猫面冠者Ⅱ

主に東洋大学を中心に野球・駅伝などの記録・歴史・エピソードなどなど…。

東洋大学野球部の歴史-戦前④大正14年春

2008-01-27 10:17:00 | インポート
東洋大学野球部が創部した頃の活動はどのようなものであったのか。
大正十三年十月朝日新聞には専大や国学院等のの試合結果が見受けられる。これは都下専門校新リーグ戦の名で行われ、参加校は国学院・商科大(現一橋大)・専修大・東農大・東洋協会大(現拓殖大)・宗教大(現大正大)の六校で、未だ東洋大の名は見られない。
翌、大正十四年五月になると“新大学リーグ戦”の試合結果が散見されるようになる。大正十四年五月五日の朝日新聞には次のような記事があった。

日大対専修野球リーグ戦は五日午後三時十分から目白海上ビル球場で審判西村(球)鈴木(塁)両氏、日大先攻して日大一回に一点を得たが、専修一回二点二回四点を占めて三回日大攻撃に入った時紛擾起こり日大棄権退場したため専修九対零で勝つ。


以降の試合結果を拾ってみると

5月12日国学院16-6専修大於・氷川
5月13日日本大 7-4東洋大於・代々幡
5月23日日本大12-4東洋大於・尾久
5月27日国学院17A-9日大大於・尾久
6月10日日本大34-4宗教大於・尾久

全試合が必ず報じられているわけではなく、又、“今日の運動”と言う欄が小さいながらもあって六月十日には国学日大戦が載っているが、その結果記事は見つけられなかった。
このリーグ戦の最終結果なども不明である。

東洋大の名が初めて出てきた五月十三日の記事には前記日大専修戦のような試合経過も掲載されていたので、それをもとにイニングスコアを作成してみた。

日本大103 000 030  7 開始 4:20
東洋大011 000 200  4 審判 岩山・中村

時間的な制約もあり必ずしも丁寧に探したとは言えないないので、他にも結果が見つかる可能性は十分ある。あくまで筆者が探してみた限りにおいては、上記大正十四年五月十三日の対日大戦が新聞記事に見られる東洋大学野球部の最も古い試合結果である。

(タイトルに大正14年としたのは、現在の呼び方に合わせたもので、当時の記事中ではこの様に書かれていた訳ではない。)



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東洋大学野球部の歴史-人物①野本喜一郎さんⅡ

2008-01-27 00:55:00 | インポート
野本喜一郎さんの選手しての経歴はどの様なものであったのか。
前項で引いた『甲子園高校野球人物事典』の「不動岡中では3年生の’37から投手として活躍」とあるので当時の新聞を当たってみた。(旧制中学は五年生である)
いずれも甲子園南関東予選埼玉予選の結果である。
結果のみでメンバーなどはわからない。


昭和12年(’37)一回戦不動岡中3-0埼玉商業
二回戦川越商業4-2不動岡中
昭和13年(’38)二回戦不動岡中8-7豊岡実業
準決勝川越商業3-1不動岡中
昭和14年(’39)二回戦大宮農商4-0不動岡中

次の台北高商は三年制であるが昭和十一年に一年制の貿易専修科も設けられている。野本さんがどちらに進学したのかはわからないが、三年間の記事を探してみた。
当時は、朝日新聞社の主催で実業専門野球大会が開催されていた。

昭和16年(’40)実業専門野球九州大会西南学院7-2台北高商

この記事には両校のバッテリーは記載されているが、野本さんの名前はない。
翌、昭和十七年にも台北高商は九州大会に出場しているが、準決勝からの結果しか載っておらず、台北高商の名は無かった。

コロムビアに入るのは戦後のことだが、「都市対抗でならした川崎コロムビア再建」の記事が有るのは昭和二十二年十月二十九日付の読売新聞。それ以降の結果を拾ってみると

昭和23年(’48)12.17西鉄5-1川崎コロムビア
 (投(西)大崎(川)野本)
昭和24年(’49)5.5関東選抜都市対抗川崎コロムビア6-2明電舎
5.7川崎コロムビア6-5大昭和製紙
とあり、五月八日の決勝では

