昨日(3月29日)は東洋大川越グラウンドの改修工事こけら落とし、東大とのオープン戦が行われた。生憎所要があって観戦は出来なかったが試合の結果は次の通り。
対東京大学・川越キャンパス球場
東京大学000 000 000 0
東洋大学000 040 23× 9
(洋)鹿沼・佐藤翔・根本ー佐藤・岡
(東洋大学野球部応援ホ-ムページ掲示板のハンドルネーム“神宮の雀さん”の書き込みを転載させて頂きました。)
東大とのオープン戦はあまり組まれたことがないようだが(東大に女性の投手が在籍していた時に対戦し、スポーツ紙でも取り上げられていた記憶がある)、同じ文京区内にキャンパスを持ち、野球でも歴史のある東大との対戦は新グラウンドのこけら落としにふさわしい相手と言えようか。
浅学非才の筆者は東大と聞いても三四郎池と安田講堂くらいしか思いつかない。安田講堂の名前は資金を提供した安田善次郎に由来しているが、その安田に資金を出させたのは村上専精(せんしょう)と云う人である。
明治二十三年に東大の講師となった村上は、大正六年勅命によって東大に印度哲学の講座が開設され、初代の教授に任ぜられた。それまでの間は単なる講師の講義だったのである。
この講座を開設する為に村上専精は安田財閥の安田善次郎を説いて五万円を寄付させた。その後も講座の充実に尽力し、やがては他の官立大学でも講座が開設されるようになる。
この時の安田善次郎との縁がきっかけで、安田講堂も建てられることになる。
村上専精は嘉永四年、丹波国氷上郡の真宗大谷派の寺の六人兄弟の長男として生まれたが、裕福では無い小寺であったため七歳の時から他寺に預けられ、日中は野良仕事をしながら勉学に励み、さらに師を求めて姫路・越後・三河などの寺に出向き勉学に励んだ。姫路の寺では朝托鉢をして糊口をしのぐ乞食同然の生活であったという。
明治七年三河の入覚寺で住職・村上界雄の養子に迎えられ村上姓となり、翌年には住職を継いだのだが引き続き勉強に没頭し寺のことは二の次にしていたため檀家からの苦情が相次ぎ、遂に養父と檀家総代から離縁の申し渡しを受けてしまう。ところが村上はこれぞ好機到来とばかりに逆に三年間の遊学とその間の資金二十円の提供を認めさせてしまい、京都にある東本願寺の教師教校へ入学を果たす。
教師教校では三年間の修学年限のところを二年で卒業を認められ、受講者の希望で高倉学寮と云うところで一年間講義をし、更に高岡の越中教校の校長に任ぜられるが、程なく豊川稲荷で知られる曹洞宗の妙厳寺から招かれそこで二年間講義を行った。それが契機となって明治二十年一月に東京の曹洞宗大学林(現駒沢大学)に講師として呼ばれ上京を果たすことになった。
初回の円了との面談では恐縮してしまったが、それでも同年九月の哲学館開校に際して井上円了に請われて哲学館で週二回仏教学の講義を行うことになった。ところがこの村上専精と云う人は哲学館に「哲学」「倫理学」「論理学」あるいは「心理学」といった今まで耳にしたことの無い授業があるのを知り、講師でありながらそれらの授業に出席するようにもなる。
安田善次郎を口説き落として講堂を建てさせた東京帝国大學初代印度哲学教授は、開設時の哲学館の先生であり生徒でもあったという誠に以て稀有な経歴の持ち主だったのである。特に清沢満之(当時は徳永姓)のカントの哲学の授業では仲間を募って謝礼を出し合い、今で云う課外授業まで受けたそうだ。
そして、三年後には先に記したように東大の講師も引き受けるようになるのだが、その傍ら神田に仏教講話所を設けたり『仏教史林』という雑誌の刊行、あるいは女子教育の必要性を痛感して東洋高等女学校(現在文京区千石にある東洋女子高校の前身)を設立するなどの功績をあげた。
大正十二年に東大を退官した後も京都・大谷大学の学長をなどを歴任し、晩年に至ってもなお夜遅くまで机に向い続けたそうだ。
昭和四年に七十九歳でその生涯を終え、現在は東京・雑司ヶ谷霊園の一隅に眠っている。
参考にした書籍
『明治の仏教者』常光光然
『近代化の仏教思想』芹川博通
『近代日本の仏教者』田村晃祐
『伝円了』平野威馬雄
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対東京大学・川越キャンパス球場
東京大学000 000 000 0
東洋大学000 040 23× 9
(洋)鹿沼・佐藤翔・根本ー佐藤・岡
(東洋大学野球部応援ホ-ムページ掲示板のハンドルネーム“神宮の雀さん”の書き込みを転載させて頂きました。)
東大とのオープン戦はあまり組まれたことがないようだが(東大に女性の投手が在籍していた時に対戦し、スポーツ紙でも取り上げられていた記憶がある)、同じ文京区内にキャンパスを持ち、野球でも歴史のある東大との対戦は新グラウンドのこけら落としにふさわしい相手と言えようか。
浅学非才の筆者は東大と聞いても三四郎池と安田講堂くらいしか思いつかない。安田講堂の名前は資金を提供した安田善次郎に由来しているが、その安田に資金を出させたのは村上専精(せんしょう)と云う人である。
