猫面冠者Ⅱ

主に東洋大学を中心に野球・駅伝などの記録・歴史・エピソードなどなど…。

安田講堂を“建てさせた”人=村上専精

2009-03-30 23:22:00 | インポート
昨日(3月29日)は東洋大川越グラウンドの改修工事こけら落とし、東大とのオープン戦が行われた。生憎所要があって観戦は出来なかったが試合の結果は次の通り。

対東京大学・川越キャンパス球場

東京大学000 000 000  0
東洋大学000 040 23×  9

(洋)鹿沼・佐藤翔・根本ー佐藤・岡
東洋大学野球部応援ホ-ムページ掲示板のハンドルネーム“神宮の雀さん”の書き込みを転載させて頂きました。)

東大とのオープン戦はあまり組まれたことがないようだが(東大に女性の投手が在籍していた時に対戦し、スポーツ紙でも取り上げられていた記憶がある)、同じ文京区内にキャンパスを持ち、野球でも歴史のある東大との対戦は新グラウンドのこけら落としにふさわしい相手と言えようか。

浅学非才の筆者は東大と聞いても三四郎池と安田講堂くらいしか思いつかない。安田講堂の名前は資金を提供した安田善次郎に由来しているが、その安田に資金を出させたのは村上専精(せんしょう)と云う人である。
明治二十三年に東大の講師となった村上は、大正六年勅命によって東大に印度哲学の講座が開設され、初代の教授に任ぜられた。それまでの間は単なる講師の講義だったのである。
この講座を開設する為に村上専精は安田財閥の安田善次郎を説いて五万円を寄付させた。その後も講座の充実に尽力し、やがては他の官立大学でも講座が開設されるようになる。
官立大学における仏教研究の基盤は、実に村上によって築かれたといってもよい。
(『明治の仏教者』常光光然)

この時の安田善次郎との縁がきっかけで、安田講堂も建てられることになる。
村上は東京帝国大学に大講堂のないことをいつも残念に思っていた。正門を入ると銀杏の並木があって、それをまっすぐに突き当たると、そこは講堂予定地で原っぱになっていた。浜尾大学総長時代から、毎年政府に交渉しても、予算の関係でやってくれない。外国からお客さんが来ても、最高学府に講堂がないとあっては、恥ずかしくてたまらない。それに学生を一か所に集める場所がない。卒業式は食堂でするという有様であった。そこで村上は誰かに一人で寄付してもらいたいと考え、ついに思いついたのが、安田善次郎であった。この人は三井・岩崎に次ぐわが国の財閥であったが、ただ違うところは、三井や岩崎と異なって、自分一代であれだけの富を作った人であるから、金銭にかけてはなかなかやかましい人であった。しかし彼は仏教の教えのうえから熱心に説いて、ついにこれを寄進せしめることに成功した。実に村上の偉大な功績といわねばならぬ。(同じく『明治の仏教者』より)

村上専精は嘉永四年、丹波国氷上郡の真宗大谷派の寺の六人兄弟の長男として生まれたが、裕福では無い小寺であったため七歳の時から他寺に預けられ、日中は野良仕事をしながら勉学に励み、さらに師を求めて姫路・越後・三河などの寺に出向き勉学に励んだ。姫路の寺では朝托鉢をして糊口をしのぐ乞食同然の生活であったという。
明治七年三河の入覚寺で住職・村上界雄の養子に迎えられ村上姓となり、翌年には住職を継いだのだが引き続き勉強に没頭し寺のことは二の次にしていたため檀家からの苦情が相次ぎ、遂に養父と檀家総代から離縁の申し渡しを受けてしまう。ところが村上はこれぞ好機到来とばかりに逆に三年間の遊学とその間の資金二十円の提供を認めさせてしまい、京都にある東本願寺の教師教校へ入学を果たす。
教師教校では三年間の修学年限のところを二年で卒業を認められ、受講者の希望で高倉学寮と云うところで一年間講義をし、更に高岡の越中教校の校長に任ぜられるが、程なく豊川稲荷で知られる曹洞宗の妙厳寺から招かれそこで二年間講義を行った。それが契機となって明治二十年一月に東京の曹洞宗大学林(現駒沢大学)に講師として呼ばれ上京を果たすことになった。
国を出る時に、東京に行けば、先ず井上円了君を尋ねよう、島地黙雷君を訪はう、北畠道龍君を吉谷覚壽君を、大内青巒君を今一人寺田福壽君を、先ずこれらの人を訪問し、その意見を叩き、而して自分の考へもきめねばならぬと思った。・・・中略・・・そこで東京に来るなり、まづ井上円了君を本郷弓町の私宅に尋ねた。尤も国を出づる時、雲英晃耀師の紹介状を貰って来たのだ。処が円了君は其の当時本郷弓町に、小さい借家住まいをして居られたのである。往って見れば、戸口に当時仏教活論編纂中であるから、普通の面会は断る。仮令用事のある人と雖も長談は断り度といふ意味を書いた掲示のあるのを見て、当時田舎ものの吾輩は驚かざるを得ぬのだ。唯驚くといふよりは、恐縮してしまったといふのが本当である。(『近代の仏教思想』芹川博通の村上専精自伝『六十一年』からの引用箇所より孫引き)

