彼女アイバ・郁子・戸栗は戦後アメリカで国家反逆罪に問われ懲役10年とアメリカ市民権剥奪の判決が下された。
スパイ?いったいどちらのスパイだったのか?
akazukinさんのブログから、
Interviews Of Tokyo Rose, 09-09-1945 (full)
Tokyo Rose
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10623259575.html
本文から:
東京ローズとされた女性。
Iva Ikuko Toguri D'Aquino
アイバ・郁子・戸栗・ダキノ
8月15日のテレビ番組で65周年記念スクープとして、
『消えた東京ローズを追え 戦後65年目の真実』の話題を取り上げていた。
残念ながら、私は直接見たわけではないので、どのような意図で進行でされたのかはしらないが、ここでは、彼女は「冤罪」であると言っている。
今まで、戦争を語る上で欠かせない名前『東京ローズ』を聞くだけで、詳細を知っていた訳ではなかった。
それ以上、興味もわかないまま、情報もないということで、今回突然のこの番組である。
2006年9月26日、90歳でシカゴにて死去された時は、日本でニュースにならなかったと聞いている。
なったとしても、特に注目されたとは思えない。
しかし、米国ではずっと注目の対象だったようだ。
私は、この番組が始まる前、スカルツォさんから『東京ローズ』を知っているか?
ということを聞かれていたので、個人的に調べなければいけないと思っていた。
スカルツォ氏が言うには、彼が最初に聞いた「GAMAN」は、彼女の事を書いた本で知った、ということだった。
どの本だか確かめていない。
スカルツォ氏の住んでいるカルフォルニアは、強制収容所があったことから日系人がより多いところだ。
彼自身、長年、彼らの様子を見ていたし、直接、付き合ってもいた。
問題もよく知っていることだろう。
東京ローズの一般的に流されている情報は、1976年12月末に「東京ローズ」(サイマル出版会)から出版されたドウス昌代著作によるものではないかと推測する。
しかし、これは、以下の大統領特赦書イベントの前までで、その後のことは、1982年11月の文春文庫の「あとがき」で触れている。
当時の大統領フォードが特赦書にサインをしたのは1977年1月18日、フォードとカーターが交替する直前のことで「大統領特赦を与えた」と1月19日に発表した。
アイバは、判決後の28年目にして剥奪されていたアメリカ市民権を取り戻した。
このイベントとたまたま同時進行で取材していたのが「特赦―東京ローズの虚像と実像」上坂冬子著、文芸春秋(1978.6)である。
1976年7月から取材、交流を続けてきた上坂冬子女氏の本のタイトルが「特赦」なのは、丁度このタイミングだったからであろう。
(1995年に中央公論社から文庫本『東京ローズ・戦時謀略放送の花』と改題された)
だから、『東京ローズ』に関する大まかな筋書きはドウス昌子の著作にあるようなことを踏襲したとして、ドウス昌代女史の間違った引用を訂正するくらいであった。
あとは、『東京ローズ』の関係者を上坂女史なりに取材している。
「東京ローズ」ドウス昌代著
1963年に渡米しスタンフォード大学の教授ピーター・ドウス氏と結婚した。始めて書いたこの本で第8回講談社出版文化賞(ノンフェクション部門)を受賞しており、その後、文庫本(1982)、新装本(1990)と出されている。
本書のアメリカでの出版は、JACL(引用者註;日系市民協会)関係者の強い薦めもあり、早くから私の念頭にあった。アメリカ日系人史においてだけでなく、アメリカ市民運動から見ても象徴的な事件と思われるこの裁判に関する書物は、当時全くといっていいほど見当たらなかった。
…中略…
アメリカでノンフェクションを出版する場合、まず考えねばならないのが訴訟問題である。
…中略…
間もなく出版はニューヨークの講談社インターナショナルに決まった。出版及び販売はハーバー&ロウ社では二人の弁護士が目を通して、何の問題もなくOKしたことを付け加えておきたい。
英語での出版は、前述の理由から日本語版より三年も遅れたが、エドウィン・ライシャワー教授の「今日の人種差別及び真の法の在り方をもアメリカ人に強く問うてくる」との序を得て、1979年に出版された。アメリカ公民権連合の創始者ロジャー・ボールドウィン氏も推薦の言葉を寄せてくれた。
