*2019年11月18日:昭和11年5月3日のオリンピック陸上競技関東予選会マラソン・原茂清選手の結果を追加いたしました
近年では駅伝や野球等スポーツの分野でも名を知られるようになった東洋大学ですが、「東洋大学野球部の歴史-戦後編⑦昭和35年追記:グラウンドについて 」の稿でも書いたように、スポーツの強化に大学として取り組むようになるのは昭和30年代半ば頃からです。
昭和53年に野球部が二回目のリーグ優勝したころに発行された『校友会報』の座談会・「東洋大学スポーツの現況を語る」では、戦前の運動部の様子などについて、当時在学していたOBの方が次のように回想しておられました。
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昭和四年、東洋大・駒澤大・大正大 三大学リーグ戦
東洋大学野球部:戦前の試合記録
上に引用した座談会でも語られていますが、『東洋大学百年史』等によればいくつかの運動部は戦前に全国大会に出場した旨の記述されています。
そこで同書や新聞・運動年鑑等から拾い出した記録を簡単にまとめてました。
①庭球部
『百年史』によれば庭球部は明治39年の同窓会規則に運動部としてテニスが載っており、大正14年学友会の一部として独立した、とある。
(『運動年鑑』大正14年度より)
*筆者が昭和2年の朝日新聞を見たところ、6月に朝日新聞主催の第一回“全日本”大学専門学校軟式庭球大会が行われており、そこには東洋大の名前はなかった。翌年の同大会開催告知には「従来二派に分かれて居た日本軟球界は本年合同の運びとなり・・」とあるので、東洋大が優勝したのはもう一つの派(日本軟球会)が主催した大会のようだ。この昭和3年の大会の記事では、試合結果は出てないが、大会を盛り上げた新人として東洋大島田・長井の名が他校の何名かの選手と共に挙げられている。また、昭和4年11月の明治神宮大会では庭球の種目に“準硬式”があり、結果に
とある。この、“準硬式”庭球というのは調べてみたがよくわからない。いずれにせよ、軟式庭球では当時は高いレベルの選手が活躍しており、東洋大の運動部で“優勝”したのも軟式庭球が第一号のようだ。グラウンドのない時代にあっても庭球部は京北中学のコートを借りて練習していたとの事なので、その点では恵まれていたと言えよう。
②剣道部
剣道部は昭和8年頃は十条の健武館を借りていたが、旧講堂を改装して柔剣道場が作られ昭和9年5月に開場式が行われたとの事である。
③柔道部
④競技部(陸上競技)
競技部は昭和2年学友会の独立した部となった。
*鉄鎚投げ=ハンマー投げの事
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昭和10年にマラソンの世界最高記録を出した池中康雄さんの東洋大学在学年について
昭和15年の箱根五区区間賞、朴鉱采の「秋窓雑感」
*池中康雄さんについては陸上部応援サイト“輝け鉄紺”さんに詳しく紹介されています。
『日本学生陸上競技年鑑.』昭和4年版:東洋大学対専修大学の対抗戦記録
⑤スケート部(アイスホッケー)
現在のスケート部は昭和35年創部となっているが、『東洋大学百年史』には“スケート部は昭和四年宮崎孝悌(昭和五年卒)により再組織され誕生した”とあるが、運動年鑑によれば昭和三年の全国大会にスピード、昭和五年にはアイスホッケーでも出場している。
昭和 3年第三回全国学生氷上選手権
五百米:四着・宮崎(東洋大)
千五百米:四着・宮崎(東洋大)
各校得点:早大36点 明大25点 南満医大14点 法大12点 慶大6点 洋大2点
昭和 5年:第五回全日本学生氷上選手権(1/5~8:於長野県松原湖)
五百米:五着・宮崎(東洋大) 小柳(立大)
各校得点:早大51点 明大32点 立大3 1/2点 慶大3点 北大2点 洋大1 1/2点
昭和 6年第六回全国学生氷上選手権(1月)
○早稲田大(棄権)東洋大●