初回の円了との面談では恐縮してしまったが、それでも同年九月の哲学館開校に際して井上円了に請われて哲学館で週二回仏教学の講義を行うことになった。ところがこの村上専精と云う人は哲学館に「哲学」「倫理学」「論理学」あるいは「心理学」といった今まで耳にしたことの無い授業があるのを知り、講師でありながらそれらの授業に出席するようにもなる。

安田善次郎を口説き落として講堂を建てさせた東京帝国大學初代印度哲学教授は、開設時の哲学館の先生であり生徒でもあったという誠に以て稀有な経歴の持ち主だったのである。特に清沢満之(当時は徳永姓)のカントの哲学の授業では仲間を募って謝礼を出し合い、今で云う課外授業まで受けたそうだ。

そして、三年後には先に記したように東大の講師も引き受けるようになるのだが、その傍ら神田に仏教講話所を設けたり『仏教史林』という雑誌の刊行、あるいは女子教育の必要性を痛感して東洋高等女学校(現在文京区千石にある東洋女子高校の前身)を設立するなどの功績をあげた。
大正十二年に東大を退官した後も京都・大谷大学の学長をなどを歴任し、晩年に至ってもなお夜遅くまで机に向い続けたそうだ。
昭和四年に七十九歳でその生涯を終え、現在は東京・雑司ヶ谷霊園の一隅に眠っている。

画像

















画像

















参考にした書籍
『明治の仏教者』常光光然
『近代化の仏教思想』芹川博通
『近代日本の仏教者』田村晃祐
『伝円了』平野威馬雄




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番外編:東都大学出身校別プロ野球選手年俸一覧(平成二十一年版)

2009-03-24 23:40:00 | インポート
昨年に引き続き、東都大学出身プロ野球選手の出身校別年俸一覧を作成してみた。
平成二十一年プロ野球
 東都大学出身選手
~年俸一覧~

(単位:万円)
名前にマーカーは一億円プレイヤー。
名前太字は各校最高年俸者
球団名後の(育)は育成選手
○は新人選手


一部リーグ(平成二十一年春季)

東洋大 亜細亜大 中央大
清水崇行 西武 5000 木佐貫洋 巨人 4600 阿部新之助 巨人 27000
上野貴久 巨人 900 久本祐一 中日 2000 会田有志 巨人 1500
岩舘学 巨人 1000 井端弘和 中日 25000 亀井義行 巨人 3000
田中大輔 中日 1200 藤本敦士 阪神 3600 ○福元淳史 巨人(育) 240
小川将俊 中日 950 赤星憲広 阪神 25000 花田真人 ヤクルト 2600
今岡誠 阪神 16000 ○小杉陽太 横浜 1000 橋本義隆 ヤクルト 1300
福原忍 阪神 7200 ○岩本貴裕 広島 1500 ○新田玄気 ヤクルト 1000
桧山進次郎 阪神 6000 永川勝浩 広島 8000 村田和哉 日ハム 930
前田忠節 阪神 1300 川本良平 ヤクルト 2000 ○井坂亮平 楽天 1200
大場翔太 福岡 1500 松井光介 ヤクルト 2150
永井怜 楽天 2900 吉川昌宏 ヤクルト 2250
大広翔治 楽天 780 糸数敬作 日ハム 900
三浦貴 西武 700 松田宣浩 福岡 4500
塩崎真 オリ 4900
○大野奨太 日ハム 1300
○上野大樹 ロッテ 1200

人数 16人 人数 13人 人数 9人
総年俸額 52830 総年俸額 82500 総年俸額 38770
一人平均 3302 一人平均 6346 一人平均 4308


立正大 青学大 國學院
金剛弘樹 中日 950 円谷英俊 巨人 870 矢野謙次 巨人 3500
田中慎太郎 阪神(育) 300 清水将海 中日 2000 佐藤亮太 中日 780
武田勝 日ハム 7600 小窪哲也 広島 1700 梅津智弘 広島 3800
西口文也 西武 20000 石川雅規 ヤクルト 15500 渡辺俊介 ロッテ 17000
城石憲之 ヤクルト 2900 伊藤義弘 ロッテ 2100
志田宗大 ヤクルト 2000 聖澤諒 楽天 1000
高市俊 ヤクルト 1200 嶋基宏 楽天 2300
中尾敏浩 ヤクルト 900
坪井智哉 日ハム 2800
金子洋平 日ハム 880
小久保裕紀 福岡 30000
荒金久雄 福岡 2200
○井上雄介 楽天 1000
高須洋介 楽天 7500
横川史学 楽天 1500
○楠城祐介 楽天 1200
山岸穣 西武 1600
大崎雄太郎 西武 1200
川越英隆 オリ 6600
小林賢司 オリ 1100
○高嶋毅 オリ 1000
井口資仁 ロッテ 18000