幸い反響は良く、全米各地とカナダで書評が続いて出た。中でも印象的だったのは、アイバ・トグリ・ダキノが現在も住む地元シカゴ・トリビューン紙のものだった。その一文は次のように結ばれていた。
「最終的には特赦になったからといって、我が国の歴史におけるこの恥ずべき一章が報いられたということでは決してない」(一九七九・六・三)
(「東京ローズ」新装版、ドウス昌代著、1990、『文庫本のためのあとがき』336~338頁)
なんとも華々しい。
だからといって、特赦(1977年)の後、2006年9月26日の逝去。2010年8月15日のテレビ番組の特集に至るまで、なんにもないといっていいほど静かである。
こっちが気付かないだけなのかもしれないが。
そこでもう一つ、日本で「東京ローズ」というタイトルを冠した三冊の三冊目の本が手に入った。
彼女たちより早く出された「マル秘=東京ローズ残酷物語;ある女スパイと太平洋戦争」五島勉著、ノーベル書房(1969)という本である。
彼女たちより早く出版されているのに、そのどちらも参考図書には入っていない。
読みはじめてすぐ気付くが、その関係者登場人物、内容が全然違う。◆
(つづく)
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/theme3-10026048068.html
本文から:
五島勉はどこでこの情報を手に入れたのか書いていないが、これを書く前に、「日本の貞操」(1953)、「東京租界」(1955)、「アメリカへの離縁状」(1956)等、戦後の日本をルポルタージュした本を書いている。
彼はジャーナリストであった。
「東京ローズ残酷物語」には、ドウス昌代女史のみならず他には書かれていない人物がまず登場する。
筆者がここでふれておきたいのは、もっと別の男のこと―この日マッカーサーにしたがって厚木に降り立った一人の謎めいた人物についてなのだ。
アメリカ人にしては風采のあがらない、四十歳ぐらいの小男。しかも戦塵にまみれた将校や海兵隊員たちのなかで、この男だけが目立たない背広姿。
…中略…
「彼は直接にはGHQ(占領軍総司令部)に属していない。しかし、国務省の特別命令を受けて、われわれの対日政策を側面からヘルプしてくれることになっている。え?彼の所属と名前?ウェル、彼は戦略情報局のW・アンダースン氏だ」
瞬間、声のないざわめきが記者団にひろがったという。戦略情報局(OIS)とは、それまでその存在さえも公式には確認されなかった、大統領―国務省直属の巨大なスパイ組織の名だったから。そして、それはやがて、中央情報局(CIA)という名のもとに、さらに秘密化していくだろう、というもっぱらの噂だったから。
OISの第二次大戦中の活動としては、たとえばヒトラーの愛用していたオーデコロンに特殊なホルモンを混入、彼の体質を女性化することに成功した、とか、インドで手をつなごうとした日本とナチスの情報機関を探知、その全員毒殺した、とかいう、おそるべき陰の功績が伝えられていた。
…中略…
事実、W・アンダースンとOISの日本での初仕事は、まず一輪の美しいバラをさがしあてそれを摘みとることだったらしい。摘まずに放っておくと、その毒のあるするどいとげは、いつ彼らの「地主」を深く傷つけるかもしれなかったから……。
(『東京ローズ残酷物語』、14~17頁)
こうして「バラ摘み作戦」は開始された。
ターゲットは、アイバ・イクコ・トグリ・ダキノただ一人。
(つづく)
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10625099667.html
本文から:
「東京ローズ残酷物語」の著者(五島勉)があとがきで、このようにふれている。
「もっとも、ドキュメントとはいっても、話の性質が当時の複雑な情報戦の核心に直接ふれるものなので、未だに解き明かせない部分が非常に多く、したがって、完全正確な記録とはいいがたい。
筆者はできるだけ丹念に材料を集めたつもりであるが、その空白の部分は推理的におぎなわないわけにはゆかず、一種のセミ・ドキュメンタリーとして読んでいただければ幸いだと思う。
