms (65 lb) when he died. His death certificate reported that he died of "malnutrition and inanition caused by personality disturbance" in Princeton Hospital on January 14, 1978.[34] He was buried in Princeton Cemetery. Adele's death followed in 1981.[35]

Personal life[edit]
Religious views[edit]
Gödel was a convinced theist, in the Christian tradition.[36] He held the notion that God was personal.

He believed firmly in an afterlife, stating: "Of course this supposes that there are many relationships which today's science and received wisdom haven't any inkling of. But I am convinced of this [the afterlife], independently of any theology." It is "possible today to perceive, by pure reasoning" that it "is entirely consistent with known facts." "If the world is rationally constructed and has meaning, then there must be such a thing [as an afterlife]."[37]

In an unmailed answer to a questionnaire, Gödel described his religion as "baptized Lutheran (but not member of any religious congregation). My belief is theistic, not pantheistic, following Leibniz rather than Spinoza."[38] Describing religion(s) in general, Gödel said: "Religions are, for the most part, bad—but religion is not".[39] According to his wife Adele, "Gödel, although he did not go to church, was religious and read the Bible in bed every Sunday morning",[40] while of Islam, he said, "I like Islam: it is a consistent [or consequential] idea of religion and open-minded."[41]


Enfance[modifier | modifier le code]
Kurt Gödel est le fils cadet de Rudolf Gödel, directeur et copropriétaire d'une grande entreprise textile de Brno, dans l'actuelle Tchéquien 2, et de Marianne Handschuhn 3. Rudolf Gödel a deux fils : l'aîné, également prénommé Rudolf, et Kurt. Ni l'un ni l'autre ne suivent ses pas sur le chemin de l'industrie ou du commerce. Rudolf fils devient un médecin de renom à Vienne où il dirigera une clinique réputée.

Au sein de cette famille germanophone, le petit Kurt pose des questions avec tant d'insistance sur tout ce qu'il voit, qu'il est surnommé Der Herr Warum (Monsieur Pourquoi). À l'âge de six ans, il est frappé par une crise de fièvre rhumatismale, qui le cloue au lit pendant plusieurs jours, mais dont il se rétablit complètement, du moins physiquementn 4. À l'âge de douze ans, lors du démembrement de l'Autriche-Hongrie le 28 octobre 1918, il devient de fait Tchécoslovaque. À Brno, il est un brillant élève à l'école primaire, puis secondaire qu'il termine avec les honneurs en 1923. C'est à l'âge de quinze ans qu'il prend la ferme décision de se consacrer à la physiquen 5,6.

Études à Vienne[modifier | modifier le code]
Bien que Gödel ait d'abord excellé en langues (dans sa jeunesse, il parlait et écrivait un français et un anglais parfaits4), à l'âge de dix-huit ans, il rejoint son frère à l'université de Vienne pour y entamer des études de physique, qu'il abandonne assez rapidement. À cette époque, Philipp Furtwängler, un mathématicien allemand spécialisé en arithmétique supérieure, enseigne à Vienne, ses cours sont célèbres pour leur excellence et leur clartén 6. Le jeune Gödel demeure tellement marqué par les cours de Furtwängler qu'il abandonne ses études de physique pour se consacrer aux mathématiquesn 7. Nous savons très peu de choses sur la vie privée de Gödel pendant ses années d'études à Vienne. Il allait épouser une femme de dix ans son aînée, mais ses parents s'y opposent, et Kurt renonce à ce mariage. Apparemment, il consacrait le plus clair de son temps aux études. C'est cependant à l'université de Vienne qu'il rencontre celle qui deviendra — tardivement — sa femme, Adele Porkert8.

C'est à cette époque qu'il adhère au réalisme mathématique. Il lit Metaphysische Anfangsgründe der Naturwissenschaft (Premiers principes métaphysiques de la science de la nature) de Kant. En 1926, il est invité par Moritz Schlick, son ancien professeur en philosophie des sciences à l'université, à assister aux réunions hebdomadaires du Cercle de Vienne dont Hans Hahn (futur directeur de thèse de Gödel), Rudolf Carnap, Ludwig Wittgenstein étaient membresn 8. Lors de ces réunions étaient abordés des sujets de mathématiques et notamment les solutions proposées par Russell, Brouwer et Hilbert au problème de la crise des fondements. C'est sans doute dans ce contexte que Gödel acquiert pour la première fois sa profonde connaissance du programme formaliste. Il assiste aux réunions avec assiduité jusqu'en 1928, uniquement en tant qu'auditeur. Après avoir participé au Cercle de Vienne, Gödel décide, en 1928, de se consacrer définitivement à la logique mathématique (intérêt qu'il développe à la suite d'un séminaire de Schlick). Il assiste à une conférence de David Hilbert à Bologne sur la complétude et la cohérence des systèmes mathématiques.

