脇差 和泉守國貞(真改)


脇差 銘 和泉守藤原國貞(真改代作)
慶安元ヨリ同二年作之


初代國貞が國廣門から独立して大坂に独立し、和泉守を受領したのは元和九年。我が子と共に多くの門人を育てて大坂新刀の礎石となる。寛永末頃から体力の衰えを感じたものであろうか作刀は控えめになり隠居願いを提出、道和銘を最後に慶安五年五月五日に六十三歳で没している。それが故、慶安頃から二代國貞(真改)が正式に家督を相続する承応二年五月十三日まで、代作をせざるを得ぬ状況であったことは良く知られている。即ちこの脇差は真改の代作である。慶安元年はまだ真改十八歳だが、この脇差を見るかぎり、若いとは言いがたく力が籠っており、天性の力量が現れている。造り込みは、寸法を控えめに重ねを厚く反りを付け、棟を削いで刃の通り抜けを効果ならしめた親國貞を見るような江戸初期のそれ。小板目鍛えの地鉄は密に詰んで地沸付き、流れるような肌が窺え爽やかな光沢を呈する。互の目乱の刃文は穏やかに高低変化し、帽子はわずかに掃き掛けを伴って丸く返る。二年に近い歳月を費やしたと考えれば想いも広がろう、大成期の真改作には及ばないまでも、明るい小沸に匂の付いた焼刃は一段と明るく冴え冴えとし、刃中には匂と深い小沸が付いて刃先にまで広がり、その濃淡変化のある中を沸筋と沸の帯が走る。相州伝の魅力溢れる作となっている。一尺三寸二分。□





脇差 銘 和泉守藤原國貞(真改代作)
慶安元ヨリ同二年作之


初代國貞が國廣門から独立して大坂に独立し、和泉守を受領したのは元和九年。我が子と共に多くの門人を育てて大坂新刀の礎石となる。寛永末頃から体力の衰えを感じたものであろうか作刀は控えめになり隠居願いを提出、道和銘を最後に慶安五年五月五日に六十三歳で没している。それが故、慶安頃から二代國貞(真改)が正式に家督を相続する承応二年五月十三日まで、代作をせざるを得ぬ状況であったことは良く知られている。即ちこの脇差は真改の代作である。慶安元年はまだ真改十八歳だが、この脇差を見るかぎり、若いとは言いがたく力が籠っており、天性の力量が現れている。造り込みは、寸法を控えめに重ねを厚く反りを付け、棟を削いで刃の通り抜けを効果ならしめた親國貞を見るような江戸初期のそれ。小板目鍛えの地鉄は密に詰んで地沸付き、流れるような肌が窺え爽やかな光沢を呈する。互の目乱の刃文は穏やかに高低変化し、帽子はわずかに掃き掛けを伴って丸く返る。二年に近い歳月を費やしたと考えれば想いも広がろう、大成期の真改作には及ばないまでも、明るい小沸に匂の付いた焼刃は一段と明るく冴え冴えとし、刃中には匂と深い小沸が付いて刃先にまで広がり、その濃淡変化のある中を沸筋と沸の帯が走る。相州伝の魅力溢れる作となっている。一尺三寸二分。□