昭和 7年第七回全国学生氷上選手権(1月)
大会告知記事の出場校に名前はあるが、氷の状態が悪く中止となる。
FWの“宮崎”が再結成した宮崎孝悌さんと思われる。団体競技で全国大会に出場したのはアイスホッケーが最初かもしれない。
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⑥馬術部
⑩その他の運動部
籠球部
昭和 5年 都下中等学校籠球大会主催(10月:時事新報社後援)
卓球部
昭和 5年 創部(5月:発起人5名)
昭和 6年 全関東学生卓球連盟加入
水泳部
昭和 2年 創部(5月:山本英隆ら有志による)
山岳部
昭和 7年 再組織(昭和2、3年頃あったとみられる。成石義之ら発起人)
(学内誌『東洋学苑』第二十四号:昭和七年一月二十四日発行)
空手部
昭和 5年 創部
拳闘部
昭和 6年 創部(広井辰太郎部長)
射撃部
昭和 7年 創部
モーター倶楽部(自動車部)
昭和 8年 創部
相撲部
昭和15年創部
昭和16年第十二回明治神宮国民体育大会(11月:於明治神宮)
一回戦:3-2鳥取高農 二回戦:3-2金沢高工 三回戦:0-5関学大
おまけ:入学前に“日本一”になっていた人
坂口(豊山中)は坂口安吾の事。
予選通過者の北海中学・南部は昭和7年ロサンゼルスオリンピック三段跳びの金メダリスト南部忠平。南部は走り高跳びでは安吾に敗れているが、この他百米、走り幅跳び、ホスジャンプ(三段跳び)にも出場し、それぞれ11秒8、六米十九、十二米七八で三種目とも優勝している。
『運動年鑑』より
坂口安吾は豊山中学を卒業したあと一年間荏原尋常小学校の下北沢分教場で代用教員を務めたのち、“坊主”になりたくて大正十五年東洋大学に入学する。運動はやらず入学当初は一日四時間の睡眠で勉強に専念した。学友ともあまりつき合わなかったようだ。
*坂口安吾の作品は電子図書館青空文庫で読むことができます。
『世界新記録病』 :スポーツについてのエッセイ(上の引用元)
『勉強記』 :“涅槃大学校印度哲学科”を舞台にした短編
『二十一』 :在学していた二十一歳の頃の話
*平成二十年十一月に上記三作品と引用した『天才になりそこなった男の話』を収録した『風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇』が岩波文庫より発売されました。
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近年では駅伝や野球等スポーツの分野でも名を知られるようになった東洋大学ですが、「東洋大学野球部の歴史-戦後編⑦昭和35年追記:グラウンドについて 」の稿でも書いたように、スポーツの強化に大学として取り組むようになるのは昭和30年代半ば頃からです。
昭和53年に野球部が二回目のリーグ優勝したころに発行された『校友会報』の座談会・「東洋大学スポーツの現況を語る」では、戦前の運動部の様子などについて、当時在学していたOBの方が次のように回想しておられました。
司会:まずは、戦前のスポーツということで始めたいと思いますが、陸上部OBでもあり、監督の経験もある兼頼先生から口火を切っていただこうと思うのですが…。
兼頼:私は昭和5年に入学しまして陸上部に入りました。当時すでにインター・カレッジに参加していましたね。創立は古くて大正末年(大正13年創立)と聞いていますが、私が入った頃には、先輩がいまして、頭ごなしに“練習不足だ”と言って怒られましてね。
司会:なるほどね、当時も厳しかったんですね。で、部員はどれ位いたんでしょうか・
兼頼:60名前後であったろうと思いますね。成績はやっと二部の上位だったんですが、一部は教育大、早大、慶大など10校でしたね。全種目出場しないとなかなか一部に上がれないんですよ。その頃入学してきたのが池中君なんですが、彼は長距離しかやらないというんで“じゃ、箱根駅伝に出場しようじゃないか”というわけで、その頃勝承夫先生が報知新聞におられたのでお願いして、昭和8年1月7、8日に初参加できるようにしてもらったんですよ。そして勝先生には、池中君を自分の家へ寄宿させたりして色々と面倒を見てもらったんです。