Durant l'année 1929, il achève sa thèse de doctorat portant sur un problème lié au programme de Hilbert et la soumet, le 6 février 1930, à l'université de Vienne. Il la présente sous forme d'article la même année. Ce travail, qui constitue sa première publication scientifique, figure dans le numéro 37 (1930) de la revue Monatshefte für Mathematik und Physik sous le titre "La complétude des axiomes du calcul logique de premier ordre". Toujours en 1929, Gödel devient citoyen autrichien. Puis, en 1932, il obtient son diplôme à l'université de Vienne.

La publication de son premier théorème d'incomplétude, en 1931, fait de Gödel une célébrité internationale dans le monde des mathématiques. Son nom commence à être cité dans tous les forums et congrès, et sa démonstration devient — et reste encore aujourd'hui — un classique du raisonnement mathématique. Il ne peut profiter immédiatement de sa célébrité méritée, car, une fois son article terminé, il connaît de graves troubles nerveux pendant plusieurs mois, conséquence indéniable du stress engendré par la présentation de son théorème. Quant au second théorème d'incomplétude, l'article de 1931 ne fournit que les grandes lignes du déroulement de sa démonstration, Gödel proposant de le démontrer dans une seconde partie de l'article. Cependant, ses troubles nerveux l'empêchent de le rédiger dans les mois qui suivent et, lorsqu'il est enfin remis, il se rend compte que les démonstrations de ses deux théorèmes — y compris celle du second simplement évoquée — sont si bien acceptées que toute clarification ultérieure serait inutile. Après avoir surmonté ses troubles nerveux, il devient en 1933 Privatdozent (maître de conférences) de l'université de Vienne.

Il est invité la même année à donner une conférence lors de la réunion annuelle de l'American Mathematical Society. Lors de ce premier voyage, il fait la connaissance d'Albert Einstein qui avait émigré aux États-Unis en 1932. Entre eux naît une amitié qui durera jusqu'au décès d'Einstein en 1955. Au cours des deux années suivantes, 1934 et 1935, il se rend à nouveau aux États-Unis où il est invité à deux reprises par l’Institut d'Études avancées de Princeton. Il y donne plusieurs cours et conférencesn 9 sur ses deux théorèmes d'incomplétude ainsi que sur d'autres thèmes — qu'il avait abordés lors de recherches ultérieures —, dont la calculabilité et les fonctions récursives ; en particulier, il donne une conférence sur les fonctions récursives générales et sur le concept de vérité. Au cours de ses voyages aux États-Unis, Gödel expose ses méthodes, ses idées, les problèmes auxquels il réfléchit et cela stimule l'école américaine de logique mathématiquen 10 ainsi que la logique mathématique en général.

Cependant, le 22 juin 1936, a lieu l'assassinat, par Johann Nelböck, un jeune étudiant mentalement dérangé, de Moritz Schlick ; ce crime affecte particulièrement Gödel qui traverse sa première dépression. Il retourne à Princeton au cours de la même année. Les voyages et ses travaux l'épuisent, si bien qu'il consacre la plus grande partie de l'année suivante à soigner une nouvelle dépression. Il revient à l'enseignement en 1937, période durant laquelle il travaille à la démonstration de la cohérence relative et de l'indépendance de l'hypothèse du continu. Il achoppe à démontrer l'indépendance (ce qui ne sera fait qu'en 1963, par Paul Cohen), mais il réussit à établir que l'hypothèse du continu ne peut pas être réfutée à partir des axiomes de la théorie des ensembles.

