連勝で勝点奪取がV達成の条件だった対国士大戦。先勝して迎えた二回戦でいきなりの初回4失点のビハインドをものともせずに、打撃戦の末9対8で見事優勝を勝ち取った平成22年5月19日の神宮球場。ここから時計の針を32年分巻戻した昭和53年春のリーグ戦…。
4カードを終えた時点で8勝3敗1分で勝点4の東洋大は、残る国士大戦で勝点を挙げれば51年春の初優勝以来となる二度目の優勝。勝点を落とした場合は、その時点では勝点3ながら6勝3敗の専修大が最終週の対駒沢大戦で勝点を挙げれば勝率の差で逆転優勝となる状況だった。しかも、前年秋の覇者駒沢大は専修大戦で勝点を落とすと入替戦が待っていたので、専修大を亜大、駒沢大を立正大に置き換えると、今回とまったく同じ構図だったわけだ。
そんな中で迎えた東洋大対国士大戦。
昭和53年
5月16日:東洋大対国士大一回戦
東洋大000 200 002 4
国士大000 002 010 3
(東)松沼雅-船守・浜田
(国)片岡・山村-井上昭・梶原
本塁打:湯浅(東) 三塁打:永田(国) 二塁打:塚原(東)
5月17日:東洋大対国士大二回戦
国士大005 020 103 10
東洋大000 000 000 0
(国)大田正-羽田野
(東)山村・望月・兵頭-浜田・船守
本塁打:武居(国) 三塁打:武居(国) 二塁打:羽田野(国)高野(東)
そして迎えた三回戦
5月18日:東洋大対国士大三回戦
東洋大000 000 000 0
国士大100 000 00X 1
(東)松沼雅-船守・田鎖
(国)渡辺昭-羽田野
記事には書かれていないが、集まった観衆は前日とほぼ同じだったので、この日も一万五千人だっただろう…(筆者も一万五千分の一人だったのだ)
最後の打者(記憶では湯浅)がサードファウルフライに倒れ、“一万五千人のため息”とともに東洋大の優勝は遠のいていった…。
ちなみに一回戦の引用記事にある、逆転の一打を放った国士大・永田が、当時三年で3試合とも五番・レフトで出場していた永田昌弘現国士大監督だ。
あの日から32年と一日、時に平成22年5月19日。
奇しくも32年前に涙を呑んだ当時のエース、松沼雅之氏が非常勤ながら投手コーチに就任し、指導してきたチームが“一万五千人のため息”を歓声に変えたのである!
*優勝をかけた専修大と最下位脱出を目指す駒沢大との一戦は
5月23日:一回戦
駒沢大004 000 305 12
専修大000 000 210 4
5月25日:二回戦(延長15回)
専修大001 100 011 000 002 6
駒沢大000 200 200 000 000 4
5月26日
駒沢大000 010 000 1
専修大100 000 10X 2
駒大が先勝し追い詰められた専大は二回戦の九回二死二塁で漆畑が同点タイムリーを放ち 、土壇場で東洋の“棚ぼた優勝”を引き戻した。
更にこの結果最下位となった駒沢大は日大との入替戦一回戦で、大田監督が五人の投手を使い果たし、主将のショート・石毛宏典をマウンドへ送った…。
戦国東都のエピソードは玉ねぎを剥くがごとく尽きることはないのである…。
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4カードを終えた時点で8勝3敗1分で勝点4の東洋大は、残る国士大戦で勝点を挙げれば51年春の初優勝以来となる二度目の優勝。勝点を落とした場合は、その時点では勝点3ながら6勝3敗の専修大が最終週の対駒沢大戦で勝点を挙げれば勝率の差で逆転優勝となる状況だった。しかも、前年秋の覇者駒沢大は専修大戦で勝点を落とすと入替戦が待っていたので、専修大を亜大、駒沢大を立正大に置き換えると、今回とまったく同じ構図だったわけだ。
そんな中で迎えた東洋大対国士大戦。
昭和53年
5月16日:東洋大対国士大一回戦
東洋大000 200 002 4
国士大000 002 010 3
