東洋大学野球部の歴史-戦前⑩昭和六年の稿で『東洋大学百年史』の年表に“昭和四年十月九日 野球部、関西遠征出発(立命、大谷、龍谷等との対戦)”とある。百年史には遠征の試合内容などは書かれていなかったのだが、“山旅ひと筋”の野球部長:田部重治”の稿でも引用した『校友会報』116号(昭和五十五年ごろの発行)に掲載されている、「五十年前の野球部」という一文を寄稿した方が、この遠征にも参加されており文中でも触れているのでその部分をご紹介したい。
試合の結果についてはこの方もご記憶に無いようでわからなかったのだが、国会図書館が運営する近代デジタルアーカイブの中で『時事年鑑』昭和六年版の“運動競技=野球”の項にある“その他主要試合の一覧に“10月12日龍谷大学 六-二 東洋大 場所:大谷大学”とあるのを見つけ出すことができた。(立命館戦は見当たらず)
近代デジタルアーカイブ:『時事年鑑』
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1076256/261
なぜ、関西に遠征したのかは分からないが、翌年の五月には陸上部が大正大・大谷大と滝野川で“三大学対抗陸上競技大会”を開催しているので、仏教系大学ということで交流があったのかもしれない。
いずれにせよ、まだ“戦国東都”とは程遠い牧歌的な野球部の時代だったようだ…。
『交友会報』116号
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入学の年の秋、京都に遠征した。龍谷大と立命館の二校が相手校であった。われわれは東京駅を夜行列車出発した。幸いなことに東京公演を終えて帰阪する宝塚歌劇団の一行と同車することが出来た。あの袴姿の美女たちにとり囲まれた夜行列車の一夜は花火のような美しい思い出の一つであった。
龍谷大との試合はその校庭で、立命館との試合は、関西六大学の雄というわけで、京都唯一の球場である緑ヶ丘球場で華々しく一戦を交えることになった。京阪四条の駅前には墨痕鮮やかに「東都の雄 東洋大学対立命館大学」と大書した立看板が立てられていた。試合はどんな結果になったかはっきりして記憶はないが、相当なひらきで破れたことだけは覚えている。
その時の私は、試合の結果よりも、故郷へ帰ることができるということに期待を持っていたので、負けたことには何の痛痒も感じなかった。私は早速チームの人々と別れて関西線を利用して和歌山県に近い山と川のある故郷に帰り、二、三日して帰京した。
しかし、チームの一行は、伊勢参りなど関西の秋を楽しんだとかで私の後に帰ってきた。今と違って何とものんびりした合宿生活であり、遠征であったことかと思う。
(『東洋大学校友会報116号』より)
試合の結果についてはこの方もご記憶に無いようでわからなかったのだが、国会図書館が運営する近代デジタルアーカイブの中で『時事年鑑』昭和六年版の“運動競技=野球”の項にある“その他主要試合の一覧に“10月12日龍谷大学 六-二 東洋大 場所:大谷大学”とあるのを見つけ出すことができた。(立命館戦は見当たらず)
近代デジタルアーカイブ:『時事年鑑』
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1076256/261
なぜ、関西に遠征したのかは分からないが、翌年の五月には陸上部が大正大・大谷大と滝野川で“三大学対抗陸上競技大会”を開催しているので、仏教系大学ということで交流があったのかもしれない。
いずれにせよ、まだ“戦国東都”とは程遠い牧歌的な野球部の時代だったようだ…。
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