い す ず105 200 010 9大沢-山下
川崎コロムビア000 300 101 5秋田・野本-勝田
となっている。(対戦相手いすずの大沢はのちに東京農大の監督を務めた大沢君夫(大沢親分の兄)さんと思われる。)
当時都市対抗野球はすでに復活していたが、コロムビアの出場は無かった。

プロ入り後の成績は『プロ野球記録大全』から主な項目を挙げておく。

所属試合完投完封奪三振自責点防御率
S25(’50)西日本481119141841284.38
S26(’51)西 鉄20432128191.92
S27(’52)西 鉄29230019314.16
S28(’53)近 鉄25120019212.45
通 算12218271621501993.62

打者としては四年間で通算159打数19安打(2塁打1、3塁打1)打率.119である。
(西日本は昭和二十五年の二リーグ分裂で結成され一年で西鉄と合併したため、実質二球団の所属と言える)

現代と事情が違うとは言え、戦争でのブランクをはさんで二十八歳でのプロ入りは決して恵まれていたとは言えないであろう。“甲子園の名監督”の枕詞が必ずついて回る野本さんだが、プレイヤーとしての野本さんにも今少し光を当てても良いのではなかろうか。

尚、結成時の西日本には同じく後に甲子園と名監督と言われるようになった小嶋仁八郎さんがいた。一年で退団し別府緑ケ丘高監督に就任、さらに翌年津久見高の監督に移った小嶋さんは戦前①の項で紹介した巌義円さんの臼杵中学の後輩でもある。
(津久見高が昭和四十七年夏の甲子園で優勝した時の四番打者で主将の吉近寿一選手は専修大学に進んだ。大学生活最後の試合は昭和51年10月22日の対東洋大戦。東洋に3-2リードされた9回表の先頭打者として松沼雅之投手と相対したが内野ゴロに終わった。松沼は後続も打ち取り東洋の勝利。その瞬間東洋大のリーグ戦初優勝が決まった。)




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東洋大学野球部の歴史-人物①野本喜一郎さんⅠ

2008-01-25 00:42:00 | インポート
野本喜一郎さんの経歴を知りたくて書籍や新聞など幾つかあたってみた。

① プロ野球人名辞典2003年版(日外アソシエーツ)
 1922.5.8~1986.8.8 出身・埼玉県北埼玉郡/不動岡中(現・不動岡高)→台北高商→コロムビア 球団・’50西日本 ‘51-’52西鉄 ‘53近鉄 ポジション・投手 
経歴・引退後、東洋大に進学。卒業後上尾高校監督に就任し、22年間に6回甲子園に出場。’84年当時無名だった浦和学院高に転じ、鈴木健(西武)を育てて’86年に僅か3年目で甲子園出場を果たすが、試合の前々日死去した。 投手実績・実働4年18勝27敗、16完投、2完封、150奪三振、投球回494 2/3、防御率3.62

②  甲子園高校野球人名辞典(東京堂出版)
 上尾高校の名監督で、新興の浦和学院も強豪校に育てた。
 1922年5月5日埼玉県北埼玉郡(現・加須市)に生まれる。不動岡中学では3年生の’37年から投手として活躍。翌’38年には埼玉予選準決勝で川越商から14奪三振を奪いながら1-3で敗れている。
 卒業後は、台北高商を経て、戦後はコロムビアで投手としてプレーした。1950年のプロ球団・西日本の結成に参加(翌年近鉄に合併)。’53年近鉄に転じ、同年引退した。
 引退後東洋大監督を経て、57年上尾高に野球部が創部されると監督として招聘された。以後22年間監督をつとめ、この間に6回甲子園に出場、’75年にはベスト4まで進出するなど、同校を埼玉県を代表する強豪校に育てた。
 ‘84年、当時は全く無名の新興高校である浦和学院高に転じ、鈴木健(西武-ヤクルト)を育てて、’86年に僅か3年目で甲子園初出場を果たしたが、試合の前々日の8月8日に64歳で死去した。
 主な教え子に、上尾高時代の山崎裕之(東京-西武)、仁村徹(東洋大-中日)、福田治男(東洋大-桐生一高監督)、浦和学院高時代の谷口英功(東洋大-東芝)らがいる。
 また、不動岡中学の2年先輩でチームメイトでもあった野本敏は伯父(母の弟)にあたり、'62年秋季埼玉大会決勝戦では、喜一郎が監督の上尾高と、敏が監督の不動岡高が対戦して話題になった。

