猫面冠者Ⅱ

主に東洋大学を中心に野球・駅伝などの記録・歴史・エピソードなどなど…。

昭和53年の“5・18”から平成22年“5・19”へ…32年越しに実現、対国士大戦でのV達成!

2010-05-23 01:25:00 | インポート
連勝で勝点奪取がV達成の条件だった対国士大戦。先勝して迎えた二回戦でいきなりの初回4失点のビハインドをものともせずに、打撃戦の末9対8で見事優勝を勝ち取った平成22年5月19日の神宮球場。ここから時計の針を32年分巻戻した昭和53年春のリーグ戦…。

4カードを終えた時点で8勝3敗1分で勝点4の東洋大は、残る国士大戦で勝点を挙げれば51年春の初優勝以来となる二度目の優勝。勝点を落とした場合は、その時点では勝点3ながら6勝3敗の専修大が最終週の対駒沢大戦で勝点を挙げれば勝率の差で逆転優勝となる状況だった。しかも、前年秋の覇者駒沢大は専修大戦で勝点を落とすと入替戦が待っていたので、専修大を亜大、駒沢大を立正大に置き換えると、今回とまったく同じ構図だったわけだ。

そんな中で迎えた東洋大対国士大戦。

昭和53年
5月16日:東洋大対国士大一回戦
東洋大000 200 002  4
国士大000 002 010  3
(東)松沼雅-船守・浜田
(国)片岡・山村-井上昭・梶原
本塁打:湯浅(東) 三塁打:永田(国) 二塁打:塚原(東)
粘り強さ象徴の一打
東洋大の粘り強さと、底力のを象徴するような本塁打だった。松沼が国士大・永田に逆転の一打を許して迎えた東洋大最後の攻撃。先頭の石崎が左前打。それまで三度とも内野ゴロに終わった湯浅に打席が回ってきた。佐藤監督は石崎が凡退したら、湯浅の代打に塚原を出すつもりでいた。
湯浅にすれば、石崎に救われたようなもの。湯浅は四球いずれも見送り。2‐2の五球目、真ん中高めにカーブがきた。打球は高く上がって右翼席最前列で勢いよくはずんだ。高校(上尾)時代を含め、初めて公式戦で記録した本塁打だった。
湯浅は直球に的を絞っていたという。ところが、片岡はカーブの連投。「もう、なんでも振ってやろう」と、湯浅は五球目を待った。「ひらき直り」が力みをなくす好結果をもたらしたのだろう。「バットがスムーズに出た」
学生が「明日優勝だ」と叫んでいた。
(『朝日新聞』昭和五十三年五月十七日付朝刊)


5月17日:東洋大対国士大二回戦
国士大005 020 103  10
東洋大000 000 000  0
(国)大田正-羽田野
(東)山村・望月・兵頭-浜田・船守
本塁打:武居(国) 三塁打:武居(国) 二塁打:羽田野(国)高野(東)
拙攻で歯車が狂う
優勝シーンを期待して集まった一万五千人の観衆を裏切る東洋大の惨敗。今季、負けた三試合はいずれも一点差だっただけに、異例の負けっぷりだ。しかも相手バッテリーは新人。「屈辱ですねぇ」と佐藤監督もため息まじり。・・・中略・・・だが、惨敗で「かえって気持ちがすっきりした」ともいい、「今夜は選手にうまいものでも食べさせて出直します」と白い歯をのぞかせた。
(『朝日新聞』昭和五十三年五月十八日付朝刊)



そして迎えた三回戦

5月18日:東洋大対国士大三回戦
東洋大000 000 000  0
国士大100 000 00X  1
(東)松沼雅-船守・田鎖
(国)渡辺昭-羽田野
東洋大 自力優勝消える
…東洋大は優勝を意識しすぎて打線が硬くなって振るわず、国士大・渡辺昭に散発3安打で前日の二回戦に続き完封された。
(『朝日新聞』昭和五十三年五月十九日付朝刊)

記事には書かれていないが、集まった観衆は前日とほぼ同じだったので、この日も一万五千人だっただろう…(筆者も一万五千分の一人だったのだ)
最後の打者(記憶では湯浅)がサードファウルフライに倒れ、“一万五千人のため息”とともに東洋大の優勝は遠のいていった…。

ちなみに一回戦の引用記事にある、逆転の一打を放った国士大・永田が、当時三年で3試合とも五番・レフトで出場していた永田昌弘現国士大監督だ。

あの日から32年と一日、時に平成22年5月19日。
奇しくも32年前に涙を呑んだ当時のエース、松沼雅之氏が非常勤ながら投手コーチに就任し、指導してきたチームが“一万五千人のため息”を歓声に変えたのである!