全体に、実在しなかった人物は一人も出していない。しかし、談話を収録したばあいなど、話してもらった人の希望によって仮名・匿名を使ったところもある。また登場人物の行動は多少デフォルメされている。が、すべては実際におこった事件にもとづいていると思っていただいていい。」
(『東京ローズ残酷物語』あとがき、223頁)
2010年の今この本を読んだとしても決して古さを感じない。
現在、起こっている事件と錯覚するくらいである。
OISがトグリ・イクコを探すところは、OISの力を見せつける場面でもある。
二日おいた九月一日の午後、アンダースンは、二十人の部下といっしょに、ホテル・ニューグランドからジープをつらねて東京へむかった。部下の半数は、その日厚木についた私服の情報官と情報将校、半数は護衛のMPである。
同じころ米占領軍の主力は、まだ太平洋上にあった。一部の機械化部隊が、やっと横浜や横須賀に上陸をはじめたころだった。つまり、あまり知られていないことだが、東京占領の一番乗りは戦闘部隊によってではなく、謎のOIS局員とその部下たちによって果されたことになる。(『東京ローズ残酷物語』、18頁)
通説では、1945年8月30日夕刻、すでに米国から来た記者が探し回っていることになっており、公式文書にも二人の記者によってつきとめられたと書かれている。(『東京ローズ』、ドウス昌代著、31頁~参照)
当時の記者はそんな自由があったのだろうか?
「東京ローズ残酷物語」では、そんな記者など登場していない。
「イクコ・トグリ。あなたを待っていた。われわれはOISワシントン本部の者だ。我々はあなたを、裏切りと陰謀の容疑で本国へ連行しなければならない」(69頁)
ポルトガル籍をもつ日系人の男性ダキノ氏と入籍をすませていたとしても、
「あきらめたまえイクコ。軍もMPもできないことも、われわれにはできるのだ。それにきみはポルトガル人ではない。きみはれっきとしたアメリカ国民のはずだ。……」(70頁)
事実をねじ曲げて、権力をふりまわすOISとは何ものだったのか。
どうしてこんな事態になったのかを、この段階で必要な部分だけ、手短かに説明しておかなければなるまい。
最大の原因は、突飛なようだが、トルーマン政権の選挙対策である。そのころトルーマン政権はソ連の原爆開発によって、長いあいだの核独占を突きくずされ、人気が下り坂になっていた。一九四七年(昭和二十二年)の中間選挙をひかえて何とか人気を挽回する必要があった。それをトルーマン政権は、旧敗戦国に対して強硬方針をとる、という安あがりの手段で果そうとしたのである。
といっても、ナチス・ドイツについては、すでにニュルンベルクの戦犯裁判が完了している。日本についても、東京裁判の目鼻があらかたついて、皇室に対しては責任追及の手がのびないことが明らかになっていた。これは一部の米国人―とくに太平洋戦争で息子を失った母親たちの不満を買い、「天皇をほっておくのか」という投書が新聞などにひんぴんと載った。
トルーマン政権もマッカーサー司令部も、皇室に手をふれる気はない。だからそれ以外の方法で母親たちをなだめ、人気をとりもどさなければならない。ホワイトハウスはOISにその方法のリサーチを命じた。
OISの答えは、「トーキョー・ローズを裁判にかけよ。処刑せよ。そうすれば国民感情を満足させられる」だった。それほどにも米国人にとって、“トーキョー・ローズ”の名は太平洋戦争の記憶と結びついていたといえる。彼女の放送が前線の将兵に人気を集めた分だけ、米本土の母親や娘たちはそれを憎んでいたといえるかもしれない。
…中略…
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10625126302.html
本文から:
トグリ・イクコがこの時期に日本へ渡ったのはどうしてだろう。
一九三九年九月に勃発した第二次世界大戦は全ヨーロッパを戦火に包みこんでいた。アジアでは大東亜共栄圏の旗印のもとに日本の侵略が相ついでいた。すでに雲行きがおかしかった日米関係は、前年(一九四〇)一月の日米通商条約廃棄により悪化し、一部の両政府関係者は、すでに、日米開戦は時間の問題であるとさえみていた。
(『東京ローズ』、ドウス昌代著、72頁)
そんな状況で、日本に行くだろうか、日本に行ったことが無いものが行きたがるだろうか?
