猫面冠者Ⅱ

主に東洋大学を中心に野球・駅伝などの記録・歴史・エピソードなどなど…。

おしらせ:資料編の更新

2008-05-31 11:46:00 | インポート
資料編の中の下記のエントリーを更新しました。



対戦校別通算成績
シーズン別勝敗&投手成績シーズン別本塁打数
投手個人別通算勝敗
個人別通算本塁打数
年度別打撃十傑入り打者
年度別ベストナイン選出者

平成二十年春終了時点のデータに更新しました。


熊本の仇を神宮で:松永隆太選手=東洋大学野球部の歴史-エピソード即席版

2008-05-29 23:50:00 | インポート
昨日の東都大学野球、東洋大学対亜細亜大学戦。東洋が一勝すれば優勝、連敗すると逆に亜細亜が優勝という大一番は亜細亜大が7回にスクイズで先制、亜大の岩見投手(四年:熊本工出)に東洋打線は9回二死まで1安打に抑えられていたが、代打・都築(四年・浦和学院出)が四球を得ると、三番・松永隆太(四年・九州学院出)が起死回生の同点ツーベース。続く十九浦(四年・八千代松陰出)のツーランで勝負あり。さらに大野奨太(四年・岐阜総合学園出)のソロホームランでダメ押し。東洋大が東都大学野球リーグで昨年春からの三連覇を達成した・・・。



平成十五年秋季熊本県大会準決勝

10月11日
熊本工5-1九州学院
(熊本工は九州大会に進み準優勝、翌春の選抜大会出場を果たす。熊本工は選抜初戦で東北・ダルビッシュ投手にノーヒットノーランを喫するも好投した岩見投手も全国の注目を集める。)

平成十六年夏の甲子園熊本県予選準々決勝

7月21日
九州学院000 000 000  0
熊 本 工020 000 01X  3

(熊本工はそのまま勝ち進み甲子園出場を果たす。甲子園では二回戦で明徳義塾に敗れるが、大会後アジアAAA選手権の代表に選ばれている。)


・・・ここであったが百年目・・・。


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テーマ別インデックス「資料編」 :通算本塁打・投手勝敗・開幕カードスタメンなど
「記録」:個人記録についての話題
「戦前」:新聞記事で拾った戦前の記録
「動画」:神宮で生観戦した際の動画
「エピソード」
「人物」
 





同級のライバルは・・・:日野伸一(泰宏)投手=東洋大野球部の歴史―人物⑦

2008-05-22 18:14:00 | インポート
先回のエントリー、「一級下のライバルは・・・:北島広行投手」の中でも紹介した日野伸一(一時泰宏と改名)投手は高校三年時の春の選抜大会に出場した際、千葉商大付の平沼、早実の荒木とともに“埼玉の無失点男・日野”として注目を集めていた。

当時の展望記事によれば、
・・・(平沼に)次いで左の日野(上尾)。制球力があり、27試合で無四球試合11、与えた四死球は一試合平均1.07個。奪三振は一試合平均8.9個でトップの平沼に続いている。昨年九月以来、公式戦では70回連続無失点。甲子園では「100回連続無失点」に挑む。(『毎日新聞』昭和57年二月十四日付朝刊)


ほかにも -快碗“関東3羽カラス”- ・-ビッグ3甲子園”腕比べ”-といった見出しが目につく。
チーム自体の評価も高く、総合力で“西の箕島 東の上尾、早実”と評価されていたが、皮肉にも初戦でその箕島との対戦となってしまった。

昭和57年3月29日:春の選抜一回戦
箕島100 300 020  6
上尾000 002 000  2
(箕)上野山-住吉
(上)日野-並木

「世間は広かった」-上尾・日野、さわやかに出直し誓う-
○・・被安打8、うち長打5本で6失点。”今大会ナンバーワン”の日野にとっては不本意な内容だったに違いない。初回、いきなり杉山に初球をたたかれ二塁打、送りバントと磐田の左犠飛であっさり先取点を許し、70イニングも続けてきた無失点記録が途切れた。「杉山に打たれたのは直球。つまらせたのでうちとったと思ったのに・・・。だけど点を取られてホッとする気持ちもあった。これで自分のピッチングができると思ったんです」。点を取られて悔しくないはずはないのだが、周囲に騒がれる無失点記録の重みはかなりの圧迫だったのだろう。(『毎日新聞』昭和五十七年三月三十日付朝刊)

