navikuma のブログ 陽炎のようにゆらめく景色のなかを走行中です。

ユーラシア大陸の端っこからのたわごとです。

遥かなるバルカンの空の下へ-13

2008年05月31日 | 日記
これから入っていくマケドニアはまだ一度も訪ねたことのないところである。
そしてその先訪問する予定のアルバニア/モンテネグロ/ボスニア・ヘルツゴビナも同様に初めてである。

矛盾する言い方になってしまうがじつはむかしユーゴを訪ねたことがある。
ただし解体する前の旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国で70年代半ばから80年代半ばにかけてのべ3回ほど訪れたのだ。
訪問先はいずれもクロアチアのダルマチア地方である。
順にオパティア,リエカ,デュブロヴニクであった。

むかしからダルマチア地方はユーゴの一角アドリア海に面した風光明媚な沿岸地域でよく知られている。 
当時共産圏の国々へ入国するにはまず例外なく事前に入国ヴィザをとっておく必要があったのだが,その旧ユーゴの場合は不要だった。

詳しい理由は知らなかったがどうやらユーゴの社会主義は他と違うからと年配の知り合いから聞かされていた。
素直にそういうものなのかと思っていた。

当時私がもっていた社会主義うんぬんの知識なんてほとんど無きの如しだった。だからそう説明されてもどこがどう違うのか理解できるはずがなかった。

むずかしいことは抜きにして入国ヴィザをとるということは手間とお金がかかることだったからヴィザなしで入れるというのはとてもありがたかった。

その3回訪問したうち最初2回は初夏の頃に,そしてもう一回は降り立ったサラエボ空港は大雪で予定していた便が大幅に遅れたほど春先とはいえまだ冬の寒さが残っているころだった。

当時のユーゴはすでに西側諸国との経済・文化交流が思っている以上活発に行われていたようだ。
それが街の様子や住んでいる人たちの様子からもすぐに実感できた。

訪問先で出会った旧ユーゴの人たちはみんな好意的で表情もとても明るく当時の西側世界と見くらべても負けないくらい幸せそうに見えた。
なんとなくイタリアの片田舎の小さな町に立ち寄ったような雰囲気があった。

いずれも4~5日間の滞在だったがとてもよい印象が残っている。
すぐに仲のよい友達ができその後しばらく手紙のやり取りを続けたこともあった。
あの人はいまどこでどうしているのだろうか。もう30年も前のことである。

とにかく経済的には当時の西側諸国にはとても及ばないがとてもオープンで平和な雰囲気に満ちていた。

当時他の東欧諸国ではおしなべて明るさはなく重苦しく抑圧された雰囲気が濃厚にただよっていた。
こういうことは無理をして体裁を繕ったり見せたくない所を一生けんめい隠そうとしても外からの来訪者はそういうところを敏感に感じ取ってかえって不自然さがよく見えてしまうものである。

また生活物価がめっぽう安かったので手持ちのわずかなポケットマネーで滞在した街でお土産にワイングラスと手編みのセーターや工芸品などを買って帰った。

短い滞在期間であり限られた滞在先の範囲での個人的体験からのみ判断することになるが,旧ユーゴは好感度が高い人たちが多くそしていたってのどかで落ち着いて平和そのもののように見えた。

あの旧ユーゴ連邦共和国も今は完全に解体分裂しつくしてしまった。

90年代初頭からついこの間までに起きた連邦の解体独立による結果,それぞれの国境線内で少数民族となった人たちの権益を護るためにとしてその過程で避けられなかったのがさきの悲惨な諸ユーゴ紛争だった。

まだなまなましさが漂って残るまだ最近の出来事である。
それに先立つ1989年から90年にかけて鉄のカーテンが隔てる向こう側の世界で共産党一党独裁体制が終焉を迎える東欧革命がおきた。
まるでドミノ倒しでもあったようにまたたく間に旧東欧諸国すべてに波及した。

それまでは私たちが住んでいる世界とはまったく違う思想であり対立する政治体制で統治されその強大な軍事力を背景に支配されている世界であった。

ずっとそのまま続くものと思えた鉄のカーテンの向こう側にあった統治体制がある日を境に突如として崩れ落ちてしまった。
鉄のカーテンそのものさえも消滅してしまった。

まるで現実にはありえない作り物のフィクション映像を見るようだった。

そしてまったく誰もが予想すらできない以上のスピードと意外な展開をもって我々の住む世界に直接つながる新たな世界が目の前に現われてきた。”
そんなようなことが現実に起きた。

それはまるで“革命という高揮発性で強燃性である体制変換の炎が一気に燃えひろがった。”ようだった。

共産主義の社会という世紀の大虚構=大うその化けの皮がはがれた瞬間だった。

一連の出来事の中でもとくに我が目を疑ったのはあの共産主義体制の総本山であった旧ソ連邦までもが崩壊してしまったことである。
そしてあのジェームスボンドとスパイたちが暗躍を繰りひろげた一世界もあの日を境に,信じがたいことであるが,瞬時に立ち消えてしまったのである。

うちの息子が生まれたのは1989年12月で,一連の革命騒動のなかでもっとも激しい内戦であるルーマニアの共産党独裁政権打倒ののろしが揚がったのもちょうどその頃であった。