(東)松沼雅-船守・浜田
(国)片岡・山村-井上昭・梶原
本塁打:湯浅(東) 三塁打:永田(国) 二塁打:塚原(東)
粘り強さ象徴の一打
東洋大の粘り強さと、底力のを象徴するような本塁打だった。松沼が国士大・永田に逆転の一打を許して迎えた東洋大最後の攻撃。先頭の石崎が左前打。それまで三度とも内野ゴロに終わった湯浅に打席が回ってきた。佐藤監督は石崎が凡退したら、湯浅の代打に塚原を出すつもりでいた。
湯浅にすれば、石崎に救われたようなもの。湯浅は四球いずれも見送り。2‐2の五球目、真ん中高めにカーブがきた。打球は高く上がって右翼席最前列で勢いよくはずんだ。高校(上尾)時代を含め、初めて公式戦で記録した本塁打だった。
湯浅は直球に的を絞っていたという。ところが、片岡はカーブの連投。「もう、なんでも振ってやろう」と、湯浅は五球目を待った。「ひらき直り」が力みをなくす好結果をもたらしたのだろう。「バットがスムーズに出た」
学生が「明日優勝だ」と叫んでいた。
(『朝日新聞』昭和五十三年五月十七日付朝刊)
5月17日:東洋大対国士大二回戦
国士大005 020 103 10
東洋大000 000 000 0
(国)大田正-羽田野
(東)山村・望月・兵頭-浜田・船守
本塁打:武居(国) 三塁打:武居(国) 二塁打:羽田野(国)高野(東)
拙攻で歯車が狂う
優勝シーンを期待して集まった一万五千人の観衆を裏切る東洋大の惨敗。今季、負けた三試合はいずれも一点差だっただけに、異例の負けっぷりだ。しかも相手バッテリーは新人。「屈辱ですねぇ」と佐藤監督もため息まじり。・・・中略・・・だが、惨敗で「かえって気持ちがすっきりした」ともいい、「今夜は選手にうまいものでも食べさせて出直します」と白い歯をのぞかせた。
(『朝日新聞』昭和五十三年五月十八日付朝刊)
そして迎えた三回戦
5月18日:東洋大対国士大三回戦
東洋大000 000 000 0
国士大100 000 00X 1
(東)松沼雅-船守・田鎖
(国)渡辺昭-羽田野
東洋大 自力優勝消える
…東洋大は優勝を意識しすぎて打線が硬くなって振るわず、国士大・渡辺昭に散発3安打で前日の二回戦に続き完封された。
(『朝日新聞』昭和五十三年五月十九日付朝刊)
記事には書かれていないが、集まった観衆は前日とほぼ同じだったので、この日も一万五千人だっただろう…(筆者も一万五千分の一人だったのだ)
最後の打者(記憶では湯浅)がサードファウルフライに倒れ、“一万五千人のため息”とともに東洋大の優勝は遠のいていった…。
ちなみに一回戦の引用記事にある、逆転の一打を放った国士大・永田が、当時三年で3試合とも五番・レフトで出場していた永田昌弘現国士大監督だ。
あの日から32年と一日、時に平成22年5月19日。
奇しくも32年前に涙を呑んだ当時のエース、松沼雅之氏が非常勤ながら投手コーチに就任し、指導してきたチームが“一万五千人のため息”を歓声に変えたのである!
*優勝をかけた専修大と最下位脱出を目指す駒沢大との一戦は
5月23日:一回戦
駒沢大004 000 305 12
専修大000 000 210 4
5月25日:二回戦(延長15回)
専修大001 100 011 000 002 6
駒沢大000 200 200 000 000 4
5月26日
駒沢大000 010 000 1
専修大100 000 10X 2
駒大が先勝し追い詰められた専大は二回戦の九回二死二塁で漆畑が同点タイムリーを放ち 、土壇場で東洋の“棚ぼた優勝”を引き戻した。
更にこの結果最下位となった駒沢大は日大との入替戦一回戦で、大田監督が五人の投手を使い果たし、主将のショート・石毛宏典をマウンドへ送った…。
戦国東都のエピソードは玉ねぎを剥くがごとく尽きることはないのである…。
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