結果は、その年同じ初参加の拓大がびりでその前がわが東洋大でしたね。長距離が専門じゃない選手も入っているんですから。でも池中君は5区の山登りで個人の記録としては2位だったと思います。その後彼はフルマラソンに出場し、2時間26分44秒の世界記録を出してオリンピックの候補選手になったんですよ。
司会:そのほかのスポーツの活躍は、どうだったんでしょうか。
伊賀上:そうですね。戦前で優勝したことのあるのは軟式庭球部でしょう。私たちの入学当時は柔道部、剣道部、野球部、庭球部といった部があったくらいでしょうか。野球は、東洋・大正・駒沢の3校でよくやってましたが“なんだ坊主ばかりじゃないか”なんていったもんですよ。
司会:あとは弓道部、空手部なんかも古いところでしょうか。
伊賀上:弓道部は名前はありましたがまだまだだったですね。あ、それから乗馬部もありましたね。
司会:部としてはだいたいそんなところだったんでしょうかね。しかしそれの施設面とか学生の応援なんかはどんな風にやっていたんでしょうか。
兼頼:今の講堂の所に柔道・剣道なんかの道場がありましたね。あと、だれでもができるバスケットのコートがありましたね。陸上部は西巣鴨にあった国立の蚕糸専門学校のグラウンドを借りてやっていましたね。野球部は新井薬師の方でやってたと記憶していますが…応援の方は、紋付、袴の出で立ちでやっていましたが剣道、柔道がやっぱり主体でしたね。陸上の方も“駅伝”の時には、トラックに乗って声援に来てくれたこともありましたが。当時は何といっても文化の単科大学ですから地味でしたよ。
伊賀上:今と比べたらとても考えられないですよね。スポーツもただ好きな者がやっているという形ですからね。
兼頼:まだ大学の中で組織的に位置づけて、云々というところまではいってなかったわけで、金銭的にも個々人の寄付だとか、働きかけが主体でしたからね。
司会:今はかなり全国レベルで活躍している部もありますが創設のころはやっぱりどこも苦労したわけですね。
(『校友会報』=昭和53年発行の部長・監督とOB座談会より)
発言者の兼頼は兼頼米太郎氏。昭和10年卒。箱根駅伝初参加時の一区走者。後陸上部監督も務める。
伊賀上は伊賀上茂氏。昭和6年卒。昭和30年から33年まで校友会事務局長。
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昭和四年、東洋大・駒澤大・大正大 三大学リーグ戦
東洋大学野球部:戦前の試合記録
上に引用した座談会でも語られていますが、『東洋大学百年史』等によればいくつかの運動部は戦前に全国大会に出場した旨の記述されています。
そこで同書や新聞・運動年鑑等から拾い出した記録を簡単にまとめてました。
①庭球部
『百年史』によれば庭球部は明治39年の同窓会規則に運動部としてテニスが載っており、大正14年学友会の一部として独立した、とある。
大正 9年 | 関西地方遠征(5月:約20名) |
大正13年 | 関東学生軟球連盟リーグ戦優勝(5月) |
(『運動年鑑』大正14年度より)
大正14年 | 都下大学専門学校軟式リーグ戦優勝 |
大正15年 | 埼玉県足利体育会主催軟式庭球大会出場(10月) |
大正15年 | 草加庭球倶楽部主催関東庭球大会出場 |
大正15年 | 大正大学招待大会出場(11月) |
大正15年 | 日本軟球会主催明治神宮奉賛軟式庭球大会出場 |
昭和 2年 | 市川庭球倶楽部主催関東庭球大会出場(5月) |
昭和 2年 | 伊勢崎市主催全関東軟球選手権、島田・長井組優勝(6月) |
同 年 | 全国大学専門学校軟式庭球大会、島田・西寺組優勝(10月) |