Après l'Anschluss de 1938, l'Autriche tombe sous la coupe de l'Allemagne nazie. Cette dernière ayant aboli le titre de Privatdozent, Gödel perd son emploi. Cela ne l'empêche pas de se marier à l'université de Vienne, le 20 septembre 1938, avec Adele Porkert, une danseuse divorcée de six ans son aînée, qu'il avait rencontrée en 1927. Ses liens avec des professeurs juifs, comme son tuteur de thèse Hans Hahn, lui causent des problèmes. En 1938 et 1939, il se rend à nouveau à l'Institut d'études avancées et, au cours de ces voyages, en plus de donner des cours et des conférences, il prend des contacts institutionnels en vue de préparer sa future admission en tant que professeur, au cas où il devrait quitter l'Autriche. De retour à Vienne, après son second voyage, il est attaqué par un groupe d'étudiants d'extrême droiten 11. Sa présence en tant qu'intellectuel indépendant étant une gêne pour les nazis, en octobre 1939, il est inscrit sur une « liste noire ». Cette inscription officialise son statut de chômeur et, sous le régime nazi, les chômeurs sont presque systématiquement recrutés par l'armée. En effet, peu de temps après, il reçoit son ordre d'incorporation. Au lieu de rejoindre son régiment, Kurt Gödel fuit l'Autriche, en compagnie d'Adele Porkert, en janvier 1940 et se rend aux États-Unis par l'un des chemins les plus longs qui soit, c'est-à-dire à travers la Russie, la Sibérie, le Japon et l'Océan Pacifiquen 12. Ils arrivent à San Francisco le 4 mars suivant, après avoir emprunté le Transsibérien et traversé l'océan Pacifique incognito, de peur d'être arrêtés12,13,14.

Émigration aux États-Unis[modifier | modifier le code]

Le campus de l’Institute for Advanced Study.
Grâce à ses contacts, Gödel obtient immédiatement un poste de professeur invité à l'Institut d'études avancées de Princeton. En 1946, il y est intégré de façon permanente et, à la fin de l'année 1947, il doit subir un examen en vue de sa naturalisation, avec pour témoins ses amis Oskar Morgenstern et Albert Einstein. Pour une personne possédant ses références, il s'agit d'une formalité, mais Gödel se prépare avec une extrême minutie, et alors qu'il étudie la constitution américaine, il pense y découvrir une faille logique qui permettrait de transformer en toute légalité le régime politique du pays en régime dictatorial. Il fait part de sa découverte à ses deux amis, fort inquiets que Gödel n'aborde le sujet avec le juge chargé de l'entretien préalable à la naturalisation. Tous deux sont convaincus d'avoir réussi à en dissuader Gödel, mais en quelques phrases le sujet revient : le juge s'enquiert d'abord du régime politique en vigueur en Autriche, Gödel répond que celui-ci, autrefois une démocratie, s'est transformé en dictature ; le juge rétorque qu'une telle chose ne pourrait arriver en Amérique, mais Gödel soutient le contraire, et dit qu'il peut le prouver. Le juge, qui connaît Einstein, décide de terminer l'entretien sans son explication, qui ne sera jamais révélée15,n 13,17.

Fin de vie[modifier | modifier le code]

Pierre tombale de Kurt Gödel.
Ses troubles mentaux s'aggravent et, au milieu des années soixante-dix, se transforment en délire de persécution. Il se fait de plus en plus de souci pour sa santé, se convainc de l'existence d'un complot visant à l'empoisonner. Il refuse d'ailleurs de manger à moins qu'Adèle ne goûte d'abord les aliments. Fin 1977, Adèle doit être hospitalisée pendant six mois pour différents problèmes de santé et Gödel, qui reste seul avec ses peurs et ses obsessions, cesse pratiquement de s'alimenter, tombant progressivement dans la cachexie18. Il doit être interné à l'hôpital de Princeton où il décède le 14 janvier 1978 ; il pesait alors 65 livres (29,5 kg)19,20.

Portrait[modifier | modifier le code]
Enfant timide et introverti, il demeure toujours très attaché à sa mère — dotée d'une grande sensibilité artistique — et se sent quelque peu perdu lorsqu'elle n'est pas à la maison. Son caractère timide et introverti le suivra toute sa vie. Il n'est pas un boute-en-train, ne fait rire personne avec ses plaisanteries, mais n'en a pas non plus besoin. La crise de fièvre rhumatismale qui l'a frappé à l'âge de six ans est, selon son frère médecin, responsable de sa profonde hypocondrie, une des principales caractéristiques de sa personnalitén 14. Adulte, Gödel est fortement pessimiste quant au destin de l'humanité, une attitude courante lors des premières années de l'ère nucléaire22.

