在学中通算12勝を挙げた北島広行投手の出身校は豊南高校。野球ではあまり聞かない校名であるが、『プロ野球人名辞典』を見てみると豊南高校出身の選手が一人だけいる。日根鉱三という国鉄に昭和36~37の二年間だけ在籍し、一軍出場はなかった選手だが、同書によれば日根選手が二年の時に野球部を創部し、エースを務めたとのこと。またこの人は“歌手IZAMの父”なのだそうである。
この豊南高校が東東京大会の決勝戦まで進んだのが昭和五十六年夏。
決勝進出を決めた日の新聞には次のように紹介されている。
豊南 000 000 102 3
城西 100 000 100 2
(豊)北島―木内・小山
(城)長谷川・加藤―伊藤英
本塁打: 石井(豊)
―無名の座から快進撃― 「いまにみろ」合言葉に 豊南
無シード。ノーマーク。いくつかの有力校の陰に隠れていた豊南が三十三年の創部以来、初の決勝進出。あれよ、あれよと言う間の快進撃だ。
準決勝は強打の城西と対戦。六回までノーヒットに抑えられていたのに、初安打が本塁打という強運で勢いづいた。しかも土壇場の九回に逆転という手に汗握る好試合。勝利の一瞬、ナインはグラウンドでとび上がって喜んだ。都葛飾商、都城南、正則学園、シード校の明大明治、日体荏原を次々に負かし、この日も城西に競り勝った。その原動力は主戦北島広行投手(三年)の好投と、北島君をもりたてたチームワークの良さにあるようだ。
北島君は百八十五センチ、七十八キロ。長身から投げおろす速球に威力がある。試合を重ねるごとに調子をあげ、二十五日の日体荏原戦は八回降雨コールドながら5安打に完封した。・・・中略・・・昨年は悔しい思いをした。一回戦で本郷と対戦。北島君が15三振奪いながら延長十二回、日没寸前にサヨナラ負けした。秋の大会では北島君がヒジを痛め、これも一回戦で敗退。「いまにみていろ」。それを合言葉に練習を重ねてきた。(『朝日新聞』昭和五十六年七月二十七日付朝刊)
この試合、北島投手が8安打を打たれながら城西を二点に抑え、打線は4安打ながら記事のとおり九回に二点をあげ3-2で逆転勝ちをおさめている。
決勝の相手は早実。
昭和56年7月29日:於・神宮
豊南000 000 100 1
早実213 000 30X 9
(豊)
北島―木内
(早)
荒木・芳賀誠―松本・上原
早実のエースは二年生の荒木大輔である。早実の応援席は男子校なのに、三分の二が女子中・高生だったそうだ。
雰囲気に呑まれてしまったのか、北島投手は立ち上がり、二死を取りながら四球の後早実・小山選手に先制ホームランを許し、上記のとおりのスコアで甲子園を逃してしまった。決勝当日の朝日新聞の試合展望記事には「エンジンがかかるのが遅く、しり上がりに調子を上げるタイプ。」とあるが、まさにその通りの展開になってしまったようだ。
翌日の新聞には
―ふりしぼった精神力―「健闘・・・悔いなし」豊南 北島の顔には充実感の見出しで豊南ナインを讃えているが、その記事の中に次のような一節があった。
「北島と荒木。実は二人は、小学校時代、調布リトルの投手として競った仲である。エースは、明大中野の主戦投手となった津村潔。二番手が一つ年下の荒木。三番手が北島。力はあったが気の弱さが後れをとった原因だ。・・・中略・・・高橋靖彦監督は、何とか北島の細い神経を鍛えようとした。昨秋、本人がヒジ痛を訴えた時、一日も練習を休ませない。それどころか、痛む右腕で百球ずつ投げさせた。「痛い痛いと思い込んでるから痛むんだ」。こう言いきかせながら。北島もこれによくこたえた。その結果、準決勝までの六試合、打たれながらも要所を締め、切り抜ける度胸が付いてきた。」(『朝日新聞』昭和五十六年七月三十日付朝刊)
