猫面冠者Ⅱ

主に東洋大学を中心に野球・駅伝などの記録・歴史・エピソードなどなど…。

東洋大学野球部の歴史-戦前⑬昭和九年~(附:陸上部の耐熱マラソン・奉祝駅伝の事など)

2008-06-30 20:59:00 | インポート
昭和九年
新大学リーグ
春のリーグ戦

5月5日
商科大16- 0工業大

拓殖大8x- 7文理大

5月6日
拓殖大21-17文理大

商科大18- 7東洋大

5月12日
商科大17-12工業大

文理大28- 1東洋大

5月16日
文理大24- 2工業大

5月19日
工業大 4- 2文理大

拓殖大26- 2東洋大

5月20日
拓殖大32-14東洋大

工業大12-12文理大

5月23日
工業大18x-16文理大

5月26日
工業大14- 5拓殖大

商科大17- 8文理大

5月27日
商科大12x‐ 2文理大

工業大7x- 6拓殖大

その後、六月七日の新聞に次のような記事が掲載されている。
新大學野球聯盟分裂
拓大應援團の暴行が因
去る五月廿七日北町球場で行われた工大對拓大野球戰は七對六で工大の勝ちとなったが、試合終了後極度にエキサイトした拓大應援團は審判の不公平を叫んでグラウンドに亂入し、工大選手を取り圍んで押し問答の末一壘手井田君外一名を棍棒で横打(ママ)して昏倒せしめ全治二週間の重傷を負わせた、同聯盟ではこの處置に関して六月三日一ツ橋如水會館に幹事會を開催、種々協議の結果東洋大學幹事は拓大に對して脱退を勧告した所、拓大側憤慨して同幹事を毆りつけ重なる暴行沙汰で新大學野球聯盟は遂に分裂する事となり、その後商、文、工の三大學によって新たに三大學野球聯盟が結成され、今秋リーグ戰を擧行する事となった。(『朝日新聞』昭和九年六月七日付朝刊)


これまで見てきたように昭和六年の三大学でのスタートから五校でのリーグ戦へと発展させてきた新大学野球リーグも、上記の記事のような結果となってしまった。
記事中にある新たな三大学野球連盟は筆者が見てきた限りでは、この年の秋の新聞記事に結果などを見つけることは出来なかった。昭和七年の項で触れたように、野球統制令が施行され新たなリーグを認めて貰うのは難しかったのではなかろうか。
商大は翌、昭和十年春に農大に代わって東都大学野球連盟に加盟するが、加盟後三シーズンで24連敗を喫してしまう。その為か十一年秋から農大が復帰、商大・農大の二校をBクラスとして変則二部制のリーグを行っている。
新大学リーグでは他校を圧倒していた商大のこの成績から、当時の新大学リーグのレベルを推し量ることができよう。
昭和十一年の三月には東都側から六大学連盟に対し、六大学最下位チームと東都優勝チームの対戦及び東都連盟の六大学連盟加盟、を申し入れているが、六大学側は試合数増加による学業への妨げ等の理由でこれを拒否、各校間の交渉で対抗試合を行う旨回答している。


以後、戦前の新聞記事等からは東洋大の野球に関する記事はまだ見つけられないでいる。先の大学野球選手権で優勝した際、“昭和十四年東都リーグ加盟”と紹介しているスポーツ紙などもあり、『神宮球場ガイドブック』の第一号(昭和61年春)の“東都大学野球の歩み”には
連盟が六校の形態をとるに至ったのは昭和14年春以降で、同年には、慈恵大、文理大、工大、東洋大、上智大など加盟の増加をみて、一部六校、二部五校と分け、一部、二部の入替戦を行った
とあるが、『東都大学野球連盟七十年史』(平成13年発行)ではその辺ははっきりとは書かれていない。加盟校の変遷をあらわす表で昭和十四年に加盟校が十一校に増えているが、詳細は当時の資料が戦災などで失われているようで連盟でも把握できないようだ。
また、昭和十四年当時の新聞を見てもそのような記事はなく、むしろ一部、二部制を廃する事が取り上げられている。(この年、農大・商大の二校をBクラスとした制度を廃止している)
加入の時期が何時なのかは断定できそうにない。
*次の項「戦後編①昭和21年~昭和30年」で触れるが、戦後に再開した昭和二十一年のリーグ戦に東洋大は“東都大学野球二部”のチームとして参加しているので、現在の東都大学野球を構成している大学の中では、早期に加盟したチームであることは間違いなさそうだ。


関連記事:東都への加盟時期などについては、その後下記の記事にまとめてみましたので、宜しければ覗いてみてくださいませ。
東都はいつから二部制になったのか?~東洋大野球部の加盟時期など…。