Métaphysique[modifier | modifier le code]
À partir de 1950, Gödel publie peu, mais ne cesse de penser ni d'écrire, et il laisse à sa mort un nombre impressionnant de manuscrits inédits consacrés principalement à la philosophie et à la théologie, avec des recherches, entre autres, sur l'existence de Dieu, la transmigration des âmes ou l'analyse des travaux philosophiques de Leibniz. Parmi ces écrits inédits, se trouve le texte de la "conférence de Gibbs" que Gödel fut invité à dicter lors de la réunion annuelle de l'American Mathematical Society, organisée le 26 décembre 1951 à Providence, aux États-Unisn 15. Au cours des années suivantes, il se consacre à l'amélioration de son manuscrit dans le but de le publier, mais ne parvient jamais à lui donner une forme qui lui semble acceptable. Finalement, il est publié en 1994 dans un volume intitulé Kurt Gödel : essais inédits. Concrètement, il soutient, lors de cette conférence, que ses théorèmes démontrent que le platonisme mathématique constitue la position correcte en philosophie des mathématiquesn 16,25,n 17.

Âgé de 70 ans, Gödel, qui est profondément mystique, fait circuler parmi ses amis un document proposant une preuve ontologique de l'existence de Dieu, inspirée de l'argument d'Anselme de Cantorbéry et de travaux de Leibniz et connue aujourd’hui sous le nom de « preuve ontologique de Gödel ». Il s'intéressait aussi beaucoup aux visions des grands mystiques comme sainte Catherine Emmerich ou Grégoire Palamas27.

Gödel, en plus de sa foi en Dieu, s'interroge sur l'existence des anges et du diable. Laurent Lemire écrit : « Kurt Gödel, (...) auteur du théorème d'incomplétude, croit aux anges et au diable dans un univers mathématique, un univers « idéal », par opposition à l'univers réel perceptible, dans lequel vivraient les « anges » et « démons », comme nous vivons dans l'univers réel. Persuadé qu’on veut l’empoisonner, il meurt, volontairement affamé18,n 18 ». Cela provient de ses réflexions sur l'intuition et l'incomplétude, en effet, puisque l'intuition a parfois produit des thèses mathématiques ne pouvant ni être démontrées, ni être infirmées mathématiquement, il considère que soit le cerveau est une machine de Turing, et il existe donc des problèmes indécidables pour l'humain, ce qui signifie que « les propriétés mathématiques qui nous échappent ont une existence autonome », soit le cerveau surpasse les machines de Turing, et donc l'esprit humain est « une réalité indépendante du monde sensible »29. La difficulté de cette approche est la communication du cerveau, matériel et fini, avec cet univers idéel : il envisage l'existence d'un « organe de l'intuition » ayant accès à cet univers idéeln 19, malgré les difficultés de cette spéculation.

Une conséquence de sa vision d'un monde réel limité voulu par Dieu, est que la recherche, la métaphysique ou la philosophie, sont en contradiction avec cette volonté de limitation de la compréhension du monde. Ce point alimente ses craintes, et il va même jusqu'à estimer les grands penseurs en dangern 20,n 21. Gödel préfère rester discret sur cette conception du monde, qui n'est décrite que dans ses notes personnelles : « je ne rends publiques que les parties de ma philosophie qui se prêtent le moins à la controverse »33.


強迫性障害

2021-01-31 00:28:03 | DSM
2021-01-31 00:28:03
Glenn Gould
グールドには、もう一つ有名な奇行があった。レコーディングのとき、必ずトラの皮を持参して、それを椅子に敷くのだという。こうした儀式的な強迫行為は、しばしば安定剤的な作用を持っている。シュールレアリズムの画家ダリも、どこへいくときも木彫りの人形を手放さなかったことで有名だ。あるとき、木彫りの人形が行方不明になったことがあって、ダリは泡を吹いて倒れそうなほど、激しいパニックに陥ったという。


精神分析学者の岸田秀さんは、青年の頃、奇妙な癖に悩まされたという。その癖とは、借りてもいないものを返したくなるというものであった。借りてもいない傘を、これ、ありがとうございました、と言って返そうとしたり、これ、借りていましたねと言って、借りてもいない五千円を相手に渡そうとする。怪訝そうにする相手に、無理矢理押しつけてでも、とにかく返そうとする。

岸田さんは、自分でもどうしてかわからないのだが、そうしないではいられなかったのだという。ところが、ある日、岸田さんは、フロイトの全集を読んでいて、自分と極めて似たケースに出会ったのである。
 