人数 4人 人数 22人 人数 7人
総年俸額 28850 総年俸額 103650 総年俸額 30480
一人平均 7213 一人平均 4711 一人平均 4354



二部リーグ

日本大 駒澤大 国士舘大
村田修一 横浜 26000 高橋尚成 巨人 13500 古城茂幸 巨人 2600
那須野巧 横浜 2300 新井良太 中日 1200 ○野原祐也 阪神(育) 300
下窪陽介 横浜 1300 ○野本圭 中日 3100 小島心二郎 広島 600
桑原義行 横浜 700 新井貴浩 阪神 20000 紺田敏正 日ハム 2100
吉原道臣 横浜 1000 黒田祐輔 阪神 600 岩崎哲也 西武 2200
加藤康介 横浜 960 梵英心 広島 3500 小松聖 オリ 5700
篠田純平 広島 1600 武田久 日ハム 11500 辻俊哉 オリ 1500
尾形佳紀 広島 850 稲田直人 日ハム 2100
館山昌平 ヤクルト 10000 服部泰卓 ロッテ 1200
清水直行 ロッテ 24000 古谷拓哉 ロッテ 810
北川博敏 オリ 7700 本間満 福岡 2500
吉野誠 オリ 2900 川岸強 楽天 2900
○岡田幸文 ロッテ(育) 240 前田大輔 オリ 1750


人数 13人 人数 13人 人数 7人
総年俸額 79550 総年俸額 64660 総年俸額 15000
一人平均 6119 一人平均 4974 一人平均 2143


専修大 東京農大 拓殖大
松本哲也 巨人 600 渡辺恒樹 楽天 1800
江草仁貴 阪神 4250 ○鈴江彬 ロッテ(育) 240
長谷川優也 福岡 1850

人数 3人 人数 2人 人数 0人
総年俸額 6700 総年俸額 2040 総年俸額 0
一人平均 2233 一人平均 1020 一人平均 0


引退者
亜細亜大入来祐作・小山良男・佐藤宏志・沖原佳典
青学大加藤領健
日本大真中満・戸部浩
駒沢大高木浩之
拓殖大高橋健(FAで米球界行き)

(年俸額などは週刊ベースボール2・21号2009年プロ野球全選手写真名鑑を基にしました。各校とも中退者も含みます。)



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昨年(平成二十年)のデータは下記のページへ。
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番外編:東都大学出身校別プロ野球選手年俸一覧


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番外編:桜 ~開花間近~

2009-03-21 13:14:00 | インポート
昼のニュースでは靖国神社の桜が開き、今日三月二十一日開花宣言が出された東京の桜ですが、我が家(団地ですが)の道路脇の桜並木はもう間もなく、と云ったところ。

3月21日 午前11時頃。
画像

















画像
















蕾は膨らんできてはいるものの、開花間近と思われるのは未だこの一本だけでした。


ラストゲームでフル出場・初安打&初優勝:下川洋一選手=東洋大野球部の歴史ー人物編⑪

2009-03-13 14:51:00 | インポート
先日、たまたま某“新古書チェーン”の棚で『鹿実野球と久保克之』と云う本を見つけ購入した。南方新社と云う聞きなれない出版社名だったこともあって、何げなく手に取ってみたのだが、目次の中に“下川洋一”選手の名が有ったためである。

第1部 鹿実野球部と人間・久保克之を語る
第1章 近くて遠い人――妻・久保妙子
第2章 「久保野球」の基礎――下川洋一
第3章 ターニングポイント――定岡正二・松元昭義
第4章 「二代目」の生き様――竹之内和志
第5章 二人の「親父」――川島英和
第6章 「どん底」から「最強」へ――宮下正一
第7章 「かごしまの母」――池本弘乃
第8章 子供たちのための野球を――吉留勝己
第9章 「三つ巴」がもたらしたもの――小鷹英雄
第10章 「全国制覇」を託された男――枦山智博
第2部 久保克之自伝
第1章 私の野球歴
第2章 「遠き甲子園」を求めて
第3章 私の指導理念