昭和 6年 | 関東学生軟球聯盟リーグ戦、優勝(10月) |
*筆者が昭和2年の朝日新聞を見たところ、6月に朝日新聞主催の第一回“全日本”大学専門学校軟式庭球大会が行われており、そこには東洋大の名前はなかった。翌年の同大会開催告知には「従来二派に分かれて居た日本軟球界は本年合同の運びとなり・・」とあるので、東洋大が優勝したのはもう一つの派(日本軟球会)が主催した大会のようだ。この昭和3年の大会の記事では、試合結果は出てないが、大会を盛り上げた新人として東洋大島田・長井の名が他校の何名かの選手と共に挙げられている。また、昭和4年11月の明治神宮大会では庭球の種目に“準硬式”があり、結果に
シングルス | ||
二回戦 | 豊永(東洋大)6-1 | 草木(佐原) |
準決勝 | 佐藤(広島) 6-3 | 豊永(東洋大) |
ダブルス | ||
決 勝 | 大森(七尾中)6-2 | 上村(東洋大) |
小川 | 豊永 |
とある。この、“準硬式”庭球というのは調べてみたがよくわからない。いずれにせよ、軟式庭球では当時は高いレベルの選手が活躍しており、東洋大の運動部で“優勝”したのも軟式庭球が第一号のようだ。グラウンドのない時代にあっても庭球部は京北中学のコートを借りて練習していたとの事なので、その点では恵まれていたと言えよう。
②剣道部
大正11年 | 第五回剣道大会主催(10月) |
*剣道部の主催で都下大学専門校21校・有信館・研武館が参加。 | |
大正15年 | 東京学生剣道連盟大会出場(5月:10名参加) |
昭和 2年 | 東京都学生剣道聯合会春季大会(5月:10名参加6勝2敗) |
昭和 2年 | 東北・北海道武者修行(6月11日~21日) |
*福島・秋田・仙台・弘前・青森・函館・五稜郭・札幌・水戸等の道場を転戦 | |
昭和 8年 | 全国大学専門学校大会出場(6月) |
*風間元蔵(昭和9年卒)が出場、参加72名総当たりの予選を勝ち抜いてベスト16。 決勝トーナメント一回戦:○浦田(明大)-風間● |
剣道部は昭和8年頃は十条の健武館を借りていたが、旧講堂を改装して柔剣道場が作られ昭和9年5月に開場式が行われたとの事である。
③柔道部
大正15年 | 国学院大学と対抗試合(6月) |
昭和 2年 | 東北・北海道遠征(9月20日~10月2日:10名) |
昭和 2年 | 柔道部秋季大会(10月) |
*各大学専門校・中等学校・町道場の選手を招待。毎年行われ7~80名参加。 | |
昭和 3年 | 都下学生柔道連盟満州遠征に主将・永沢淳治四段が参加。 |
昭和12年 | 第一回全国中等学校柔道大会を開催(11月:朝日新聞社後援) |
*東洋大学創立五十周年記念行事。翌年も第二回を開催。 | |
尚、朝日新聞には柔・剣道大会となっており参加78校、優勝は柔道・豊島師範、剣道・大田原中とある。 | |
昭和13年 | 東北・北陸武者修行(6月20日~26日) |
柔道・剣道部の一行9名で石川・福島・会津若松・新潟・長岡の中学校など。 |
④競技部(陸上競技)
競技部は昭和2年学友会の独立した部となった。
昭和 2年 | 全日本選手権大会に砲丸投げ・鹿野節が参加。(2月) |
*上記の項は『百年史』によるが新聞・年鑑等では未確認。 | |
昭和 3年 | 専修大学と対抗戦(6月於・一高:東洋39ー18専修) |
拓殖大学と対抗戦(10月於・芝公園:東洋17-39拓殖) | |
大正大学と対抗戦(11月於・一高:東洋36-27大正) | |
昭和 4年 | 第十一回関東学生対抗選手権第二部参加(9月:得点4点で二部十七位) |
走り幅跳び:玉橋六位(5米98) | |
走り高跳び:齋藤二位(1米65) | |
| |
京都高等蚕糸と対抗戦(6月於・高等蚕糸:東洋37 1/2ー16 1/2高等蚕糸) | |
大谷大学と対抗戦(6月於・高等蚕糸:東洋38 1/2ー18 1/2)大谷 | |