 それは「鼠男」とよばれるケースで、ある将校がやはり借りてもいない金を返すという強迫観念に悩まされていたのである。だが、「鼠男」のケースにおけるフロイトの解釈は、岸田さんにはそのまま当てはまりそうもなく、腑に落ちなかったようだ。その辺りの謎を解明したいという思いが、岸田さんを精神分析への興味を深めていった。そして、長い自己分析の後、岸田さんは自分をとらえていた不可解な衝動の正体を理解するようになる。

  岸田青年を奇妙な強迫行為に駆り立てていた原因は、彼と彼の母親との関係にあった。実は、彼は貰われ子としてその家の養子となっていた。つまり彼は養父母に育てられたのである。しかし、血はつながっていなくても、母親は彼にとって理想的な母親に思えるほど、大切に育ててくれた。母親は苦労して映画館を経営していたが、それを彼に継いでほしいと望んでいた。そして、母親は彼が幼い頃から、この映画館を維持してくるのに、どれほど苦労したか、それを息子に継がせたい一心で頑張っていることを、切々と聞かせ続けたという。その話を聞く度に、幼心に、大きくなったら母親の恩に報いねばと思っていたという。

 ところが中学生になった頃から、岸田さんは映画館を継ぎたくないと思い、それを口にするようになった。それに対して、ますます母親は、そうした苦労話を繰り返すようになったが、岸田さんは一層それに反発するようになった。しかし、その一方で、恩のある母親の願いを拒むことに居心地の悪い思いも感じていた。借りてもいない金を返さなければという強迫観念に囚われ始めたのは、実に、この頃からだったのである。恩を返さなければならないという思いと、それを踏みにじる行動をしているという罪悪感が、岸田青年の強迫行動の根底にあったのである。




2021-01-21 02:40:04

強迫性障害 強迫症状(強迫観念や強迫行為)の具体例

汚染に対する恐怖 他人や動物など周囲のものから汚染されるという強迫観念から、汚染を避けようとしたり、洗浄行為をくり返す強迫行為を認めます。

baikin例えば、 ドアの取っ手や電気のスイッチ、道路上の汚れ、床に落ちたものなどに触ることができません。ほこりや細菌、他人の血液や尿などの体液、犬猫鳥の糞便などが目に見えなくても少量ついているかもしれない、などと考えてしまうのです。意識して触らないようにしていても、「もしかしたら無意識に触ったかもしれない」などと想像してしまうだけでも強い不安に駆られて、不安手洗いが消えるまで洗浄や消毒行為をくり返してしまいます。外出して帰宅したら玄関から風呂場に直行して入浴しなければならないとか、外出着は玄関で脱いでビニール袋を二重にした中に入れて他の洗濯物とは区別して洗うとか、自分なりの「汚染防止対策」を決めて実行せずにはいられないこともあります。

一度思いついた対策法は、その必要性を完全に否定できる根拠がなければ採用しなければならないため、次第にエスカレートしていきます。
なお、不安を強める要因として細菌やウイルスなどに汚染されたかもしれないという疑いから死への恐怖感が呼び起こされるケースと、「汚い感じ」に対する極度の不快感から、思考の混乱がもたらされるケースがあるようです。
また、前者では自分の身を案じるよりも、汚染を伝播して家族や周囲に迷惑をかけてしまうことを恐れている場合も少なくありません。

●自分や他人を誤って傷つけてしまうことへの不安

自分が望んでもいないのに、誤って、または無意識に、他人を傷つけてしまうのではないかという強い心配です。
例えば、
車を運転しているときに、ちょっとした振動があると「今、誰かをひいてしまったのではないか」と不安に思い、一回確認しただけでは誰もひいてないという自信が持てず、何度も確認したり、それでも確信が持てないと警察に出頭しようと思いつめたりします。
また、道を歩いているときに、お年よりや子供にぶつかって怪我をさせたりはしないかと不安に思い、通行人と必要以上に距離をとって歩くこともあります。強迫性障害●物の存在、規則性、正しさへのこだわり