ドウス昌代著の本には、「叔母の見舞いで両親の替わりに日本へ行く」いきさつが大変詳細に書かれている。(同書、71頁~)
「東京ローズ残酷物語」ではこうだ。
五島勉のあとがきの弁を念頭に起き、記述どうりに引用する。
彼女の幼いころ(一九一〇~二〇年代)、米国には黄色人種、とくに日本人排斥のあらしがふき荒れていた。日本からの大量移民、日本の軍国主義の急激な伸びなどが、それでなくても差別好きなヤンキー気質と正面からぶつかっていたのだ。(同書、86頁)
……ショックを受けた日系人の子は、ひどく卑屈になるか、それとも反発して米人を見かえそうとするか、どっちかである。……勝ち気な郁子が撰んだ道はもちろん後者に決まっている。(同書、87頁)
ロスの私立中学を首席で卒業したほど優秀だった。しかし、卒業式の女子代表スピーチは、次点の白人の女の子に変えられてしまった。これが起点となりまだ十六歳の郁子は世の中がおもしろくなくなりやけをおこした。
その時知り合った、白人の中年男性にはじめてやさしくして接してくれたことに真実のアメリカ人の姿と勘違いするのだが。
この紳士はマードック氏という。
マードック氏を通して知り合った米国人も彼女に親切だった。
後のボーイフレンドになるケーンと知り合ったのもこのころでマードック氏の手引きだった。
彼らのおかげで、「同国人としての親しみを覚え……白人と対等につきあえるようになったこと、米国社会にすんなり受け入れられたこと、それがいつのまにか、郁子の反逆精神やコンプレックスをきれいに解消する役割を果たしていたのかもしれない。」(同書、91頁)
ハイスクールを上位の成績で卒業し、カルフォルニア大学理科の入学試験を受ける。
「カルフォルニア大学は太平洋岸きっての名門校である。しかも、いっそう高まってきた排日ムードを考慮してか、日系の入学者をとったためしがない。だから落第は覚悟のうえだった。が、受けてみたら奇蹟的にパスした。
中略……なぜ通ったのか、郁子にも少しふしぎに思われた。たった一人だけ日系学生をとった理由もややわかりかけた。わかったのは、これでまたひとつ、あたしは米国社会から恩恵を受けたんだわ、あたしはもう本当にアメリカ女性になれたんだわ、という誇り、満足感だけである。」(同書、92頁)
そのころ「極東では、日本軍が中国北部を制圧し、アジアでの権益を守ろうとする米国とのあいだに日米交渉がひらかれて、米国内の日系人への感情は最悪の状態になった。(同書、93頁)
「ニッポン行き」を持ちかけたのは、ケーンの方で、郁子とは親密な仲になっていた。
第一、「いったん日本へリターンしたほうが」などといわれるおぼえはない。彼女はアメリカで生れてアメリカで育った米国女性で、ロス以外の所へ出たことなどいちどもないのだ。(同書、96頁)
郁子はアメリカ・レディーになるため努力していた。
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10627934200.html
本文から:
結婚前提をにおわせた、ケーンの郁子への「日本行き」であった。
しかし、到着してみると、実際、アメリカ人になりたいと思っていた郁子の目の前にはみすぼらしい日本の姿しか見えなかったようだ。
叔父の家に身をよせた二日後には、帰国のためのパスポートをもらいに行った。
一日も早く米国に帰りたいという郁子の気持は、この観察でいっそう強まった。大使館別館についてみると、同じ思いらしい在日米人たちが、帰国申請の窓口にひしめきあっていた。
だが、ここで予期しなかった事態がおこる。ろくに理由を調べもせず、つぎつぎにパスポートを濫発していた大使館の係官は、郁子の番がくると突然慎重な態度をみせ、どうしても申請を受けつけてくれなかったのである。
「ミス・トグリですね。あなたについてはロスから特別に指令がきています」若い大使館員は首をふっていた。