(箕島は次の二回戦で初出場の高知・明徳と対戦、延長十四回の末これを破ったが、明徳のエースは翌年東洋大へ進学する弘田洵投手だった。
続く準々決勝ではPL学園に0-1で敗れてしまったが、PLの捕手はやはり翌年東洋大へ進学した森浩之捕手だった。)

日野投手の上尾は夏の大会でも埼玉の最有力候補に挙げられていたが、三回戦で姿を消してしまった。

・・・埼玉の強豪・上尾は土壇場の九回裏、逆転サヨナラ3点本塁打を浴びて鴻巣に屈した。・・・

-頼りの日野はひじ痛-
埼玉の強豪・上尾が、伏兵鴻巣に敗れ、甲子園出場の夢を砕かれたが、エース日野はひじ痛のため、速球に伸びがなく、持ち前の制球力にも欠ける状態だった。
三回、二塁打などで1点を失い、昨年秋から県内で続けていた無失点記録も、百九回三分の一でストップしたわけで、試合後、野本監督は「ひじが痛くても日野に投げさせるしかなかった。こんな調子では、たとえ勝ち抜いたとしても、甲子園では通用しなかっただろう。日野に頼りすぎたようだ」と寂しげだった。(『朝日新聞』昭和五十七年七月二十四日付朝刊」




東洋大学に進学した日野投手は一年春のリーグ戦から早速マウンドを踏んでいる。初登板は昭和穂十八年四月十三日の対亜大二回戦でリリーフで1イニングのみの登板だったが、五月五日の対日大二回戦では早くも先発に起用されている。

昭和58年5月5日:対日大二回戦
日  大001 000 010  2
東洋大010 000 000  1
(日)石井-宇田川
(東)日野-高津
勝ち星は逃したものの2失点完投、ただし被安打10だった。この試合は仁村徹投手の連続登板を42でストップさせた試合でもある。
この年は勝ち星なしの三敗。翌昭和五十九年も春二勝二敗、秋は二試合のみの登板で勝ち負けなしであった。

このような状況で迎えたのが、「一級下のライバルは・・・:北島広行投手」でも触れた昭和六十年春の優勝であった。この時の優勝を伝える『東都大学野球連盟七十年史』には日野投手について次のように書かれている。
・・・不調のエース・北島に代わって投手陣の軸になった左腕の日野も一時は野手転向を言い渡されたが、そこから奮起して一人前になったのが大きかった。

秋のリーグ戦では二勝三敗、翌六十一年春のリーグ優勝、大学日本一も同じ左腕の保坂投手の陰に隠れてしまった。
やはり高校時代に痛めたヒジの影響があったのであろうか。

大学では不本意な成績に終わってしまった日野投手だが、冒頭でも述べたように高校時代の評判は非常に高く、当時は無名だったある左腕投手の進路にも影響を与えていたのである。

「・・・実は、本当は東洋大に行きたかったんです。でも、同期に日野という投手がいて、彼は高校(埼玉・上尾高)時代「関東ナンバーワン左腕」と呼ばれていたんです。同じ左だし、4年間、2番手投手になるのはイヤだった。違うチームで、彼を越えてやろう。そう思って亜大に進みました。日野投手は心のライバルでしたね。」
(『東都大学野球連盟七十年史』所収、「プロで活躍のOBが語る私の東都・現役時代」 阿波野秀幸選手の項より)



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関連エントリー:一級下のライバルは・・・:北島広行投手=東洋大野球部の歴史―人物⑥

テーマ別インデックス「資料編」 :通算本塁打・投手勝敗・開幕カードスタメンなど
「記録」:個人記録についての話題
「戦前」:新聞記事で拾った戦前の記録
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「エピソード」
「人物」
 





一級下のライバルは・・・:北島広行投手=東洋大野球部の歴史―人物⑥

2008-05-21 10:13:00 | インポート
在学中通算12勝を挙げた北島広行投手の出身校は豊南高校。野球ではあまり聞かない校名であるが、『プロ野球人名辞典』を見てみると豊南高校出身の選手が一人だけいる。日根鉱三という国鉄に昭和36~37の二年間だけ在籍し、一軍出場はなかった選手だが、同書によれば日根選手が二年の時に野球部を創部し、エースを務めたとのこと。またこの人は“歌手IZAMの父”なのだそうである。

この豊南高校が東東京大会の決勝戦まで進んだのが昭和五十六年夏。
決勝進出を決めた日の新聞には次のように紹介されている。

豊南 000 000  102  3
城西 100 000  100  2
(豊)北島―木内・小山
(城)長谷川・加藤―伊藤英
本塁打: 石井(豊)