専修大学・拓殖大学と三大学対抗戦(10月:一位拓殖、二位専修、三位東洋) | |
昭和 5年 | 大谷大学・大正大学と三大学対抗戦(5月:一位大正40、二位東洋34、三位大谷22) |
第十二回関東学生対抗選手権第二部参加 | |
鉄槌投げ:五位植木隆治 | |
| |
専修大学・拓殖大学と三大学対抗戦(10月於・井草:一位拓殖89、二位専修77、三位東洋56) | |
昭和 6年 | 駒澤大学と対抗戦(6月於・府立園芸競技場:東洋24-33駒澤) |
専修大学・拓殖大学と三大学対抗戦(6月於・井草:一位専修94 1/2、二位拓殖75 1/2、三位東洋52) | |
第十三回関東学生対抗選手権第二部参加(9月) | |
二百米:六位藤波 | |
一万米:六位早川 | |
円盤投げ:六位植木 | |
昭和 7年 | 第十四回関東学生対抗選手権第二部参加(9月:得点17で二部八位) |
四百米:五位橋本 | |
一万米:三位池中康雄 五位宮尾 同六位早川 | |
鉄鎚投げ:一位植木隆治(29米10) | |
| |
関東学生マラソン(10月) | |
二位池中康雄(2時間42分6秒) 同七位早川 | |
| |
専修大学・拓殖大学と三大学対抗戦(専修が105点で優勝) | |
昭和 8年 | 第十四回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走初出場(1月:10位) |
| |
第十五回関東学生対抗選手権第二部参加(9月:得点14点で二部十位) | |
一万米:一位池中康雄(33分17秒6) 、同四位富屋直彦、 | |
千五百米:二位池中康雄(4分27秒2) | |
| |
第七回明治神宮大会兼第二十回全日本陸上競技選手権関東予選(10月) | |
マラソン:三位池中康雄(2:42:26) | |
関東学生フルマラソン(11月) | |
一位池中康雄(2時間33分44秒) | |
昭和 9年 | 第十五回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走(1月:13位) |
第七回日本学生陸上競技対抗選手権(6月:得点1点) | |
一万米:六位池中康雄 | |
第十六回関東学生対抗選手権第二部参加(9月:得点18点で二部七位) | |
二部千五百米:一位池中康雄(一周多く回って千九百米の為全員記録無し) | |
一万米:一位池中康雄(34分0秒6) 同五位原茂晴 | |
八百米:三位池中康雄 | |
| |
関東学生フルマラソン(11月) | |
一位池中康雄(2時間34分30秒) | |
昭和10年 | 第十六回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走(1月:11位) |
全国マラソン連盟主催神宮コースマラソン(3月21日) | |
三位池中康雄(2時間39分25秒) | |
オリムピック候補挑戦競技会マラソン(4月3日) | |
一位池中康雄(2時間26分44秒:当時の世界最高記録) | |
第十七回関東学生対抗選手権第二部参加(9月:得点11点で二部九位) | |
一万米:一位池中康雄(33分37秒2) 五位原 | |
走り幅跳び:六位大蔵 | |
| |
関東学生マラソン(11月) | |
六位原 | |
昭和11年 | 第十七回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走(1月:11位) |
全国マラソン連盟主催神宮コースマラソン(3月29日) | |
一位池中康雄(2時間33分56秒) | |
オリンピック候補挑戦競技会20マイルマラソン(4月5日) | |
七位池中康雄(1時間57分10秒) | |
オリンピック陸上競技関東予選会マラソン(5月3日) | |
四位原茂清(2時間57分7秒) | |
オリムピックマラソン予選(5月21日) | |
池中康雄(途中棄権) | |
