「 思春期の何を探してゆく雪野 」
北陸の雪国育ちです。
家族のことも受験のことも全部煮詰まってスランプだった高校後半。
高校から歩ける雪道をザクザク雪を踏みながら歩いた。
迷子になるような山深い場所ではないけど、行ったことのない場所をひたすら歩くというようなことをしていたと思う。
雪の感触を足裏で感じて一歩一歩歩くそのことで生きている実感があったと思う。
頭の中は何が何だか、ぐちゃぐちゃでふらふらしていて生きている実感がない。
でも、体は生きているということを感じたかったのだと思う。
私の友人に、学生時代から今もストレスが溜まると走りに行くという人がいる。
走るとすっきりするという。
今の都会の若者はこんなとき、ゲームをするんだろうか。
体を使った方が、自分の生きてる輪郭が感覚でわかるように思う。
木々にどっさり積もる雪、山雪を見て、揺るがぬ自然の大きさを感じたあのころ。
何でも思うようには行かないこともあるさ、行手を阻むものはあるさ、と教えてくれたような感覚。
そして、なぜか、雪の重みを体で感じて進む中で、何かを探し続ける自分を実感した。
探し続けていけばいいさ、はっきりしたものがなくてもいいさ、そんな時期もあるよ、と雪に言われていたような感覚を思い出す。
学生にとっては何が何だかわからない世の中、ぐちゃぐちゃの頭の中、でも、そのときの私の前には、真っ白で美しい雪の景色だけがあった。
ぐちゃぐちゃの都会の喧騒ではなく、きれいで清潔な白い雪一色だったことも何かを浄化してくれたと思う。
目を閉じた私の心のふるさとには雪景色があたたかくあります。
恵まれたことだと思います。
思春期のきみに、受け止めてくれるものがありますように。
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