荒木大輔投手については周知のとおり。上記記事中の津村潔投手は昭和五十一年のリトルリーグ世界選手権、対西ドイツ戦で15奪三振の完全試合も達成したことのある選手で、明大中野高からドラフト外で日ハムに入団。三年間在籍したが一軍でマウンドを踏むことはできなかった。
北島投手が入学した昭和五十七年は二級上に、前年秋の9月17日・対国士大二回戦から連続登板を続ける大黒柱・仁村徹投手がおり、一年目はなかなか出番もなかったが、二年春に初勝利を挙げている。
昭和58年4月21日:対駒大二回戦
駒沢大000 000 010 1
東洋大100 200 01X 4
(駒)鍋島・河野・白井宏-吉村
(東)北島・仁村徹-森
・・・北島は百八十五センチの長身からの直球に角度があり威力十分。スライド気味だったため、駒大に詰まった当たりが多かった。八回に疲れが出ると、すかさず仁村徹が救援して逃げ切った。北島にも制球の甘い球が結構あったが、駒大は苦手の仁村徹が出てくる前に打ち崩そうとの気が強すぎて空回りした。
スポーツ一家の北島
ことしの大学球界は二年生に好投手が多いが、東洋大の北島も、この日の好投でその仲間入りをした。豊南高時代、五十六年の東東京大会決勝で早稲田実・荒木(ヤクルト)と投げ合ったこともある。長身を利かした剛球にほれ込んだ佐藤監督が、この一年間じっくり鍛えた成果がこの日の初勝利につながった。父は社会人野球のオール鷺宮の元一塁手。母はバスケットの興銀全盛時代の主力選手。東大四年の兄はバスケットボールのセンターで活躍中というスポーツ一家。この調子なら佐藤監督のノルマ「今年中に四勝」をはやばやと達成しそう。(『朝日新聞』昭和五十八年四月二十一日付朝刊)
この年はこの一勝のみに終わり“ノルマ達成”はならなかった。
翌五十九年は春・秋とも三勝をあげた。
そして、最終学年の昭和六十年春のリーグ戦。東洋大は開幕から六連勝を飾る。ただし脚光を浴びたのはここまで六勝中四勝を挙げた、一級下の日野投手である。その日野投手が打たれて初黒星を喫した翌日の駒大2回戦。
昭和60年5月16日:対駒大二回戦
東洋大011 001 000 3
駒沢大000 001 001 2
(東)北島-森
(駒)白井・新谷・佐藤正・新井・田村-高柳
東洋大V見えた
北島につきる 駒大を破り三回戦次第で優勝の可能性が出てきた東洋大。佐藤監督は試合が終わると真っ先にうがいをしてのどをうるおした。駒大に粘られて一点差の逃げ切り。ベンチで大声をあげ、のどがカラカラになったよう。「きょうは投手につきる。北島がよく投げた」と完投勝ちの北島をたたえた。その北島は「先発は球場へ来て言われた。後ろに日野がいるので飛ばした。負けると大変なんで気合が入った」とニッコリ。後輩の日野が好調で、やや影が薄れていたが、大事な一番でエースの面目を保った。(『朝日新聞』昭和六十年五月十七日付朝刊)
ところが、この後東洋は次の三回戦と最終カード亜大一回戦をいずれも北島投手の先発で落とし、再び土俵際に追い込まれてしまう。
負ければ優勝が消える亜大二回戦は日野-北島の継投でものにし、優勝をかけた最終戦。
昭和60年5月24日:対亜大三回戦
東洋大000 021 002 5
亜 大200 000 000 2
(東)北島・日野-森
(亜)阿波野・東山-倉田
北島投手が初回に2点を失ったものの七回まで踏ん張り、日野投手が抑えて最終戦を逆転勝ちで優勝。この試合を落とすと翌週の駒大-青学大戦で勝ち点をあげた方が優勝となるところだった。
当日の新聞見出しも
“東洋 すべり込み優勝-苦しみに耐え全員主役-”である。
最優秀選手には6勝1敗の日野投手が選ばれた。北島投手は3勝2敗に終わったが、大事な一番での北島投手の踏ん張りがなければ、この優勝も叶わなかったに違いない。
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