“・・池中選手又引返して直ぐ橋のたもとで落伍するの大番狂はせとなった・・”(朝日記事より) | |
第十八回関東学生対抗選手権第二部参加(5月) | |
一万米:三位原茂晴(39分19秒) | |
千五百米:四位池中康雄 | |
走り幅跳び:五位土屋法正 | |
昭和12年 | 第十八回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走(1月:11位) |
第十九回関東学生対抗選手権第二部参加(6月:得点3点で二部十五位) | |
一万米:四位原茂晴 | |
昭和13年 | 第十九回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走(1月:7位) |
第二十回関東学生対抗選手権第三部参加(6月:この大会から三部制、得点15点三部五位) | |
一万米:一位朴鉱采(40分10秒) | |
| |
第二回全国中学校マラソン大会を開催(11月:競技部主催、報知新聞社後援) | |
*京北中前出発、板橋第一小折り返し7マイル。早稲田実業選手が優勝。 | |
前年に創立五十周年行事として第一回が行われたと思われる。翌年も開催されている。 | |
昭和14年 | 第二十回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走(1月:8位) |
第二十一回関東学生対抗選手権第三部参加(6月:得点47点で三部三位) | |
八百米:一位高岡幸男(2分9秒7) | |
千五百米:一位高岡幸男(4分29秒2) | |
一万米:一位池中康雄(36分46秒) | |
昭和15年 | 第二十一回東京箱根往復大学専門学校駅伝競走(1月:5位) |
第二十二回関東学生対抗選手権第三部参加(5月:得点82点で三部優勝、二部へ昇格) | |
四百米:六位長井猛雄 | |
八百米:二位高岡幸雄(2分6秒1)・三位渥美良教・四位高瀬登 | |
千五百米:一位金光益俊(4分29秒4)三位渥美良教・四位池中康雄・五位高岡幸雄 | |
一万米:一位金光益俊(36分34秒)二位池中康雄(37分32秒)六位赤城義夫 | |
4×四百リレー:二位(3分46秒2) | |
走幅跳び:三位長井猛雄(6米6) | |
円盤投げ:三位森寿一(28米10) | |
やり投げ:二位森寿一(42米09) | |
砲丸投げ:一位森寿一(10米64)四位岩本栄一(9米29) | |
鉄鎚投げ:一位金享道(39米60)三位岩本栄一(24米15)五位森寿一(17米65) | |
昭和16年 | 第一回東京青梅間大学専門学校鍛錬継走大会(1月:6位) |
第二十三回関東学生対抗選手権第二部参加(5月:得点36点で二部四位) | |
八百米:六位高瀬登 | |
千五百米:一位金光益俊(4分21秒0) | |
一万米:一位金光益俊(34分29秒)五位渥美良教 | |
4×百米リレー:五位 | |
4×四百米リレー:四位 | |
円盤投げ:五位森寿一(29米86) | |
砲丸投げ:一位森寿一(11米)五位岩本栄一(9米75) | |
鉄鎚投げ:二位金享道(33米96)六位森寿一(25米18) | |
第二回東京青梅間大学専門学校鍛錬継走大会(11月:8位=戦争激化のため繰り上げ開催) | |
昭和17年 | 第二十四回関東学生対抗選手権第二部参加(5月:得点60点で二部四位) |
八百米:一位佐々木利一(2分5秒2) | |
千五百米:一位塚脇秋盛(4分20秒2) | |
一万米:塚脇秋盛(34分36秒0) | |
鉄槌投げ:一位金宮享道(33米36) |
関連記事
昭和10年にマラソンの世界最高記録を出した池中康雄さんの東洋大学在学年について
昭和15年の箱根五区区間賞、朴鉱采の「秋窓雑感」
*池中康雄さんについては陸上部応援サイト“輝け鉄紺”さんに詳しく紹介されています。