―無名の座から快進撃― 「いまにみろ」合言葉に 豊南
無シード。ノーマーク。いくつかの有力校の陰に隠れていた豊南が三十三年の創部以来、初の決勝進出。あれよ、あれよと言う間の快進撃だ。
準決勝は強打の城西と対戦。六回までノーヒットに抑えられていたのに、初安打が本塁打という強運で勢いづいた。しかも土壇場の九回に逆転という手に汗握る好試合。勝利の一瞬、ナインはグラウンドでとび上がって喜んだ。都葛飾商、都城南、正則学園、シード校の明大明治、日体荏原を次々に負かし、この日も城西に競り勝った。その原動力は主戦北島広行投手(三年)の好投と、北島君をもりたてたチームワークの良さにあるようだ。
北島君は百八十五センチ、七十八キロ。長身から投げおろす速球に威力がある。試合を重ねるごとに調子をあげ、二十五日の日体荏原戦は八回降雨コールドながら5安打に完封した。・・・中略・・・昨年は悔しい思いをした。一回戦で本郷と対戦。北島君が15三振奪いながら延長十二回、日没寸前にサヨナラ負けした。秋の大会では北島君がヒジを痛め、これも一回戦で敗退。「いまにみていろ」。それを合言葉に練習を重ねてきた。(『朝日新聞』昭和五十六年七月二十七日付朝刊)

この試合、北島投手が8安打を打たれながら城西を二点に抑え、打線は4安打ながら記事のとおり九回に二点をあげ3-2で逆転勝ちをおさめている。


決勝の相手は早実。

昭和56年7月29日:於・神宮
豊南000 000 100  1
早実213 000 30X  9

(豊)北島―木内
(早)荒木・芳賀誠―松本・上原

早実のエースは二年生の荒木大輔である。早実の応援席は男子校なのに、三分の二が女子中・高生だったそうだ。
雰囲気に呑まれてしまったのか、北島投手は立ち上がり、二死を取りながら四球の後早実・小山選手に先制ホームランを許し、上記のとおりのスコアで甲子園を逃してしまった。決勝当日の朝日新聞の試合展望記事には「エンジンがかかるのが遅く、しり上がりに調子を上げるタイプ。」とあるが、まさにその通りの展開になってしまったようだ。
翌日の新聞には―ふりしぼった精神力―「健闘・・・悔いなし」豊南 北島の顔には充実感の見出しで豊南ナインを讃えているが、その記事の中に次のような一節があった。
北島と荒木。実は二人は、小学校時代、調布リトルの投手として競った仲である。エースは、明大中野の主戦投手となった津村潔。二番手が一つ年下の荒木。三番手が北島。力はあったが気の弱さが後れをとった原因だ。・・・中略・・・高橋靖彦監督は、何とか北島の細い神経を鍛えようとした。昨秋、本人がヒジ痛を訴えた時、一日も練習を休ませない。それどころか、痛む右腕で百球ずつ投げさせた。「痛い痛いと思い込んでるから痛むんだ」。こう言いきかせながら。北島もこれによくこたえた。その結果、準決勝までの六試合、打たれながらも要所を締め、切り抜ける度胸が付いてきた。」(『朝日新聞』昭和五十六年七月三十日付朝刊)


荒木大輔投手については周知のとおり。上記記事中の津村潔投手は昭和五十一年のリトルリーグ世界選手権、対西ドイツ戦で15奪三振の完全試合も達成したことのある選手で、明大中野高からドラフト外で日ハムに入団。三年間在籍したが一軍でマウンドを踏むことはできなかった。





北島投手が入学した昭和五十七年は二級上に、前年秋の9月17日・対国士大二回戦から連続登板を続ける大黒柱・仁村徹投手がおり、一年目はなかなか出番もなかったが、二年春に初勝利を挙げている。

昭和58年4月21日:対駒大二回戦
駒沢大000 000 010  1
東洋大100 200 01X  4
(駒)鍋島・河野・白井宏-吉村
(東)北島・仁村徹-森

・・・北島は百八十五センチの長身からの直球に角度があり威力十分。スライド気味だったため、駒大に詰まった当たりが多かった。八回に疲れが出ると、すかさず仁村徹が救援して逃げ切った。北島にも制球の甘い球が結構あったが、駒大は苦手の仁村徹が出てくる前に打ち崩そうとの気が強すぎて空回りした。
スポーツ一家の北島
ことしの大学球界は二年生に好投手が多いが、東洋大の北島も、この日の好投でその仲間入りをした。豊南高時代、五十六年の東東京大会決勝で早稲田実・荒木(ヤクルト)と投げ合ったこともある。長身を利かした剛球にほれ込んだ佐藤監督が、この一年間じっくり鍛えた成果がこの日の初勝利につながった。父は社会人野球のオール鷺宮の元一塁手。母はバスケットの興銀全盛時代の主力選手。東大四年の兄はバスケットボールのセンターで活躍中というスポーツ一家。この調子なら佐藤監督のノルマ「今年中に四勝」をはやばやと達成しそう。(『朝日新聞』昭和五十八年四月二十一日付朝刊)