文具や本などが無造作に置いてあるという状況において、物が「ここにある」という確かな実感が得られず、何度も何度も物を置きなおさずにはいられないという症状を訴える患者さんがいます。また、「左右対称」や「正しい順序」など、一定のルールを守って物が存在することを追及せずにはいられないという症状もあります。もしも物の存在や配置が「不確かだ」「ちゃんとしていない」などと感じると、なんとも居心地が悪く不安でそわそわして落ち着きません。このため整理整頓に非常に多くの時間や労力を費やしてしまいます。家族でも自分の部屋には入れたがらないことも少なくありません。なにか物の配置に変化がおきてしまったのではないか、など考えると混乱するためです。 ●保存へのこだわり

本当はもう不要だと分かっているごみでも捨てることができない状態です。ごみと一緒に大切なものまで捨ててしまうことを恐れたり、ごみという判断に自信がない、などの不安を伴っていることもあります。このような強迫症状が強い場合は、部屋がごみだらけになってしまうこともあります。強迫性障害●不謹慎な考えに対する罪と罰への不安

自分の本心とは全く逆のことが浮かんできて、自分はなぜそんなことを思ってしまうのか分からずに苦しむ状態です。
例えば、
交通事故の現場を見て、本当は心から同情しているのに全く逆の雑念(「ざまぁみろ」など)が浮かんできて、罪の意識にかられて自分を責めたり、罰が当たることを恐れたり、自分の行為を何度も心の中で謝り続けたりします。また、不吉な空想をしてしまうと、「空想は願望のひとつなのではないか」「強く願うことが実現しやすいというのなら、不吉な空想だって実現しやすいのではないか」などと恐れることもあります。この不安を帳消しにするために、逆の内容の空想を思い浮かべて帳消しにしようとします。

「不吉な空想をしているときに行っていた行動は、よい空想をしながらもう一度やり直さないと本当に不吉なことが起きるかもしれない」という発想から、同じ行動をひたすら繰り返す場合などです。周囲から見ていると同じ行動を無目的に繰り返しているように見えるのですが、本人は必死なわけです。同じ動作を繰り返している患者さんが、家族に声をかけられて怒り出した、という話はよくききます。

本人は動作を反復しつつ頭のなかをよい空想だけで一杯にしておくことに専念しているわけですが、そこで家族から声をかけられると「いまの瞬間に何か悪い空想が混じってしまったかもしれない」とか「努力が台無しになった」と感じたりするのです。

🇫🇷Institut Francais

2021-01-30 20:45:13 | 🇫🇷
教師紹介
当館の講座は、資格を持ち厳選された教師陣によって行われています。教師は外国語としてのフランス語教授法専門教育課程を経たプロフェッショナルです。また、教師の多くはフランス文化に広く精通し、その分野の専門家でもあります。当館は教師陣と共に、フランス語とフランスの素晴らしさを伝えるべく質の高い授業をお約束します。

FLE:Français langue étrangère 外国語としてのフランス語教授法。フランス語を母国語でない人にフランス語を教えるための専門教育講座。
DUFLE:Diplôme universitaire de Français langues étrangère フランスの大学のFLE(外国語としてのフランス語教授法)リサンス(学士)資格。
マスター1:大学4年目に当たる。修士課程第1学年。
マスター2:マスター1習得後の大学5年目に当たる。修士課程第2学年目。
DELF-DALF:DELF-DALF試験官・採点の資格を有する。
TCF:TCF試験官の資格を有する。
DELF-DALF +:DELF-DALF試験官・採点者養成研修担当の資格を有する。


Mme BERDER-TOMOTSUGU Agathe
Mme BERDER-TOMOTSUGU Agatheパリ政治学院卒、青山学院大学講師、日本語能力試験1級、TCF、専門:ビジネスフランス語

Mme BOUNY Céline
Mme BOUNY CélineDUFLE(ルマン大学)、国際ビジネスマスター2

M. BERTHET Didier
M. BERTHET Didier現代文学専攻研究専門修士、FLE マスター1、外務省講師、都内大学講師、学生のためのフランス語短期集中講座コーディネーター、DELF-DALF

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Mme CAILLAUD MarionDAEFLE(アリアンス・フランセーズ)、マーケティング&コミュニケーションマスター2(ボルドー第4大学)、DELF-DALF Primo

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M. CAJOT KévinDUFLE、日本学マスター1(ストラスブール大学)、製パンCAP (INBP)、学習院大学講師、専門:製パン用語

Mme CLOOSE Eliane
Mme CLOOSE Eliane財産マネージメントDES、慶応義塾大学講師、早稲田大学講師、DELF-DALF、専門:財産マネージメント