『日本学生陸上競技年鑑.』昭和4年版:東洋大学対専修大学の対抗戦記録
⑤スケート部(アイスホッケー)
現在のスケート部は昭和35年創部となっているが、『東洋大学百年史』には“スケート部は昭和四年宮崎孝悌(昭和五年卒)により再組織され誕生した”とあるが、運動年鑑によれば昭和三年の全国大会にスピード、昭和五年にはアイスホッケーでも出場している。
昭和 3年第三回全国学生氷上選手権
五百米:四着・宮崎(東洋大)
千五百米:四着・宮崎(東洋大)
各校得点:早大36点 明大25点 南満医大14点 法大12点 慶大6点 洋大2点
昭和 5年:第五回全日本学生氷上選手権(1/5~8:於長野県松原湖)
五百米:五着・宮崎(東洋大) 小柳(立大)
一回戦 | 10:40開始 | レフェリー:飯田・原 |
東北大 | 26― 0 | 東洋大 |
---|---|---|
(1P)10-0 | ||
(2P) 6-0 | ||
(3P)10-0 | ||
石川 | FW | 宮崎 |
上中 | 内山 | |
原田 | 万年山 | |
(山下) | ||
相澤 | DF | 井川 |
鹽谷 | (小笠原) | |
時村 | ||
綿貫 | GK | 齋藤 |
各校得点:早大51点 明大32点 立大3 1/2点 慶大3点 北大2点 洋大1 1/2点
昭和 6年第六回全国学生氷上選手権(1月)
○早稲田大(棄権)東洋大●
昭和 7年第七回全国学生氷上選手権(1月)
大会告知記事の出場校に名前はあるが、氷の状態が悪く中止となる。
FWの“宮崎”が再結成した宮崎孝悌さんと思われる。団体競技で全国大会に出場したのはアイスホッケーが最初かもしれない。
関連記事
孤軍奮闘?宮崎孝悌氏=昭和初期の全日本学生氷上選手権
⑥馬術部
大正15年 | 第三五回関東学生聯盟馬術優勝競技大会(9月:3名出場) |
昭和 4年 | 第五回全国乗馬大会(3月:リレー第一回A班青木正一、河野通一が出場) |
同 年 | 関東学生乗馬聯盟主催秋季大会参加(9月) |
昭和 6年 | 全国馬術大会参加(7月) |
同 年 | 関東医歯薬聯盟主催馬術大会参加(11月) |
⑩その他の運動部
籠球部
昭和 5年 都下中等学校籠球大会主催(10月:時事新報社後援)
卓球部
昭和 5年 創部(5月:発起人5名)
昭和 6年 全関東学生卓球連盟加入
水泳部
昭和 2年 創部(5月:山本英隆ら有志による)
山岳部
昭和 7年 再組織(昭和2、3年頃あったとみられる。成石義之ら発起人)
(学内誌『東洋学苑』第二十四号:昭和七年一月二十四日発行)
空手部
昭和 5年 創部
拳闘部
昭和 6年 創部(広井辰太郎部長)
射撃部
昭和 7年 創部
モーター倶楽部(自動車部)
昭和 8年 創部
相撲部
昭和15年創部
相撲部堂々晴れの神宮大會出場へ
本學相撲部は現主将金川弘雄君が創設以来、四元武道部長の熱誠溢るる御監督の下に殆ど毎日の如く練習を續け神宮大會、関東大会に出場する事各々二回、昨年は大阪の全國大會に迄出場し本學のために大いに奮闘して來たが、去る九月二十二日兩國出羽の海部屋で行われた、神宮豫選に金川、乾山、呉、高根、寺前の五名が本學を代表して勇躍出場。
第一回戦には横濱専門を先鋒、呉君の上手投げ極まって先制し中堅高根君の吊り出し、副将乾山君の叩き込み、大将金川君の寄り切りで四ー一で屠り、第二回戦には日本體操を先鋒呉君の得意の上手投げで勝ち、二陣寺前君内掛けで勝ち、中堅高根君の打棄り、大将金川君の特技寄り切りで亦も四ー一で二戦二勝。
第三回戦東京醫専との対戦には中堅高根君が一點入れたのみにて一―四で惜敗、総得點九點を以て優秀四校の中に入り、中央大、立大、本校、東醫の四校でトーナメントを行った結果、東京醫専を逆に三ーにで破り堂々三位に入賞し晴れの神宮大會に全日本大學専門優秀二十校の中に出場する光栄を獲得した。去る九日午後五時よりの大會抽籤には金川主将参加し來る十一月三日明治神宮外苑相撲場で行われる大會には、第一回戦に鳥取高農、第二回戦に金澤高工、第三回戦に關學大と戦ふ事になった。大會出場選士は金川弘雄、乾山東成、高根明、寺前稔、呉峰雄の五君である。