*優勝をかけた専修大と最下位脱出を目指す駒沢大との一戦は

5月23日:一回戦
駒沢大004 000 305  12
専修大000 000 210  4

5月25日:二回戦(延長15回)
専修大001 100 011 000 002  6
駒沢大000 200 200 000 000  4

5月26日
駒沢大000 010 000  1
専修大100 000 10X  2

駒大が先勝し追い詰められた専大は二回戦の九回二死二塁で漆畑が同点タイムリーを放ち 、土壇場で東洋の“棚ぼた優勝”を引き戻した。


更にこの結果最下位となった駒沢大は日大との入替戦一回戦で、大田監督が五人の投手を使い果たし、主将のショート・石毛宏典をマウンドへ送った…。


戦国東都のエピソードは玉ねぎを剥くがごとく尽きることはないのである…。



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和辻哲郎と東洋大学の野球…?

2010-05-18 00:08:00 | インポート
『風土』や『古寺巡礼』などで一般にも広く知られる和辻哲郎が東洋大学の教壇に立ったのは大正九年の事だ。その後大正十四年からは京大、昭和九年から定年退官する昭和二十四年までは東大で学究生活を送った和辻は、それまでもっぱら文筆を以って生業としていたので、本格的な“学者”生活のスタートを東洋大学で切ったことになる。

「・・・そうこうしているうちに大正八年に、『古寺巡礼』を岩波から出してもらったのがきっかけになって、東洋大学で講義しないかという交渉を受けました。得能文さんの発議だということでしたが、速水混さんがその話を持って来られました。その時から講義という仕事を初めたんです(ママ)。その頃東洋大学の幹事をしていた郷白厳君が後に言ってましたが、どうせこの講師は欠席が多くて、講義があまり進まないだろうと思っていたら、案に相違して熱心にやって下さるので、非常に驚いたということでした。多分そのせいだったと思いますが、あそこで段々時間をふやされました。文化学科といって、教員免許と関係のない自由なコースを始めたりなんかした関係で、色々講義をあてがってくれたんです。それで、好きなものを勝手にやれるような科目をひきうけて、それから五年くらい東洋大学の講義を続けていました。京都へ行くまでです。
(談話『源泉を探る』)


『東洋大学創立五十周年史』によれば、大正十年の文化学科の倫理学・文学・史学の科目の教授に“文学士・和辻哲郎”の名が見られる。
また、『和辻哲郎全集別巻1』には未刊行の「芸術論」ノートが収録されており、同書の解説では“このノートはおそらく大正十二年度の東洋大学における「芸術論」講義の準備ノートと考えてよいだろう”としている。「芸術論」「日本芸術史」「日本倫理史」「日本文化史」「欧州文化史」等の講義を担当していたようだ。
学生たちの人気も高かったようで、文化学科に入学しながらほとんど授業に出ず一年足らずで中退してしまった詩人・岡本潤も自伝『詩人の運命』の中で“…学校はなまけていたが、それでも、和辻哲郎の日本文化史や出隆の西洋哲学史の講義の時間には、わりあい熱心に出席した”と語っている。

東洋大学では大正十二年に新聞各紙の社会面をおおいに賑わせた“紛擾事件”が起こるのだが、そのきっかけを作ったのが和辻だった。

「東洋大学は境野黄洋が学長の時分で、私のいるうちに黄洋学長を撲る事件が起こりました。あの事件のキッカケを作ったのは私なのですが、そのため、背後でアジったろうという嫌疑で、検事局へ呼ばれました。アジったわけではありませんが、境野学長のやり方に憤慨して、その日に辞職を申し出たことは確かなのです。境野という人は少し金にだらしのない人で、学校の金を少し私事に融通していたのですね。それを校友会の有力者の田辺義知という日蓮宗の坊さんが嗅ぎつけて、脅しの材料に使って、学校をのっとりにかかったんです。境野氏はやむを得ず田辺の言う通りに、田辺と一緒に動きだしたんです…中略…田辺を立てるために郷幹事などをやめさせることにまでなった。それを見て私は、ひどく憤慨して、辞職を申し出たのです。」
(談話『源泉を探る』)