明治二十三年に東大の講師となった村上は、大正六年勅命によって東大に印度哲学の講座が開設され、初代の教授に任ぜられた。それまでの間は単なる講師の講義だったのである。
この講座を開設する為に村上専精は安田財閥の安田善次郎を説いて五万円を寄付させた。その後も講座の充実に尽力し、やがては他の官立大学でも講座が開設されるようになる。
官立大学における仏教研究の基盤は、実に村上によって築かれたといってもよい。
(『明治の仏教者』常光光然)
この時の安田善次郎との縁がきっかけで、安田講堂も建てられることになる。
村上は東京帝国大学に大講堂のないことをいつも残念に思っていた。正門を入ると銀杏の並木があって、それをまっすぐに突き当たると、そこは講堂予定地で原っぱになっていた。浜尾大学総長時代から、毎年政府に交渉しても、予算の関係でやってくれない。外国からお客さんが来ても、最高学府に講堂がないとあっては、恥ずかしくてたまらない。それに学生を一か所に集める場所がない。卒業式は食堂でするという有様であった。そこで村上は誰かに一人で寄付してもらいたいと考え、ついに思いついたのが、安田善次郎であった。この人は三井・岩崎に次ぐわが国の財閥であったが、ただ違うところは、三井や岩崎と異なって、自分一代であれだけの富を作った人であるから、金銭にかけてはなかなかやかましい人であった。しかし彼は仏教の教えのうえから熱心に説いて、ついにこれを寄進せしめることに成功した。実に村上の偉大な功績といわねばならぬ。(同じく『明治の仏教者』より)
村上専精は嘉永四年、丹波国氷上郡の真宗大谷派の寺の六人兄弟の長男として生まれたが、裕福では無い小寺であったため七歳の時から他寺に預けられ、日中は野良仕事をしながら勉学に励み、さらに師を求めて姫路・越後・三河などの寺に出向き勉学に励んだ。姫路の寺では朝托鉢をして糊口をしのぐ乞食同然の生活であったという。
明治七年三河の入覚寺で住職・村上界雄の養子に迎えられ村上姓となり、翌年には住職を継いだのだが引き続き勉強に没頭し寺のことは二の次にしていたため檀家からの苦情が相次ぎ、遂に養父と檀家総代から離縁の申し渡しを受けてしまう。ところが村上はこれぞ好機到来とばかりに逆に三年間の遊学とその間の資金二十円の提供を認めさせてしまい、京都にある東本願寺の教師教校へ入学を果たす。
教師教校では三年間の修学年限のところを二年で卒業を認められ、受講者の希望で高倉学寮と云うところで一年間講義をし、更に高岡の越中教校の校長に任ぜられるが、程なく豊川稲荷で知られる曹洞宗の妙厳寺から招かれそこで二年間講義を行った。それが契機となって明治二十年一月に東京の曹洞宗大学林(現駒沢大学)に講師として呼ばれ上京を果たすことになった。
国を出る時に、東京に行けば、先ず井上円了君を尋ねよう、島地黙雷君を訪はう、北畠道龍君を吉谷覚壽君を、大内青巒君を今一人寺田福壽君を、先ずこれらの人を訪問し、その意見を叩き、而して自分の考へもきめねばならぬと思った。・・・中略・・・そこで東京に来るなり、まづ井上円了君を本郷弓町の私宅に尋ねた。尤も国を出づる時、雲英晃耀師の紹介状を貰って来たのだ。処が円了君は其の当時本郷弓町に、小さい借家住まいをして居られたのである。往って見れば、戸口に当時仏教活論編纂中であるから、普通の面会は断る。仮令用事のある人と雖も長談は断り度といふ意味を書いた掲示のあるのを見て、当時田舎ものの吾輩は驚かざるを得ぬのだ。唯驚くといふよりは、恐縮してしまったといふのが本当である。(『近代の仏教思想』芹川博通の村上専精自伝『六十一年』からの引用箇所より孫引き)
初回の円了との面談では恐縮してしまったが、それでも同年九月の哲学館開校に際して井上円了に請われて哲学館で週二回仏教学の講義を行うことになった。ところがこの村上専精と云う人は哲学館に「哲学」「倫理学」「論理学」あるいは「心理学」といった今まで耳にしたことの無い授業があるのを知り、講師でありながらそれらの授業に出席するようにもなる。
安田善次郎を口説き落として講堂を建てさせた東京帝国大學初代印度哲学教授は、開設時の哲学館の先生であり生徒でもあったという誠に以て稀有な経歴の持ち主だったのである。特に清沢満之(当時は徳永姓)のカントの哲学の授業では仲間を募って謝礼を出し合い、今で云う課外授業まで受けたそうだ。
そして、三年後には先に記したように東大の講師も引き受けるようになるのだが、その傍ら神田に仏教講話所を設けたり『仏教史林』という雑誌の刊行、あるいは女子教育の必要性を痛感して東洋高等女学校(現在文京区千石にある東洋女子高校の前身)を設立するなどの功績をあげた。
大正十二年に東大を退官した後も京都・大谷大学の学長をなどを歴任し、晩年に至ってもなお夜遅くまで机に向い続けたそうだ。
昭和四年に七十九歳でその生涯を終え、現在は東京・雑司ヶ谷霊園の一隅に眠っている。
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『近代化の仏教思想』芹川博通
『近代日本の仏教者』田村晃祐
『伝円了』平野威馬雄
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