先日の朝日新聞に“アサヒ、カルピスを買収へ”という記事が載っておりました。
最近はカルピスというと紙パック入りのものやペットボトルの“カルピスウォーター”くらいしか見かけませんが、筆者がカルピスと聞いて思い出すのは、なんといっても水玉の紙にくるまれたビン入りの物であります。それも買うんじゃなくてお中元の頂物で…。
父親の代には届いていたお中元もドラ息子の筆者の盆・暮れにはクレジット会社の請求書くらいしか来ませんので、カルピスもその分売り上げが減ってしまったのでありましょうか…。
カルピスの創業者・三島海雲はもともとは浄土真宗のお坊さんでしたが、大陸に渡って事業を行っていたものの失敗。帰国して再起を期して考えたのがモンゴルの乳酸菌飲料を日本風にアレンジすることでした。
研究の末に完成したその飲み物の命名に際して相談した相手が渡辺海旭(わたなべかいきょく)という人で、この方は淨土宗のお坊さんですが当時東洋大の教壇にも立っていた人でありました。
海旭は“醍醐味”を意味するサンスクリット語“サルピルマンダ”や“熟穌”(乳が醍醐味に熟す前)のサンスクリット語“サルピス”と三島の考案した飲料にカルシウムが加えられているのでその音を掛けて“カルピス”と命名したのであります。
渡辺海旭は明治五年、浅草の田原町の普通の家に生まれましたが九歳の時に浅草の淨土宗寺院に出され、そこから学校へ通わせてもらいました。が、そのお寺の住職も海旭が十四歳のなった体を壊し、一旦は博文館という出版社の小僧となりますが馴染めず、住職の紹介で現在も“こんにゃく閻魔”として知られる小石川の源覚寺に入ります。ここで才能を見込まれた海旭は淨土宗、というより廃仏毀釈でガタガタになった日本佛教界の再興に尽くした福田行誡の法話を聞く機会を与えられると行誡も海旭の資質を見抜き、明治二十年に新しくできた淨土宗学東京支校(現在の芝中・高)に入学いたしました。二年後には支校から本校へと進み明治二十八年に全課程を終えると宗門の機関紙『淨土教報』の主筆をつとめながら、やがて宗派を超えた勉強会にも参加するようになりました。それがやがて明治三十二年に哲学館出身の境野黄洋(後東洋大の第四代学長)や高島米峯(同十二代学長)らの立ち上げた仏教清徒同志会(後に新仏教徒同志会)で、海旭もこれに参加しました。
翌、明治三十三年には宗門から海外留学を命ぜられドイツへ渡り、明治四十三年に帰国するまで十年間ストラスブルグ大学で比較宗教学や仏教学の研究に励み、“ドクトル・フィロソフィー”の学位を得、帰国後すぐに宗教大学(現大正大学)や東洋大学の教授となり、後には母校である芝中学校の校長も務めました。
また、深川に淨土宗労働共済会を設立するなど社会事業にも取り組みました…というか“社会事業”という言葉を考案したのもこの海旭だったのであります。
下の画像は昭和四年の『東洋大学一覧』に“ドクトル・オブ・フィロソフィー”渡辺海旭の名がみえます。
おなじく昭和四年の『東洋大学一覧』の学生一覧で大学部印度哲学倫理学科第四学年にその名があるのが新潟県出身の坂口炳吾、坂口安吾の本名であります。
〈東洋大学公開講演論文集〉『無限大な安吾』の中の「坂口安吾とインド哲学」に依れば渡辺海旭が昭和四年度に担当した講座は「欧米仏教」、安吾が四年次に履修した科目の中には「欧米の仏教哲学」があるとのことなので、おそらく坂口安吾も渡辺海旭の講義に耳を傾けていたことでありましょう…。
渡辺海旭とういう人は自己顕示とは無縁の人だったそうですが、このカルピスの名付け親であることはよく周りの人たちに話していたそうです。
果たして安吾も講義中に“カルピス命名”の経緯を聞かされたのでありましょうか…。