「……授業後突然先生が、今度都合によって学校をやめる事になった。皆さんに対してはまことに心残りの気がするが……としずかにおっしゃいました」

「和辻先生は、少しの興奮の御様子もなく、お言葉は覚えて居りませんけれども、今度学校当局から解職になったので、これでお別れする。解職の理由ははっきりしない。とただそれだけを仰言ったと記憶しています。激しいお言葉も態度もありませんでした。でも先生が教室をお出になると、直ぐ我々はクラス会を開いて、代表が質問しに学長室へ押しかけたのだったと思います」
(『和辻哲郎とともに』和辻照より、当時の学生の回想)



和辻が辞職を告げた日にも学生は学長を大分つるし上げたようだが、この数日後には学生が学長室に乱入し学長を殴打する事件が発生、十数名が逮捕された。逮捕された学生の中には“若き天才詩人・宵島俊吉こと勝承夫もいた。
結局この紛擾事件は一カ月以上、学内が学長擁護派と学長排斥派に分かれてすったもんだした揚句、境野学長が文部省から学長認可を取り消されひとまず一段落し、辞表を出した和辻哲郎も京大に移る大正十四年まで教壇に立ち続けることになるのだが、当事者である境野学長は紛擾事件の原因として次のように述べている。

「・・なほ最近の一例としては、文化学科が中心となり、運動部の一部のものから要求して来た野球部新設を許さなかったといふことも、彼等怨恨の一因である。自分は野球運動は非常に規律的なもので、唯野次的気分で行ふべきものではないから、非常に訓練を要する者である。東洋大学にはまだグラウンドもないし、訓練の機会も、監督の方法も立って居ないのであるから、野球部と称して諸方に出かけ、学校の体面を汚す様なことがあってはならない、現にテニス部にすら、かかる例があったのであるから、未だ早いといふので許さなかったのであるが、この時既に学長排斥の声が出たといふことを聞いて居る。そうして文化学科以外の学生で、今度の騒動の中心となった学生は、運動部のものが最も多いのである」
(『東洋大学百年史』資料編上より)


どうやら野球部を認めなかったので文化学科の学生の恨みを買っていたのもこの騒動の遠因だったようだ。
『東洋大学百年史』によれば野球部が公認されるのは大正十三年とされているが、硬式野球部のHPなどでは大正十一年創部となっており、境野学長を殴打した勝承夫も後年
「…野球部があったよ。大正十二年位に。八人は集まったが九人集まらない。そこで僕がライトに入って専修大と試合をしたことがありますよ。大敗しましたがね」
(『校友会報100号』所収の《座談会》母校90周年記念“わが母校を語る”より)

と語っている…。(確かに境野が“学校の体面を汚す”と心配した気持も分からないでもない)




和辻哲郎は明治二十二年、兵庫県神埼郡の仁豊野(にぶの。現在は姫路市)に生まれた。六つ上の兄が旧制姫路中学で野球をやっており、二、三年生の頃は“仲間と一緒にベースボールをやるといって出て行ったまま、夜遅くなっても帰って来なくて家中大騒ぎした記憶”(談話『源泉を探る』より)があるそうだ。
その後、和辻自身も姫路中学に入学するが
私の一年生の時にはまだ野球のチームがあって、どこかとマッチをやるというので、白鷺城の南の練兵場へ見に行った覚えがある。投手は兄と同級の五年生で、後に軍医となった小金井という人であった。なかなか度胸のありそうないい投手に見えた。ところがこの五年級の卒業したあとで、野球は禁止ということになった。中学の運動場が狭くて、野球ができなかったことも、一つの理由であったかも知れない。が、おもな理由は永井校長が野球を好まなかったということにあるであろう。
(『自叙伝の試み』和辻哲郎全集18巻より)