(『東洋大學護国會會報』第三号=昭和16年10月31日発行より)
昭和16年第十二回明治神宮国民体育大会(11月:於明治神宮)
一回戦:3-2鳥取高農 二回戦:3-2金沢高工 三回戦:0-5関学大
相撲部善戦の跡
○第十二回明治神宮國民體育大會
十一月三日、於神宮外苑
晴れの神宮出場に健闘宜しく、左の如き二勝一敗の好成績で全國第十一位となる。
一回戦
本學 三ー二鳥取高農
二回戦
本學 三ー二金澤高工
三回戦
本學 零ー五關學大
○第二回佛教三大學リーグ戦
十一月二日、於大正大
一位 駒大 全勝 十三點
二位 本學 一勝一敗 九點
三位 大正 零勝二敗 五點
○第廿三回大毎東日主催全國學生相撲關東地区大會
十一月廿三日 於外苑
明大、駒大に實力の差如何ともし難く惜敗、対横濱専門には乾山、寺前、金川の三君に依り三點獲得。本年度対横濱戦は二戦二勝である。
(『東洋大學護国會會報』第四号=昭和16年12月30日発行より)
おまけ:入学前に“日本一”になっていた人
『朝日新聞』大正13年9月21、22日の記事より
全国中学選手権競技大会
第一日予選戦 予選をパスした者
走高跳 南部(北海中学)以下十一名
第二日
走高跳 坂口(豊山中)、中村(附中)、安楽(二中)、内藤(木更津)一米五七(以上一等)
坂口(豊山中)は坂口安吾の事。
私も大昔インターミドルで走高跳に優勝らしきことをやったことがあった。この日は大雨で、トラックもフィールドもドロンコである。当時は外苑競技場が未完成で、日本の主要な競技会は駒場農大の二百八十米コースの柔くてデコボコだらけのところでやる。排水に意を用いたところなどミジンもないから、雨がふると、ひどい。走高跳の決勝に六人残って、これから跳びはじめるという時に、大雨がふってきた。六人のうち五人は左足でふみきる。拙者一人、右足でふみきる。助走路は五対一にドロンコとなり、五人は水タマリの中でふみきるが、私はそうでないところでふみきるから、楽々と勝った。実際はその柄ではない。
(『世界新記録病』より)
予選通過者の北海中学・南部は昭和7年ロサンゼルスオリンピック三段跳びの金メダリスト南部忠平。南部は走り高跳びでは安吾に敗れているが、この他百米、走り幅跳び、ホスジャンプ(三段跳び)にも出場し、それぞれ11秒8、六米十九、十二米七八で三種目とも優勝している。
『運動年鑑』より
坂口安吾は豊山中学を卒業したあと一年間荏原尋常小学校の下北沢分教場で代用教員を務めたのち、“坊主”になりたくて大正十五年東洋大学に入学する。運動はやらず入学当初は一日四時間の睡眠で勉強に専念した。学友ともあまりつき合わなかったようだ。
東洋大学の学生だったころ、丁度学年試験の最中であったが、校門の前で電車から降りたところを自動車にはねとばされたことがあった。相当に運動神経が発達してゐるから、二三間空中に舞ひあがり途中一回転のもんどりを打って落下したが、それでも左頭部をコンクリートへ叩きつけた。頭蓋骨に亀裂がはいって爾来二ヶ年水薬を飲みつゝ゛けたが、当座は廃人になるんぢゃ無いかと悩みつゝ゛けて憂鬱であった。
(『天才になりそこなった男の話』より)
*坂口安吾の作品は電子図書館青空文庫で読むことができます。
『世界新記録病』 :スポーツについてのエッセイ(上の引用元)
『勉強記』 :“涅槃大学校印度哲学科”を舞台にした短編
『二十一』 :在学していた二十一歳の頃の話
*平成二十年十一月に上記三作品と引用した『天才になりそこなった男の話』を収録した『風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇』が岩波文庫より発売されました。
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