また、拓大の事件でリーグ戦が無くなった後も野球部が存続していたのは確かなようである。『東洋大学百年史』によれば、昭和十六年にそれまで運動部などを統括していた学生組織の学友会が教職員も含む全学的な護国会へと再編されたことが記されている。これは文部省の働きかけにもよるようで修錬強化の一環でとして行われたようである。
運動関係の部は護国会の中の鍛錬本部の下に武道部・修錬部・体育部の三部が置かれ、さらにその下に各競技部が属していたようだ。
昭和十六年の護国会鍛錬本部の組織図では下記のような構成になっている。
 
鍛錬本部長北浦 藤郎
武道部長 四元 義正
幹 事 伊藤 博兼重 信義
補佐幹事高山 明(柔道部)武山 弘(弓道部)
      中村 薫(空手部)益山 猪三郎(剣道部)
      金川 弘雄(相撲部)
修錬部長黒川 太郎
幹 事 広井 金吾上崎 義郎
体育部長池中 康雄
幹 事 岩本 栄一田川 員一
補佐幹事森 寿一(陸上競技部)飯田 教一(排球部)
      金 在鎬(庭球部)児子 英一郎(野球部)
      金 善沢(蹴球部)田川 員一(徒歩部)
      姜 声甫(籠球部)関口 恒由(水泳部)
      藤井 智正(卓球部)金沢 武光(体操部)

*『東洋大学護国会規則』によれば「本部長・部長ハ教職員中ヨリ、幹事及補佐幹事ハ学生々徒ヨリ会長之ヲ任命ス」とある。
以上、『東洋大学百年史-資料編上』より。


体育部長はマラソンで世界記録も出したことのある池中康雄さんと思われる。池中さんは昭和十五年の箱根駅伝に六回目の出場を果たしているので、卒業後東洋大の職員となっていたようだ。

護国会は昭和十八年には報国団と名前を変え、鍛錬本部は体錬本部となっている。、『東洋大学百年史-資料編上』に載っている昭和十九年の報国団予算表から体錬本部の構成と予算額を見てみると


自 昭和19年4月 1日
至 昭和20年3月31日
体錬本部4,800
[武道部]1,200
柔道部350
剣道部350
弓道部150
相撲部
空手部350
[国防部]3,200
射撃部500
銃剣道部500
馬術部400
海洋部600
機甲部600
航空部400
ラッパ部100
国防研究部100
[練成部]400
陸上競技部100
体操部100
水泳部100

(備考)予算編成方針
(1)体錬本部ニ重点ヲ置ク。
(2)就中国防部ハ時局下最重点的部ト認ム。

となっている。(予算の単位は円)
大学野球は各リーグとも昭和十八年から中止され、東都大学野球連盟も解散しているので、東洋大の野球部もここの頃には解散していたものと思われる。

戦前の野球部については今後も調べて随時まとめて行きたいが、併せて“戦後編”もスタートさせていく予定である。
*故植木等さんはこの表の年、昭和十九年の入学である。『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」 』によれば中学三年の時100mを11秒4を記録していた植木さんは東洋大でも陸上部に入ったが、監督もコーチもいなかったとのことだ。



参 考①
ちょっと野球の話から逸れてしまうが、戦前の新聞を見ていて偶々見つけた陸上部に関する記事を二つ紹介しておきたい。
一つは昭和十四年の下記の記事である。

耐熱マラソン
皇軍兵士の武運長久を祈願し併せて事變下における學徒の體位向上不撓不屈、確固不抜の精神を涵養すべく東洋大學競技部では折柄の炎暑をついて青森、東京間八百キロの皇軍将士武運長久祈願耐熱マラソンを擧行することゝなった。
選手は嘗て2時間26分44秒の世界最高記録を出したマラソンの猛者池中康雄君を始め武智徳令、朴鉱采、石本三郎の四君で二十三日午前七時青森市善知島神社前を出發、一日四、五十キロの豫定で岩手、宮城、福島、栃木、埼玉、東京と七府縣を驅け通し十六日目の八月七日午後一時頃靖國神社前のゴールに到着する豫定である。(『朝日新聞』昭和十四年七月十九日付朝刊)


この記事の続報は見つからなかったが、『東洋大学百年史』によると、「四選手一団となって街道をひた走り、八月七日午後一時、十六日間で最後のゴール靖国神社に到達した」とある。

更に翌十五年七月には次のような“奉祝継走”を行っている。

洋大奉祝駅傳
宮崎-橿原-東京間
東洋大學陸上競技部では紀元二千六百年奉祝記念事業として夏季休暇を利用し宮崎-柏原-東京間約二千五百キロの駅傳走破を決行、期日は廿五日から八月七日に至る二週間で参加十走者が毎日一區間づつリレーする。(『讀賣新聞』昭和十五年七月十四日付朝刊)