Mme COLLIN Angélique
Mme COLLIN Angélique日本語学士(INALCO)、DELF-DALF

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Mme COUDENE CéciliaFLEマスター1(グルノーブル第3大学)、中国語マスター1、日本語マスター1(INALCO)、TCF

Mme DE LENCQUESAING Marion
Mme DE LENCQUESAING Marion現代文学アグレジェ(高等教育教授資格)、文学博士(パリ第3大学)、青山学院大学准教授

M. DELMAIRE Gilles
M. DELMAIRE GillesFLEマスター1(パリ第3大学)、上智大学講師、DELF-DALF

M. DE SOLA Thomas
M. DE SOLA ThomasDUFLE、外務省講師、専門:ニュース、口頭表現、コミュニケーション

M. DESPREZ Michaël
M. DESPREZ Michaël高等師範学校卒、文学博士、上智大学教授

M. DUPUY Jean-Gabriel
M. DUPUY Jean-Gabriel言語学学士、FLEマスター1(トゥールーズ・ル・ミライユ大学)、フランスにて小学校教師、NHKワールド ラジオ日本(翻訳・アナウンサー)、専門:映画、音楽、演劇、舞台芸術

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Mme FIFE BeatrixFLE言語学マスター2(フランシュ=コンテ大学)、東京大学講師、早稲田大学講師、アーティスト、音楽家

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Mme FONDECAVE Audreyマルセイユ美術・デザイン学校卒業、大阪大学卒業、アーティスト、エディター

Mme FRENEHARD Gaëlle
Mme FRENEHARD Gaëlle教育コーディネーター、教師トレーナー、FLEマスター2、日本文学学士(INALCO)、DELF-DALF +、TCF

Mme FUKUZAKI Yûko
Mme FUKUZAKI Yûko上智大学名誉教授、会議通訳者、翻訳家

M. GROISARD Jocelyn
M. GROISARD Jocelyn首都大学東京准教授

M. GUILLOU Valentin
M. GUILLOU ValentinFLEマスター1(トゥールーズ大学)、DELF-DALF

Mme HEURÉ Peggy
Mme HEURÉ PeggyFLEマスター2(メーヌ大学、ルーアン大学)、パブリックマネージメントマスター1(エクス・アン・プロヴァンス大学)、TCF、専門:子どものためのクラス

M. HORI Shigeki
M. HORI Shigeki慶應義塾大学名誉教授、思想史家、エッセイスト、翻訳家(アゴタ・クリストフ、エマニュエル・トッドなど)

M. IGARASHI Kantaro
M. IGARASHI KantaroDUFLE、日本語学士(INALCO)、外務省講師、在仏27年、フランス語・日本語ともに母国語、DELF-DALF

Mme ISHIZAWA Kiri
Mme ISHIZAWA Kiriジャーナリスト、手工芸、フランス・アンティーク研究家、アンティーク鑑定師養成学校IESA卒業(パリ)、カルチャー・サロン「プティ・セナクル」主宰、著書多数

M. KATAYAMA Mikio
M. KATAYAMA Mikioフランス文学・比較文学DEAマスター2(パリ第10大学)、早稲田大学・武蔵大学講師、フランス文学、演劇学、FLE、ラテン語

Mme KAWAI Emi
Mme KAWAI Emi駒澤女子大学非常勤講師、西洋アンティーク鑑定検定試験協会代表理事、仏国立アンティークディーラー組合認定ディプロム取得、専門:アンティーク

M. KIAKAMI Rigue
M. KIAKAMI Rigueフランス大使館文化参事官通訳、バカロレア(東京国際フランス学園)、国際関係専攻及び翻訳通訳専攻学士(INALCO)

M. KOISHI Satoru
M. KOISHI Satoru獨協大学名誉教授、フランス語学・フランス語教授法専門家

Mme KUBOKI Eiko
Mme KUBOKI Eiko白百合大学フランス文学科卒、パリ第4大学現代フランス文学留学、ソムリエ協会認定ソムリエ、チーズプロフェッショナル協会認定チーズプロフェッショナル

M. LAVIGNASSE Christophe
M. LAVIGNASSE ChristopheFLE マスター1、人口統計分析学研究専門修士(ボルドー大学)、DELF-DALF、TCF

Mme LE CALVÉ Christelle
Mme LE CALVÉ Christelle教師コーディネーター、FLEマスター2(アンジェ大学)、DELF-DALF