新しく赴任してきたこの永井という校長は、野球の代わりにサッカーを奨励したが、あまり受け入れられず、そのうちに生徒たちの間では器械体操がはやりだしたそうだ。和辻自身も逆立ちの練習などしたようだが、ある時土手で逆立ちをしていて着地の際に足を骨折してしまい、それがきっかけでスポーツは断念したのだという。
それでも、『自叙伝の試み』によれば、上京して旧制一高に入学後も、寮生活を送りながら寮制の野球部員から“曲球の投げ方を教わった”りしたそうだ。
先に引用した校友会報100号の座談会でも勝承夫が

「…後年大哲学者になられた和辻先生は、野球が好きで、僕はしょっちゅうキャッチ・ボールをやったんですよ。講義が始まるぎりぎりまでやったもんですよ」

と語っている。


和辻哲郎の自伝である『自叙伝の試み』は当初『ある自叙伝の試み』のタイトルで『中央公論』の昭和32年一月号から連載されたが、昭和35年1月病気療養のため中絶。その年の暮れに亡くなったため「一高生活の思い出」までで途絶えてしまった。

永遠に書かれことなく終わってしまったこの先のページには、あるいは文化学科の草創期の野球部員との思い出や“若き天才詩人・勝承夫に曲球の投げ方を伝授した”ことなどが記されていたのかもしれない……。



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2010春のリーグ戦:東洋大対中央大二回戦

2010-05-05 22:48:00 | インポート
今日(5月5日)も好天に恵まれた神宮球場。祭日開催を指折り数えて待っていた東都ファンで、珍しく入場券売り場に行列が!(もっとも中に入ってみたら観客は昨日(8000人)の半分くらいか・・・。)

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四回表:東洋の攻撃
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山下光貴選手
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先の対国学院一回戦で初打席初安打を放った山下選手が、今日は初スタメンで第二打席でタイムリー。
鈴木大地選手が生還。
更に・・・。

瀧本聖也選手
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ショートのエラーで二者生還。3-0

五回表:佐藤貴穂選手
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戸田選手の安打で二塁からホームを突くも本塁憤死!


六回表:上原悠希選手
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死球…。

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結局次の回の守備から上原選手に代わって杉村選手がセカンドに・・・。

杉村拓耶選手
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試合は9回裏、四試合連続完封目前の藤岡投手が先頭打者にヒットを浴び暴投で二進、更に死球で無死一・二塁のピンチ・・・。



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杉沼の送りバント成功で一死二・三塁!
次打者は村山。

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痛烈な三遊間の当たりを鈴木大地が横っ跳びでこれを好捕!(写真はとれず・・・)
素早く起き上がって一塁へ送球、三塁走者の生還を許すも一塁は間一髪アウト。
藤岡投手の無失点記録は途切れるも二死二塁。


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最後はショートフライで試合終了。



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東洋は10安打8四死球を得ながら得点は3。少々やきもきする試合ではありましたがこれで一勝一敗。
明日も勝ってV奪回に“王手”と行きたいものであります!

関連記事
2010春のリーグ戦:東洋大対中央大一回戦


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2010春のリーグ戦:東洋大対中央大一回戦

2010-05-05 01:00:00 | インポート
動画:試合前のノック



動画:スタメン・アナウンス



乾投手
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初回から力投するも…。

井上晴哉選手
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バックスクリーンへツーラン。残念ながらタイミングもドンピシャでした・・・シャッターも!


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坂井貴文選手
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チーム初安打。さらにソロホームランも放ち奮闘するも…。


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中大もさらにホームラン攻勢・・・・・・。




林崎遼選手
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この“ハーフスイング?”で一塁塁審は両手を横に広げてくれたけど・・・。

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次の球を空振りであえなく三振・・・。


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“金鵄”の代わりに鳩が来たけど…駄目でした~。



結局澤村の前に坂井のソロによる一点のみ。投手陣も打ち込まれ完敗でした…。

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中央大200 002 140  9 
東洋大000 001 000  1
(中)澤村・上松-鮫島
(東)乾・鹿沼・内山・土肥・藤田-佐藤貴
本塁打:井上・鮫島・遠藤(中) 坂井(東)
二塁打:坂井・佐藤貴(東)

まぁ~明日・明後日と連勝すればいいわけですから…。

Go!TOYO!
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番外編:東上線車窓から見える朝霞校舎

2010-05-03 17:20:00 | インポート
所用で東武東上線を利用、朝霞台で武蔵野線に乗り換えだったので、朝霞台到着前の車窓から見える朝霞校舎を撮影してみました。


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