東洋大學奉祝繼走終る
東洋大學陸上競技部主催の宮崎、橿原、明治神宮間奉祝繼走は七日朝平塚から東京に向けて最後の走者が出發、午後一時二十八分無事品川神社前に到着したが、此處で汽車によって先着した池中、武智、石本、高岡、安城、高瀬、金光、渥美、小川、原の全選手が打ち揃ひ、共に走って日枝神社に参拝した後午後四時明治神宮に到着大繼走を無事終了した。(『朝日新聞』昭和十五年八月八日付朝刊)

宮崎東京間驛傳ゴール
・・・この驛傳は七月廿五日宮崎神宮八紘塔を出發各地區を十選手で分割して走破したもので最終日の七日平塚を午前八時出發し品川にて全選手勢揃いし午後四時明治神宮到着、宮司の修祓を受け行軍武運長久祈願の○を獻納した。(○は判讀できず。”額”と思われる)(『讀賣新聞』昭和十五年八月八日付朝刊)



耐熱マラソンについて調べてみたところ、昭和十年八月に「第一回耐熱短縮マラソン」という競技が六郷橋~神宮間21キロのコースで行われており、学生の部では明大の南昇竜という選手が1時間12分47秒のタイムで優勝している。東洋大勢で井坂という選手が五位に入っていた。但し、結果を伝えるの記事によれば「この日気温低く競技の意味をなさなかった」そうだ。
また、奉祝継走については昭和十五年の紀元二千六百年の年に、例年秋に行われていた明治神宮競技大会に合わせ十月初めから十一月三日までの期間に全国の道府県庁所在地から明治神宮までに四つのコースを設定し、沿道の住民の選ばれた人たちが駅伝形式で各道府県代表者の奉祝文を伝える、という競技ではなく行事として行われた。

東洋大ではこれとは別に独自で“耐熱マラソン”と“奉祝継走”に取り組んだようだ。時代が違うとはいえ東洋大の先人がこのように壮大な取り組みを成し遂げていたことは是非記憶に留めておきたいものである。

*池中康雄さんについては陸上部応援サイト「輝け鉄紺」の中の「池中康雄伝説」に詳しく紹介されています。


関連記事
昭和10年にマラソンの世界最高記録を出した池中康雄さんの東洋大学在学年について

参 考②
東洋大の壮行卒業式
東洋大學の假卒業式證書授與式と出陣學徒壮行會は廿八日午前八時卅分から同校講堂で行われた。國民儀禮、勅語奉賛ののち出陣學徒代表安田守一(文學部三年)君に假卒業證書を授與、高島學長の諄々たる訓示、加藤教授代表の激励の講などあって授與式を終了。
九時から壮行會にうつり、原町町會員、京北中學、本郷十佳女子職業校、京華高女生徒など数千名の盛大な激励の中に堂々校門を出發、宮城前において遥拝各自米英撃滅を誓って壮行會を終った。
(『讀賣新聞』昭和十八年十一月二十日付朝刊より)
*本郷十佳女子職業校は現文京学院大学女子高

 
拍手する
(この記事が気に入った方はクリックして頂ければ幸いです)


テーマ別インデックス「資料編」 :通算本塁打・投手勝敗・開幕カードスタメンなど
「記録」:個人記録についての話題
「戦前」:新聞記事で拾った戦前の記録
「動画」:神宮で生観戦した際の動画
「エピソード」
「人物」
 




二十二年ぶり大学日本一(動画Ⅲ:得点シーン、7回校歌)=東洋大野球部の歴史-最新版③

2008-06-17 21:02:19 | インポート
二回中倉ヒットで出塁
</object>



続く小島タイムリーで先制
</object>



3回大野タイムリー
</object>



4回林崎タイムリー
</object>



大野にアドバイスする高橋監督
</object>



7回、なかなか騒ぎの収まらない東海大応援席
</object>



当日の神宮パノラマ
画像 


(クリックして別ウィンドウで開き更にクリックして拡大して見ることができます)

関連エントリー
   二十二年ぶり大学日本一(動画Ⅰ:上野登板、優勝・インタビュー)
   二十二年ぶり大学日本一(動画Ⅱ:エール交換、表彰式)


テーマ別インデックス「資料編」 :通算本塁打・投手勝敗・開幕カードスタメンなど
「記録」:個人記録についての話題
「戦前」:新聞記事で拾った戦前の記録
「動画」:神宮で生観戦した際の動画
「エピソード」
「人物」
 




二十二年ぶり大学日本一(動画Ⅱ:エール交換、表彰式)=東洋大野球部の歴史-最新版②

2008-06-15 23:27:00 | インポート
試合後のエール交換
</object>
http://jp.youtube.com/watch?v=Xm9Q_z_DwwI