Mme LEMAITRE Catherine
Mme LEMAITRE Catherine芸術史・考古学学士(ソルボンヌ第4大学)、DUFLE、編集者、翻訳家、DELF-DALF

M. LEMOINE Fabien
M. LEMOINE Fabien言語教育学マスター1(INALCO)、女子美術大学講師、空手教師

M. LETT François-Xavier
M. LETT FrançoisFLEマスター1、現代文学マスター1(ニース大学)、都内大学講師

M. LEYMARIE Pierre
M. LEYMAARIE PierreFLEマスター2(INALCO)、DELF-DALF、日仏バイリンガル

Mme MANNECHET Florine
Mme MANNECHET Florine言語文化教育学マスター2、日本語学士(INALCO)、大東文化大学講師、白百合学園小学校講師

Mme NAKAMURA Hiromi
Mme NAKAMURA HiromiDUFLE、絵本作家、翻訳家、獨協大学講師、DELF-DALF、専門:子どものためのクラス

Mme NEMOTO Misako
Mme NEMOTO MisakoバカロレアS取得、パリ第7大学DEA(文学)、東京大学大学院総合文化研究科表象文化論博士課程修了、明治大学教授

M. PASCAL Dominique
M. PASCAL Dominique芸術・文学・言語学マスター1(グルノーブル大学)、外務省講師、翻訳

M. PELISSERO Christian
M. PELISSERO Christian言語学(言語教育と教授法)博士、ナント教育研究センター学術研究員、DELF-DALF +、専門:資格試験

Mme PICHARD Astrid
Mme PICHARD Astridストラスブール大学日本語学科卒、国内旅程管理責任者、全国通訳案内士、専門:観光ガイド

M. PIQUET Benoît
M. PIQUET BenoîtFLEマスター1(パリ第4大学)、記号学マスター1(パリ第5大学)、INALCO卒、外務省講師、獨協大学講師、ジャーナリスト、DELF-DALF、TCF

M. PIRIOU Vincent
M. PIRIOU Vincent言語教育学マスター2(INALCO)、上智大学講師、国際基督教大学講師、DELF-DALF

M. PLAIN Coelien
M. PLAIN CoelienFLEマスター2(グルノーブル大学)、共立女子大学非常勤講師、DELF-DALF、TCF

M. RAMON Antoine
M. RAMON AntoineFLEマスター1(グルノーブル第3大学)、日本語マスター2(リヨン第3大学)、獨協大学講師、白百合女子大学講師、上智大学講師、大東文化大学講師、DELF-DALF、TCF

M. RIVEAU Cédric
M. RIVEAU Cédric教員養成マスター2(パリ第3大学)、DELF-DALF、学習院大学講師、立教大学講師、写真家

M. ROCHET Benjamin
M. ROCHET BenjaminLLCE(海外文明・文学・言語)マスター1(リヨン第3大学)、FLE マスター1(グルノーブル第3大学)

M. ROUSSEL François
M. ROUSSEL François日本研究マスター2、現代フランス史マスター1、地理歴史教員資格、フランス国民教育省認定正教員、大東文化大学准教授、DELF-DALF、フランス語教材執筆

Mme ROUSSEL Hitomi Ryuka
Mme ROUSSEL Hitomi Ryuka草月流師範1級、ATプロフェッショナルコース卒業、いけこみのフラワーワーク経験豊富、フランス、日本において展覧会

M. SHIBATA Kôtaro
M. SHIBATA KôtaroDUFLE(ニース大学)

Mme SUBLIME
Mme SUBLIME歌手、アーティスト、順天堂大学講師、DELF-DALF +、東北地方の被災者向け支援活動でレジオン・ドヌール勲章受賞、専門:発音

Mme TAKASE Tomoko
Mme TAKASE Tomoko舞台芸術マスター1(パリ第3大学)、FLE(パリ第3大学)、文学マスター1(成城大学)、明治大学准教授、DELF-DALF

M. TANAKA Yoshihide
M. TANAKA Yoshihide獨協大学教授、フランス語学博士

Mme TOKIWA Ryoko
Mme TOKIWA Ryoko言語教育学マスター2(フォントネ・サン・クルー高等師範学校)、DELF-DALF、プレミアムパックコーディネーター

M. WIEL Eric
M. WIEL Ericスペイン語マスター1(パリ第10大学)、FLEマスター1(グルノーブル大学)、東京藝術大学助教、DELF-DALF, TCF