③  朝日新聞1986年8月10日朝刊(訃報)
 旧制不動岡中(埼玉)出身。ノンプロ野球を経て昭和二十五年(’50)から四年間、西鉄などプロ球団に投手として在籍。五十九(’84)年四月浦和学院高校監督に就任。今夏、初の甲子園出場を果たすチームに育てたが、七月初めから入院、地方大会期間中ベンチ入りできなかった。県代表に決まったあと今月一日、監督を和田部長(監督代行)に譲った。五十九(’84)年三月まで通算二十二年間、上尾高監督を務め、春、夏各三回甲子園へ導き、この間、東洋大監督も務めた。

④ 毎日新聞1986年8月10日朝刊(訃報、但し社会面二段組囲み記事)
 野本さんは三十三(’58)年四月、県立上尾高野球部監督に就任、五十九(’84)年四月に招かれて浦和学院高野球部監督となった。・・・中略・・・かつて西鉄ライオンズ(現西武ライオンズ)、近鉄パールズ(現近鉄バッファローズ)の投手であり、四十一年(’66)から四十五年(’70)まで、東洋大学野球部の監督も務めている野本さん。「少しでも浦和学院を強くし、野球界を去りたい」というのが最近の口ぐせだった。

⑤ 読売新聞1986年8月10日朝刊(訃報)
 野本さんは、三十三年(’58)から五十九年(’84)まで上尾高や東洋大学の監督を務め、上尾高を春夏計六回甲子園に出場させ、ベスト4に進めたこともあり、甲子園常連監督の一人として知られている。
五十九年(’84)四月、浦和学院高野球部監督に就任。“野本野球”で三年がかりで強力チームを育てあげ、今年春の県大会で初優勝。夏の大会直前に倒れ、病床から采配をふるった。

⑥ 朝日新聞1986年8月10日朝刊(スポーツ面“ 野本さんの死聞き大粒の涙”より)
 野本さんは三十四年(’59)に創立間もない上尾の野球部監督になった。途中、東洋大の監督に転出した六年間を除き、十九年間、県立上尾高の監督を続け、五十九年、創立七年目の浦和学院へ。

⑦ asahi.com2006年07月05日〈夢をつなぐボール1〉「無心に」野本イズム継承 より
   野本は、旧制不動岡中学を卒業。戦時中は徴兵され、中国に送られた。戦後、社会人を経て西日本パイレーツに入団。いくつかの球団を渡り歩いた後、退団。上尾で銭湯を開業した。
 58年、上尾高校ができると、上尾中学の生徒に野球を教えていた縁で60年に監督に就任、高校野球の指導に携わる。

⑧ ウィキペディア
   野本 喜一郎(のもと きいちろう 1922年5月8日 - 1986年8月8日)は、埼玉県加須市出身の元プロ野球選手で元アマチュア野球指導者。右投げ右打ち。
 埼玉県立不動岡高等学校卒業 - コロムビアを経て、1950年、西日本パイレーツ入団。1951年、西日本パイレーツと西鉄クリッパースが合併し、西鉄ライオンズになった。1953年に近鉄パールスへ。1953年現役引退。その後、東洋大学野球部、埼玉県立上尾高等学校野球部、浦和学院高等学校野球部で監督を務めた。1986年、浦和学院高等学校が甲子園初出場を決めたが、開会式当日に亡くなった。享年65(64歳没)。

どれも微妙に違うのだが、①②のプロ退団→東洋大→上尾高と③以下のプロ退団→上尾高→東洋大→上尾高の二グループに分かれている。この点だけははっきりさせて欲しいものだ。