家の中はオメデタでおおわらわ, 出産した近くの病院とまた別の病院と自宅を行ったり来たりの毎日だった。
そんな忙しい合間に居間のテレビスクリーンに生中継で映し出される内戦の模様とめっぽう速いテンポで推移するその展開劇になんども驚きながら,それまで一度も体験したことのない烈しい戦慄をおぼえた。

他の人と同様におもにテレビ映像や新聞記事からそういう一連の大革命変動を見聞きしていたが,一体全体何がどうなっているのか,次にはどんなことが起きるのか誰もとうてい予測ができない日々であった。

あのときは“人の世の歴史というものはこういうふうにして大きく移り変わっていくのだ。”とその時は妙な感動を覚えた。

そしていまの世界さえもいつ突然その虚構がくずれその大うその化けの皮がはがれるときが来てもおかしくないとも思った。
みんなで見ている夢(=今の世界)が覚めるときが必ず来ると。

昨日から今日走り抜けてきたセルビアの国民一人あたりの所得(=生活費)が14.7ドル/日でこれから18.4ドル/日のマケドニアへ入る。

これは昨年度2006年度のセルビアとマケドニアの国民一人当たりの所得である。
ユーゴスラビア紛争終結直後でとくに疲弊していたであろう5年前はそれぞれ2.5ドル/日と11.1ドル/日であったから急速に経済状態が回復していることがうかがえる。

ちなみに今棲んでいるオランダは84.6ドル/日であるから単に所得額で較べると約1/6から1/5の国に来ている勘定になる。
一昨年訪れたウクライナはさらに低かった。
これらの統計数字は携帯していったANWB(オランダJAFのような公共公益的機関)発行の旅行ガイドに記載されている。

今いるPresevo近郊の国境からコソヴォ地区はわずか20KMたらずほんの目と鼻の先にある。
治安がまだまだ不安定であるので今回の訪問先には入れていない。

まずセルビア側の出国審査は問題なく通過した。
そしてその先のマケドニア側の入国審査ゲートには大きなマケドニアの国旗と歓迎の言葉が描かれた看板が掲げられていた。

“Welcome to the republic of Macedonia” と大きな字で上側にマケドニア語(たぶん)でそして下側に英語で書かれている。
その行間に朱色の地にかがやく黄色の朝日が入ったマケドニアの国旗が表示されている。

どういうわけかマケドニアへの入国審査を待つ車の列がゲートの数より多かったりして待ち時間が長くなっていた。
炎天下で待ち疲れた所為もあるのだろう順番争いで怒鳴り声をはりあげている連中がいた。
スイスとドイツ・ナンバープレートを付けた家族旅行客風の人たちだった。

やがて自分の番が来ていつものようにパスポート類を出して審査を受けたが係官の対応は驚くほど好意的でさっきみた看板に書かれてあった歓迎のフレーズに偽りは無いようであった。

この国境では両替屋をさがしたがそのような施設はどこにも見当たらなかった。

10軒ほどの代書屋が立ち並ぶ界隈をうろうろしていたら白い小さなワンちゃんが床に寝そべって営業している代書屋があった。
そこの大兄い(ワンちゃんのご主人です)に両替屋のことを訪ねると自分が両替してやると言う。
ではと50ユーロ分の両替を依頼した。
するとおもむろに座っていた机の引き出しの鍵を開け,よく露天商が使っているような蓋のないブリキ缶を無造作に取り出して机の上にトンッと置いた。
その中からお札をひとつかみして3000ディナール分を数え分けそしてこちらだ差し出した50ユーロ札と引き換えにポンッと手渡してくれた。

たったそれだけである。
ウッと言葉に詰まった。
なんか簡単すぎるのである。50ユーロ分の両替をするにしては。
もう少しそのなんといおうか,それなりのプロセスがあってもよいように思った。

まったく交換レートが判らないしよく両替をする銀行に掲げてある交換レート表示盤のようなものはその代書屋にはあるわけがないのでさてどうしたものかと一瞬戸惑った。
50ユーロ分として差し出された3000ディナールが妥当かどうか損していないか判断つきかねる状況だったのだ。

それではと昨日セルビアへ入国する時に両替したレシート控えを財布から引っ張り出して“こういうものをくれ。”と頼んだ。
“そんなものはない!”という。まあないだろうな,ここは代書屋であるから。

視線を落とし床に寝そべっているワンちゃんを眺めながらなにかよい方法がないものかと思案してみた。
すぐに名案は浮かばなかった。

しかし....である。そのままそこを立ち去るのは気持ちがゆるさない。
どうしても納得がいかないし踏ん切りが着かないのである。
だまされているのではないかという疑いと心配であった。

でどうしたかというと,結局大兄いに頼んで机の上のあったなんかの通関書類を引きちぎった手のひら大の紙片に手書きで50ユーロ分の両替レシートをかいてもらったのだった。
それで何とか気持ちの整理がつけることができた。

かように両替とはなかなか労力と気力を要する沙汰なのである。
後日その時の交換レートをあらためて調べてみたらほぼ相場どおりであった。
その時になってやっと本当に気持ちが落ち着いたのであった。やれやれである。

今入国したマケドニアはヴァルダルマケドニアとも呼ばれている地域である。
元々歴史的なマケドニア地域はもっと広い地域に及んでいた。
現在のギリシャ側のエーゲマケドニアとそれからブルガリア側のピリンマケドニアを合わせた地域が歴史的なマケドニアであるそうだ。

そこから一路ヴァルダル川両岸に広がる今日の目的地スコピエへ向かった。*(車)**(ダッシュ)*