第二章で取り上げられている“下川洋一”選手は、鹿実卒業後東洋大に進んだ人。初優勝を決めた昭和51年秋の対専大戦では二番セカンドでスタメン出場していた選手である。
鹿児島実業で昭和42年から35年間監督を務めた久保克之氏が初めて甲子園出場を果たしたのは昭和47年春の選抜大会なのだが、この時主将としてチームを引っ張ったのが下川選手だった。

同書によれば下川選手は中学時代、168㎝と小柄ながらエースで四番、足も速く市内の陸上競技会では陸上部の選手を抑えて優勝したこともあったそうだ。
鹿実では一年の時からベンチ入りを果たし、二年秋の新チーム結成で主将となった。秋の県大会では準決勝で敗れ、通常なら選抜の夢は消えてしまうのだが、この年は九州大会が地元での開催だったため鹿児島からは三校の出場枠があり、三位決定戦を勝ち抜いて九州大会に進出することができた。
そして、九州大会では優勝し甲子園出場の夢を叶えたのである。

選抜時のチーム紹介記事には次のように書かれている。
守りはよく訓練されている。なかでも主将の遊撃手下川と三塁手手島、二塁手奥平が見せる内野コンビのイキのあったプレーはあざやかだ。問題は攻撃力だ。3割打者は三番の下川一人でチーム打率も2割4部7厘と低い。過去6敗のうち1点差で負けた試合が4試合ある。・・・
(『毎日新聞』昭和四十七年三月七日付朝刊)

選抜では一回戦で取手一高に3-0で勝ったが、二回戦では銚子商に2-3の一点差で敗れた。
下川選手は二試合とも一番ショートで出場し、銚子商戦で一安打を放っている。

最後の夏は県大会準決勝で鹿児島商に敗れ、再び甲子園の土を踏むことは出来なかった下川選手は、東洋大へ進学したのだが、あまり出場機会には恵まれなかったようだ。
筆者が当時の新聞記事を基に集計してみた大学四年間の通算成績は以下のとおりである。


打数 安打 打点
昭和48年(一年)
出場なし
出場なし
昭和49年(二年)
5月16日 中大 二回戦 代走
5月17日 中大 三回戦 八番 代打 0 0 0
5月28日 駒大 一回戦 代走
5月29日 駒大 二回戦 代走


9月12日 亜大 二回戦 代走
9月19日 中大 一回戦 代走
10月5日 専大 三回戦 代走
10月9日 日大 二回戦 代走
10月10日 日大 三回戦 代走
昭和50年(三年)
出場なし
出場なし
昭和51年(四年)
出場なし

9月7日 日大 一回戦 九番 二塁(途中出場) 0 0 0
9月30日 亜大 二回戦 代走
10月13日 駒大 二回戦 二番 二塁(途中出場) 0 0 0
10月15日 駒大 三回戦 二番 二塁(途中出場) 1 0 0
10月21日 専大 一回戦 二番 二塁(途中交代) 2 0 0
10月22日 専大 二回戦 二番 二塁 4 1 0



四年の最後の試合、昭和51年10月22日の対専大二回戦で初めてヒットを放ちフル出場を果たしたが、この試合こそ東洋大が東都大学野球で初めての優勝を決めた試合だった。
試合の模様はテレビでも生中継されたが、放送の中では担当アナと解説の中大・宮井監督の間で次のようなやり取りもあった。

アナ:この下川は鹿児島実業出身の四年生ですが、いつもは新人監督やコーチ役が主らしいですが、
大事な一戦と云う事で四年生を使っております佐藤監督・・・・あまり出てないでしょ?。
宮井:出てませんねぇ・・・・・。渡辺君て云うのが出てるんですけどね。
アナ:その渡辺君は真面目でいい男なんだけど、どうも堅くなるといけないんで、今日は四年生で行くと話していた
佐藤監督であります・・・。

大事な一戦で抜擢された下川選手は自身にとっても初安打となるこの試合のチーム初安打を放ち、大学最後の試合でフル出場、東洋大の初優勝をセカンドの守備位置で迎えたのである。



対専大戦で初安打を放った下川選手-YouTube動画より
</object>
http://www.youtube.com/watch?v=ZcadEUWGFRc&feature=channel_page
*打球をはじいた専大のショート・八角選手は選抜で敗れた銚子商出身。三番ショートで対鹿実戦に出場していた。




『鹿実野球と久保克之』によれば、2005年に行われたマスターズ甲子園に鹿実OBチームが予選を勝ち抜いて甲子園に出場、下川選手はOBチームの監督として再び甲子園の土を踏んだとのことである。


関連記事:生中継された初優勝=東洋大野球部の歴史-エピソード⑥



<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=kanyaazuki-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4861241049&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>



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番外編:”叫び!”

2009-03-08 11:19:00 | インポート
ジョッキの“叫び!”
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なんだか嫌な世の中になりましたねぇ・・・・。
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