…中略…ロスからの特別司令とは、「ミス・トグリは非常に強く訪日を望んでいたので、やむなく国籍証明だけで行かせた。彼女の意志を尊重して、まちがっても強制送還などしないように」という、「米国としては最大限に好意的な意向」のものだったということも聞かされた。(『東京ローズ残酷物語』、105~106頁)
パスポートが手に入らない。
帰国ができないと知るや、ケーンのことばを思い出した。
友人シュミット氏を探そうと決めたら、あんがいすぐに見つかった。
米国籍の郁子が叔父の家にやっかいになって困惑されているのを聞いたシュミット氏は勤め口を探す約束をしてくれた。
シュミットが彼女を連れていったのは、そのビルの大半を占めていた「同盟通信」の調査部である。「同盟通信」は当時の日本のただ一つの外電通信社(官営)で、いっさいの海外ニュースがここを通じて各新聞、放送局に供給されていた。
……軍国日本の海外情報は、ほとんど在外公館の武官、情報官を中心に集められていて、通信社のジャーナリズムはあくまでも二次的なものだった。したがって、「同盟通信」は、もっぱらオールウェーブのラジオをたよりに、ニュースの不足な部分をおぎなうほかはなかった。
そのオールウェーブのラジオを丹念に聞いて、内容を記録する人間がたりない。いや、外国語学校出身者たちで人数はそろえたのだが、完全にあちらの放送を聞きとれる者が少ない。どうしても、海外で育ったヒヤリングの達者な専従者が必要だ―と、幹部はあちこちさがしまわっていた。だからそれを聞きこんだのか知らないが、シュミットはそこに目をつけたらしい。
……
それに、なんといっても政府直属というところが強い。仕事の性質上、憲兵も警察もめったに手が出せない。軍部の奴隷みたいなほかの日本人とちがって、ここの連中は一種の治外法権のなかでのびのびやっているようだ、とシュミットは付け加えた。(同上、113~114頁)
…中略…
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10628902591.html
本文から:
同盟通信社で順調に働いていたある日のこと。
米軍の―あるいは米国の情報機関の組織のなかに、あたしはいつのまにか組みこまれていたのかもしれない。そう郁子が感じたのは、日本軍の真珠湾奇襲から半年ほどたったころである。
彼女は相変わらず同盟通信のラジオ係として、受信に追いまくられていた。戦火は狂ったようにひろがり、それにつれて受信量もふえて、ほとんどのものを考えるひまはなかった。彼女はただ機械的に米国放送を聞き、機械的にメモした。
…中略…
ところが、ある日、そうした戦争ニュースのあいまに、おそらく前線むけの慰問番組であろう、ごく短いカールトン・ショートがながされたのを郁子は聞きつけたのだ。
…中略…
郁子がどきりとしたのは、その小話やギャク自体ではなく、そのところどころに出演者がおりこんだ、およそナンセンスな言葉あそびだった。
…中略…
それは―疑いもなく、恋人のケーンが彼女に教えてくれた、古代マヤの呪文にそっくりだったからである。
…中略…
郁子は、これは同じ放送が、米軍か情報機関の手で、ドイツや日本にむけて流されているのだと思った。……みんな古代マヤ語の“教育”を受けた女スパイたちで、自分もその仲間の一人として日本へ送りこまれたにちがいない、とかたく信じるようになった。
(『東京ローズ残酷物語』、125~127頁)
一九四二年、同盟通信社へ入社して七カ月たったころ、シュミット氏の夫人ヒルデがたずねてきた。
NHKの国際部に入らないかという誘いであった。
「当分はタイプや翻訳なんかだと思うわ。でもそのうち、アナウンサーをやらせてくれるかもしれないわ。……入局のてつづきのほうは、シュミットがうまくやるでしょうから大丈夫よ」(同上、129頁)
手はずは、今回もシュミット夫妻だった。
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10631658319.html