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最近はカルピスというと紙パック入りのものやペットボトルの“カルピスウォーター”くらいしか見かけませんが、筆者がカルピスと聞いて思い出すのは、なんといっても水玉の紙にくるまれたビン入りの物であります。それも買うんじゃなくてお中元の頂物で…。
父親の代には届いていたお中元もドラ息子の筆者の盆・暮れにはクレジット会社の請求書くらいしか来ませんので、カルピスもその分売り上げが減ってしまったのでありましょうか…。
カルピスの創業者・三島海雲はもともとは浄土真宗のお坊さんでしたが、大陸に渡って事業を行っていたものの失敗。帰国して再起を期して考えたのがモンゴルの乳酸菌飲料を日本風にアレンジすることでした。
研究の末に完成したその飲み物の命名に際して相談した相手が渡辺海旭(わたなべかいきょく)という人で、この方は淨土宗のお坊さんですが当時東洋大の教壇にも立っていた人でありました。
海旭は“醍醐味”を意味するサンスクリット語“サルピルマンダ”や“熟穌”(乳が醍醐味に熟す前)のサンスクリット語“サルピス”と三島の考案した飲料にカルシウムが加えられているのでその音を掛けて“カルピス”と命名したのであります。
渡辺海旭は明治五年、浅草の田原町の普通の家に生まれましたが九歳の時に浅草の淨土宗寺院に出され、そこから学校へ通わせてもらいました。が、そのお寺の住職も海旭が十四歳のなった体を壊し、一旦は博文館という出版社の小僧となりますが馴染めず、住職の紹介で現在も“こんにゃく閻魔”として知られる小石川の源覚寺に入ります。ここで才能を見込まれた海旭は淨土宗、というより廃仏毀釈でガタガタになった日本佛教界の再興に尽くした福田行誡の法話を聞く機会を与えられると行誡も海旭の資質を見抜き、明治二十年に新しくできた淨土宗学東京支校(現在の芝中・高)に入学いたしました。二年後には支校から本校へと進み明治二十八年に全課程を終えると宗門の機関紙『淨土教報』の主筆をつとめながら、やがて宗派を超えた勉強会にも参加するようになりました。それがやがて明治三十二年に哲学館出身の境野黄洋(後東洋大の第四代学長)や高島米峯(同十二代学長)らの立ち上げた仏教清徒同志会(後に新仏教徒同志会)で、海旭もこれに参加しました。
翌、明治三十三年には宗門から海外留学を命ぜられドイツへ渡り、明治四十三年に帰国するまで十年間ストラスブルグ大学で比較宗教学や仏教学の研究に励み、“ドクトル・フィロソフィー”の学位を得、帰国後すぐに宗教大学(現大正大学)や東洋大学の教授となり、後には母校である芝中学校の校長も務めました。
また、深川に淨土宗労働共済会を設立するなど社会事業にも取り組みました…というか“社会事業”という言葉を考案したのもこの海旭だったのであります。
下の画像は昭和四年の『東洋大学一覧』に“ドクトル・オブ・フィロソフィー”渡辺海旭の名がみえます。
おなじく昭和四年の『東洋大学一覧』の学生一覧で大学部印度哲学倫理学科第四学年にその名があるのが新潟県出身の坂口炳吾、坂口安吾の本名であります。
〈東洋大学公開講演論文集〉『無限大な安吾』の中の「坂口安吾とインド哲学」に依れば渡辺海旭が昭和四年度に担当した講座は「欧米仏教」、安吾が四年次に履修した科目の中には「欧米の仏教哲学」があるとのことなので、おそらく坂口安吾も渡辺海旭の講義に耳を傾けていたことでありましょう…。
渡辺海旭とういう人は自己顕示とは無縁の人だったそうですが、このカルピスの名付け親であることはよく周りの人たちに話していたそうです。
果たして安吾も講義中に“カルピス命名”の経緯を聞かされたのでありましょうか…。
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