この年はこの一勝のみに終わり“ノルマ達成”はならなかった。
翌五十九年は春・秋とも三勝をあげた。

そして、最終学年の昭和六十年春のリーグ戦。東洋大は開幕から六連勝を飾る。ただし脚光を浴びたのはここまで六勝中四勝を挙げた、一級下の日野投手である。その日野投手が打たれて初黒星を喫した翌日の駒大2回戦。

昭和60年5月16日:対駒大二回戦

東洋大011 001 000  3
駒沢大000 001 001  2
(東)北島-森
(駒)白井・新谷・佐藤正・新井・田村-高柳

東洋大V見えた
北島につきる  駒大を破り三回戦次第で優勝の可能性が出てきた東洋大。佐藤監督は試合が終わると真っ先にうがいをしてのどをうるおした。駒大に粘られて一点差の逃げ切り。ベンチで大声をあげ、のどがカラカラになったよう。「きょうは投手につきる。北島がよく投げた」と完投勝ちの北島をたたえた。その北島は「先発は球場へ来て言われた。後ろに日野がいるので飛ばした。負けると大変なんで気合が入った」とニッコリ。後輩の日野が好調で、やや影が薄れていたが、大事な一番でエースの面目を保った。(『朝日新聞』昭和六十年五月十七日付朝刊)


ところが、この後東洋は次の三回戦と最終カード亜大一回戦をいずれも北島投手の先発で落とし、再び土俵際に追い込まれてしまう。
負ければ優勝が消える亜大二回戦は日野-北島の継投でものにし、優勝をかけた最終戦。

昭和60年5月24日:対亜大三回戦
東洋大000 021 002  5
亜  大200 000 000  2
(東)北島・日野-森
(亜)阿波野・東山-倉田

北島投手が初回に2点を失ったものの七回まで踏ん張り、日野投手が抑えて最終戦を逆転勝ちで優勝。この試合を落とすと翌週の駒大-青学大戦で勝ち点をあげた方が優勝となるところだった。

当日の新聞見出しも東洋 すべり込み優勝-苦しみに耐え全員主役-”である。


画像




最優秀選手には6勝1敗の日野投手が選ばれた。北島投手は3勝2敗に終わったが、大事な一番での北島投手の踏ん張りがなければ、この優勝も叶わなかったに違いない。


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番外編=哲学館”とチベット追記:能海寛の見た“成都”

2008-05-15 21:39:00 | インポート
先日番外編としてエントリーした番外編=“哲学館”とチベットで紹介した能海寛は、今回の四川大地震で報道されている成都に明治三十二年四月十一日に到着し、ここで当初共に入蔵を目指した寺本婉雅と合流し二十四日まで滞在した。そして、当時の街の模様を次の様に書き残している。
成都の見聞
・・・成都は四川大省の首府丈ありて、城壁に上り一望するに、四十八清里の城内、家屋充満し、城壁高さ廿五丈、幅四丈、場外の街衢碁盤の如く、町幅廣く、一見京都に似たり。人口七八十萬内外と推察せられ、四方舟車便あり。市街に日本人力車五六百臺あり。遙かに東方四五十清里を距てて一體の山脈聯瓦し南西北の三方は大平野にして武藏野も遠く及ばず、名古屋城の平地にあるが如き光景なり。重慶と成都の沿道は悉く耕作せられ、人心溫厚にして風俗良し。唯政治の機関全く腐敗し、仕官は金錢の授受に由る。されば美田は五分の三四まで變じて阿片畠と化せり。爲に米は騰貴し、遊民多く、乞食亦頗る多し。(『能海寛遺稿』)五月書房)

更に仏教寺院や喇嘛(チベット仏教)寺院の様子、また、キリスト教会をイギリスが六ヶ所、アメリカが五か所、フランスが一か所に建てていることなども伝えている。
この成都滞在は一回目の入蔵を企てた時で、ここを経って更に西の巴塘まで行ったが、そこから先へ進む許可を得られず引き返しており、成都にももう一度立ち寄っている。


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関連エントリー:番外編=“哲学館”とチベット