関連エントリー:東洋大学野球部の歴史-人物①野本喜一郎さんⅡ



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東洋大学野球部の歴史-戦前③文化学科

2008-01-22 22:48:00 | インポート
東洋大学(哲学館)とゆかりのあるもう一つの旧制中学に京北中学がある。京北は哲学館が現行地に移転した二年後の明治32年に井上円了によって開設されており、昭和26年までは同一法人であった。『明治野球史』という本の付録、野球試合記録年表を見ると明治34年の12月5日に、“一高9-3京北中学”とある。また、都高野連の『白球譜-東京都高校野球のあゆみ』大正9年の第三回京浜中等学校野球大会一回戦で“慶応普通15-2京北中学”と書かれており、東洋大学よりも一足先に野球が行われていたことがうかがえる。

東洋大学野球部の創部は『神宮球場ガイドブック』などでは大正11年となっているが、『東洋大学百年史』には
「野球部は大正十三年に創部され(大正十三年同窓会規則)、大正十四年学友会として独立した。大正十二年に文化学科生が中心となり野球部の創部を、学長境野哲に要求したがグラウンドもなく、監督の方法も立っていないということで許されなかったという」
とあり、同誌『資料編Ⅰ下』には境野学長の
「・・なほ最近の一例としては、文化学科が中心となり、運動部の一部のものから要求して来た野球部新設を許さなかったといふことも、彼等怨恨の一因である。自分は野球運動は非常に規律的なもので、唯野次的気分で行ふべきものではないから、非常に訓練を要する者である。東洋大学にはまだグラウンドもないし、訓練の機会も、監督の方法も立って居ないのであるから、野球部と称して諸方に出かけ、学校の体面を汚す様なことがあってはならない、現にテニス部にすら、かかる例があったのであるから、未だ早いといふので許さなかったのであるが、この時既に学長排斥の声が出たといふことを聞いて居る。そうして文化学科以外の学生で、今度の騒動の中心となった学生は、運動部のものが最も多いのである」
との回想が書かれている。

文化学科は大正10年に社会事業科とともに開設された。これにより
「・・・東洋大学の入学希望者の層が、それまでとは異なり変化するにいたった。文化学科は卒業しても何の特典も与えられなかったが、詩人や文学をめざす若者にとって、創作に直接かかわる学科が設置されたことは、その教授陣と相まって、大きな魅力を与えることになった」(『東洋大学百年史』)
のである。野球部もそれまでとは違ったタイプの学生が中心となって創部したようだ。
ところで先の境野学長の回想にある「今度の騒動」というのは大正12年に起こった学長排斥運動による紛擾事件の事である。大正10年に文化学科に入学した詩人・岡本潤の自伝『詩人の運命』によれば
「学生たちに評判のよかった教授の和辻哲郎や出隆などが境野学長と意見が合わずに辞職したのがキッカケで、学長排斥運動が起り、なかでも血のけの多い学生たちが学長をカンズメにして辞表を書かせたとかいうことで、その急先鋒だった勝承夫や岡村一二などが刑務所入りをした」
とのことである。学生のみならず学内が学長派と排斥派に分かれて対立し、暫く混乱が続いたようだ。