本文から:
日本の敵対放送の主力要員は誰か。
五島勉の本によれば、すでに潜り込んで日本側の信頼を受けていた、同盟国のドイツ人、シュミット夫妻。
それに、捕虜になった将校たちと、ヒルデによって集められた混血や日系人たちである。
準備が整ったのは、年明けて1943年はじめ。
それから日本放送協会の対連合国向けプロパガンダ放送番組「ゼロ・アワー」がはじまった。
「東京ローズ」を名のりはじめたのは11月頃といわれている。
ドイツ軍歌の一つだった「リリー・マルレーン」は、電波に乗ったらたちまち人気が出て、各国語に翻訳され聞かれた。
音楽という特性から敵軍にも同様、味方の兵士にも良くも悪くも作用する。
同じような言語圏ならなおさらだ。
しかし、「ゼロ・アワー」は、対象となる相手が米国と決まっている。
しかも英語である。
一般日本人が聴いたってわかるはずがない。
だから郁子は、ヒルデ・シュミットや捕虜将校たちと協力して、ひそかに日本内部の秘密情報を暗号で米軍に知らせていたと、少なくとも郁子はそう思っていたようだ。
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10631725199.html
本文から:
そして番組が開始されると、われわれはまずひそかに暗号文をつくり、規定の方式通りにそれを放送文に組みいれ、さきに述べた日系女性たちに交替で放送させた。アイーヴァ・トグリはその一人だったにすぎない。つまり、“トーキョー・ローズ”は彼女だけではなかった。しかも彼女たちは、日本軍の宣伝に協力したどころか、実際には危険を冒して連合軍の暗号情報を放送していたわけだ。もっとも日本軍内部の情報は、われわれには容易に集められない。しかし幸いなことに、彼女たちの仲間にはシュミット……たしかヒルデ・シュミットというドイツ国籍の女性がまじっていて……」
少佐がここまでしゃべったとき、ふいにトーマス主任検事が、「異議!」と絶叫した。
。。。。。
要するに、アメリカ政府が音頭を取った東京ローズという名の魔女狩りであった。
(『東京ローズ』ドウス昌代著、320頁)
しかし、この種の本が帰着するよくありがちな、「戦争時の復讐」、「ヒステリックな国民感情」、「スケープゴート」、「人種差別」、最近のはやりでは「人権」等々ならば、問題の解決にはならない。
それらはすべて、必ずといってよいほど「ナチのユダヤ虐殺」を引き合いに出すからだ。
事件の真の目的を見ずにあまたある結果の一部分とりだしても民族感情を逆なでするだけである。
終らない憎しみ、怨念の連鎖、常にそれをあおっている。
では、消えた証人は何をしでかしたのか。
裁判の後、アイバの特赦願いの時には協力すると約束したデウォルフ(検察側ベテラン弁護士)は、一九五九年、シアトルのホテルで拳銃自殺を遂げたという。
…中略…
また、アイバを東京ローズとして発見したはずのブランディッジ(記者)も、一九六一年に老人ホームで死亡している。
リー(記者)はそれよりずっと早く、四十六歳で亡くなっていた。
(『東京ローズ』、ドウス昌代著、331頁)
「東京ローズ」事件が終わってない証拠に、裁判に立ち会った弁護士、嘘の証言をした証人もまた、早くに死んでいった。
(つづく)
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10631740473.html
本文から:
つまり、“ローズ”はここで米軍をまんまとだました。重要な機密情報源の一つとして信頼されていたのに、彼女はそれを裏切って、わざと米軍の損害が多くなるような情報を送ってきたのだ……。
田中弁護士は、こうした関係者の打ちあけ話を聞きながら、愕然としてチャールズ(カズンズ)少佐の言葉を思いだす。あのレコード(引用者注;壊された“トーキョー・ローズ”の一九四三年タワラ上陸直前放送録音レコード)をかけたとき、少佐はいった。「わたしとテッド中尉が、放送原稿を書いて、“上陸は危険“という暗号を組みこんだ。それをヒルデ・シュミットに渡し、彼女とアイーヴァが放送した。ヒルデは米軍のCCL(後方スパイ)だったらしい」と。