優勝旗授与
</object>
http://jp.youtube.com/watch?v=ZWSyImi1T6M

個人表彰
</object>
http://jp.youtube.com/watch?v=11JOtnl8Czs

学長挨拶
</object>
http://jp.youtube.com/watch?v=B7uRcsO0tFI

画像













関連エントリー
  二十二年ぶり大学日本一(動画Ⅰ:上野登板、優勝・インタビュー)=東洋大野球部の歴史-最新版


テーマ別インデックス「資料編」 :通算本塁打・投手勝敗・開幕カードスタメンなど
「記録」:個人記録についての話題
「戦前」:新聞記事で拾った戦前の記録
「動画」:神宮で生観戦した際の動画
「エピソード」
「人物」
 





二十二年ぶり大学日本一(動画Ⅰ:上野登板、優勝・インタビュー)=東洋大野球部の歴史-最新版

2008-06-15 22:26:00 | インポート
上野登板、マウンドを降りる乾に大きな拍手
</object>
http://jp.youtube.com/watch?v=YWs7s7VAs8c

22年ぶりの大学選手権制覇
</object>
http://jp.youtube.com/watch?v=sY-03aTSm94
胴上げ投手は上野大樹投手(四年 帝京高出)


画像
















参 考

平成15年10月18日
秋季都高校野球大会準々決勝:於・神宮第二
拓大一000 000 003  3
帝  京000 011 000  2
(拓)石塚-小金丸
(帝)上野-石田
本・三浦(拓)


平成16年7月23日
全国高校野球選手権東東京大会5回戦:於神宮球場
修  徳000 200 500  7
帝  京012 000 011  5
(修)磯辺・斎藤-長野
(帝)深井・上野-谷本
三・長島(修) 二・小林健、磯辺、長島(修)川村3、沼田(帝)

エースの責任果たせず涙-上野大樹投手(帝京3年)
1点リードの7回、無死一、三塁の場面。「エースとして、ここで抑えるのが当然」と救援のマウンドに向かった。
犠飛と二塁打で逆転された後、インコースを狙い修徳の四番打者に投じた一球は真ん中に入った。その瞬間、「行かれたな」と思った打球は右中間を転がり決勝点となった。ここで降板を命じられ、1イニングも投げ切ることはできなかった。
「調子は悪くなかった。球は走っていた」。しかし、修徳はこの日に備え、マウンドの手前から投げる球を打つなど、速球対策を重ねていた。
プロ注目の、球速百四十キロ超の大型右腕。一年夏に甲子園の土を踏んだが、投板機会はなかった。
エースとなった昨秋の都大会には、苦い思い出がある。準々決勝で八回まで完ぺきに抑えていたのに、九回二死から逆転3ランを浴びた。選抜出場の夢がかなわず、ベンチ裏の壁を何度もたたき泣き叫んだ。・・・中略・・・「目標はプロだが、今の実力ではまだまだ。大学で鍛えて目標をかなえたい」。泣きはらした目で言い切った。(『読売新聞 都民版』平成十六年七月二十四日付朝刊)

上記引用記事中の修徳の四番打者は現青学大の長島一成選手


拍手を送る(この記事が気に入った方はクリックして頂ければ幸いです)

関連エントリー
   二十二年ぶり大学日本一(動画Ⅱ:エール交換、表彰式)=東洋大野球部の歴史-最新版②

台湾の上野投手のファン:yesnoon.chuさんのブログ“。秀。愛。棒。球。”
http://blog.xuite.net/yesnoon.chu/baseballshow/21455778/track


テーマ別インデックス「資料編」 :通算本塁打・投手勝敗・開幕カードスタメンなど
「記録」:個人記録についての話題
「戦前」:新聞記事で拾った戦前の記録
「動画」:神宮で生観戦した際の動画
「エピソード」
「人物」
 





’08大学野球選手権準決勝:東洋大対近畿大動画&写真②延長15回

2008-06-15 00:25:00 | インポート
九回二死から中倉同点ツーラン(09年2月8日、YouTubeより動画を追加)
</object>
(右下の△マークにカーソルを合わせHQをクリックすると高画質モードになります)
http://www.youtube.com/watch?v=KF6DrYPx5C4



画像

“その時”は撮影どころじゃなくてこれだけです・・・。

延長11回、松永勝ち越しホームラン
画像


更に中倉もタイムリーこれで決まりと思ったが・・・。
</object>
http://jp.youtube.com/watch?v=iRjYYRUd6ac

その裏、一点を返されなおも一死満塁で
このプレー(09年2月17日、YouTubeより動画を追加)</object>
http://www.youtube.com/watch?v=0beOlCOmrMU

この後鹿沼が痛恨の押し出しで再び同点に・・・。

しかし、延長15回表中倉がまたもタイムりー。

試合終了
</object>
http://jp.youtube.com/watch?v=ArOr1xZYJWM

延長15回ついに決着
画像


試合時間5時間7分
画像
これまでの大会最長試合記録4時間54分を破る。