大正12年といえば関東大震災が起きた年でもある。大学が内も外も大揺れしていた頃に東洋大学野球部は生まれたのであった。




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東洋大学野球部の歴史―戦前 ②郁文館

2008-01-19 10:32:00 | インポート
巌義円さんが在籍していたと思われる明治末の東洋大学はどの様な学風であったのだろうか。
運動に関しては「東洋大学百年史通史編」に「・・・常光浩然(大学幹事)の『運動部の起源』(東洋大学新聞第八号 大正十五年七月七日)によると、常光が入学した明治44年頃は運動部は全くなかったという。そこで常光浩然が主唱して大正元年に運動部を設立したと述べている。弓道部、撃剣部、庭球部を同時に創部し、運動部長に垣内松三を推した。」とあることから余りスポーツ活動は盛んではなかったようだ。
但し、同記事には「明治三十九年十二月十三日改正の同窓会規則では第四条六項に『本会ニ運動部ヲ置キ撃剣柔道テニス』の練習をする、となっている。先の常光浩然記憶が正しいとすれば、撃剣の練習はあったが部としては設立されていなかったといえよう。」との記述もある。今日で言う同好会サークルのようなものはあったのかもしれない。
また、運動のことには触れられてはいないが、読売新聞には下記の様な記事も見られ、当時の校風や学生の気質を推し量る上で興味深いものなので引用しておく。
「―此頃の消息(六)東洋大學―
▲僧七俗三 經費その他の點に於て獨立大學を設立し得ざる二三の佛教各派の如きは自宗の學徒をこの大學に依託就學せしめて居る。現在學生二百五十名中七分迄は僧家の子弟で殘る三分が俗人である。從って其の氣風も他の學生に見る如き華々しく生きた所もなく輕浮な風潮もない何れも質朴に過ぎる程落ち着いて居る様だ。三十五年例の哲學館事件のため時の文部大臣より中等教育免状を取上げられ四年前に漸く再許を得たがその後の第一回卒業生にして免状を下付されたのは唯だ一人きりで本年四月には約三十名ばかりある卒業生の中から半数の十五名丈けは文部省に推薦が出來るだらうとの事だが僧家の人が多い丈け就職難の聲も餘り高くはない。・・(中略)・・斯ふした風に各宗の出身者が集まってをるから各自々宗の信仰を維持し自然校内の氣脈も色々に分かれて居るだらうと思う人もあるかも知れぬが此學校の生徒のみは然うした宗争的観念を持って居ない寧ろ各宗融合して佛教統一を計らうなどと意氣込む位であるそうな。故野口寧斉佐々木信綱氏等の如く全く方面ちがいの人もあったが創立當時は世人全く哲學の意味を解せず、又哲學思想の餘り普及して居らざりしため好奇心にかられて相當な地位ある人も入學した。また三並良氏等の如き熱心なクリスチャンが佛教研究の目的を持って入學した事もあるとの事だが現にニコライ神學校の學生が一名入學して居る。兎に角一個の特色を有する學校に相違ない。」(讀賣新聞 明治四十四年二月四日)


明治44年という年は朝日新聞が8月から“野球害毒論”を展開する年でもあり、野球熱は中学生までに広がっていた時代である。そこで、東洋大学(哲学館)と関係の深い郁文館中学の野球について探ってみたい。
郁文館は明治22年に哲学館が湯島の麟祥院から本郷蓬莱町に新校舎を建て移転してきた際に同時に開設された学校である。東洋大学百年史には「郁文館は哲学館の校舎を午前中使用して、中等程度の教育をおこなうために設立されたものである。井上円了は明治二十一年六月海外視察に出発するにあたり、哲学館の諸事務を、館主代理として東京大学時代からの親友であり、哲学館の講師でもあった棚橋一郎に依頼した。井上円了は帰国後、その労をねぎらい感謝の意をあらわす為、棚橋一郎に哲学館教場を利用しての学校設立をすすめ、郁文館が設立されることになったのである。・・(中略)・・ところで明治二十二年哲学館に設けられた「英学科」は哲学館生で英語を学びたいものを郁文館の「英学専修科」において別途月謝を取り学ばせるものであった。また、郁文館設立時の講師陣は多く哲学館の講師たちであった。」とある。
この同居関係は明治二十九年に火災にあい、翌年哲学館が小石川原町(現在の白山キャンパス)に移るまで続くのであるが、郁文館での野球は明治二十七・八年ごろから始まり三十年から明治末頃まで最盛期を迎え、当時最強チームであった一高を二度も破っている。中でも明治三十四年に郁文館を卒業した押川清は草創期の早稲田の中心選手として活躍し、その後日本最初のプロ野球チーム「日本運動協会」の創立にもかかわり、野球殿堂入りを果たしている。もともと一高とは校地も近いので郁文館の生徒は見よう見まねで野球を始め、一高に練習を見てもらったこともあったようだ。

郁文館の校地は明治二十九年の火災の後、隣接していた有馬候の下屋敷跡に校舎を建てそれまでの校舎の場所を運動場にした、との事なので郁文館の野球が強くなっていくのは哲学館が移ったお陰とも言えるかもしれないが、同居時代の哲学館生には野球に興じる郁文館の生徒と接する機会はあったであろう。英学科の学生の中には野球部員と机を並べた者もいたかも知れぬ。明治時代の“哲学徒”たちの目にはたして野球はどの様に映っていたのだろうか。




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