東洋大学野球部が創部した頃の活動はどのようなものであったのか。
大正十三年十月朝日新聞には専大や国学院等のの試合結果が見受けられる。これは都下専門校新リーグ戦の名で行われ、参加校は国学院・商科大(現一橋大)・専修大・東農大・東洋協会大(現拓殖大)・宗教大(現大正大)の六校で、未だ東洋大の名は見られない。
翌、大正十四年五月になると“新大学リーグ戦”の試合結果が散見されるようになる。大正十四年五月五日の朝日新聞には次のような記事があった。
以降の試合結果を拾ってみると
全試合が必ず報じられているわけではなく、又、“今日の運動”と言う欄が小さいながらもあって六月十日には国学日大戦が載っているが、その結果記事は見つけられなかった。
このリーグ戦の最終結果なども不明である。
東洋大の名が初めて出てきた五月十三日の記事には前記日大専修戦のような試合経過も掲載されていたので、それをもとにイニングスコアを作成してみた。
時間的な制約もあり必ずしも丁寧に探したとは言えないないので、他にも結果が見つかる可能性は十分ある。あくまで筆者が探してみた限りにおいては、上記大正十四年五月十三日の対日大戦が新聞記事に見られる東洋大学野球部の最も古い試合結果である。
(タイトルに大正14年春としたのは、現在の呼び方に合わせたもので、当時の記事中ではこの様に書かれていた訳ではない。)
大正十三年十月朝日新聞には専大や国学院等のの試合結果が見受けられる。これは都下専門校新リーグ戦の名で行われ、参加校は国学院・商科大(現一橋大)・専修大・東農大・東洋協会大(現拓殖大)・宗教大(現大正大)の六校で、未だ東洋大の名は見られない。
翌、大正十四年五月になると“新大学リーグ戦”の試合結果が散見されるようになる。大正十四年五月五日の朝日新聞には次のような記事があった。
日大対専修野球リーグ戦は五日午後三時十分から目白海上ビル球場で審判西村(球)鈴木(塁)両氏、日大先攻して日大一回に一点を得たが、専修一回二点二回四点を占めて三回日大攻撃に入った時紛擾起こり日大棄権退場したため専修九対零で勝つ。
以降の試合結果を拾ってみると
5月12日 国学院16-6専修大 於・氷川
5月13日 日本大 7-4東洋大 於・代々幡
5月23日 日本大12-4東洋大 於・尾久
5月27日 国学院17A-9日大大 於・尾久
6月10日 日本大34-4宗教大 於・尾久
全試合が必ず報じられているわけではなく、又、“今日の運動”と言う欄が小さいながらもあって六月十日には国学日大戦が載っているが、その結果記事は見つけられなかった。
このリーグ戦の最終結果なども不明である。
東洋大の名が初めて出てきた五月十三日の記事には前記日大専修戦のような試合経過も掲載されていたので、それをもとにイニングスコアを作成してみた。
日本大 103 000 030 7 開始 4:20
東洋大 011 000 200 4 審判 岩山・中村
時間的な制約もあり必ずしも丁寧に探したとは言えないないので、他にも結果が見つかる可能性は十分ある。あくまで筆者が探してみた限りにおいては、上記大正十四年五月十三日の対日大戦が新聞記事に見られる東洋大学野球部の最も古い試合結果である。
(タイトルに大正14年春としたのは、現在の呼び方に合わせたもので、当時の記事中ではこの様に書かれていた訳ではない。)
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