いかえれば、米軍の損害をできるだけ少なくしようという意図で書かれた暗号が、ヒルデの手に渡ったあと、全く反対の内容のものにすりかえられたことになる。もしくは、反対の内容の暗号をヒルデが新しく付け加えたことになる。米英軍共通の暗号と米軍情報部専用の暗号とはちがい、少佐はその前者しか知らなかったから、おそらく、後者を使って書き加えられたヒルデの暗号には気付かなかったのだろう。
……
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10635388945.html
本文から:
ヒルデという女がいたと仮定して、
この女が米国とドイツの二重スパイだったのか。
もしくは、米国とドイツとソ連の三重スパイだったのか。
その真相はわかっていないが、いずれにしろ米国政府は最初からトグリ・イクコ以外、捜査する気もなく連行する気も全くなかった。
米国政府を裏切ったスパイを逮捕しないのはおかしなことだ。
それゆえに、ヒルデが本当に存在したのかしないのか分からないというかもしれない。
それだったら、何故トグリ・イクコのみが連行されたのか。
その説明が成り立たない。
五島勉の「東京ローズ残酷物語」も終盤を迎える。
1949年のトーキョー・ローズ裁判では、懲役十年が言い渡された。
実際それは服役中七年に短縮され、シカゴで三年の保護観察期間を条件に釈放された。
戦争末期のトーキョー・ローズの声は……深い悲しみと絶望にいろどられ、きびしい非難の口調をふくんでいた。とくに最後の―日本敗戦の年の八月十四日放送がそうだった。
「米国のみなさん、あんな残虐な爆弾をおとすなんて!あたくしはあなた方を敵ではあっても紳士だとしんじていましたのに、その気持ちが完全に裏切られてしまいました。
日本はこれで敗れるでしょう。でもあなた方アメリカ人に対して、何十年か何世紀かののち、歴史が正しい裁きをくだすことでしょう。それを信じつつ、東京からの最後の放送を終わります。こちらはトーキョー・ローズ……こちらはトーキョー・ローズ……」
.....
審判官はふしぎそうに、「検事はなぜこれを法廷に出さなかったのだろう!反逆の何よりの証拠になったのに……」とつぶやいた。郁子は何か言いたそうに口をひらいたが、すぐ黙った。かわって、答えるともなく、感情をおさえて話しだしたのは田中弁護士だった。
「わたしには検察側の気持ちが、いまではよくわかるような気がする。彼らがそのレコードを証拠に出さなかったのは、それがあまりにも真実だからだ。彼らは真実があきらかになることを恐れていたのだ。
もういちどききたまえ。その放送はけっしてアメリカへの反逆ではない。人類の一人としてのギリギリのさけびだった。ミセス・トグリの真実の声だった。トーキョー・ローズのささやきには、ウソやデタラメもまじっていたかもしれないが、少なくともこの最後の放送だけは―これは全アメリカ人がきかねばならぬほんとうの訴えだったのだ……」
.....
何人かの“ローズたち”のなかで彼女一人が裁かれたナゾもようやくとけた。それは巧妙なヒルデの・シュミットの身代わりとしてだったのかもしれない。“ローズたち“全員の代表としてだったかもしれない。しかしもっと重要な、かくされた理由は、米軍に協力すべき郁子が、米軍の原爆攻撃を非難したからだ。戦略の人形であるべきスパイ・アナウンサーが人間としての感情にめざめてしまったからだったのだ!
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/theme2-10026048068.html
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/theme-10026048068.html