…前回のエビス様の投稿からの続き、古代ミステリーの投稿です。
エビス様その2.
✨✨✨✨✨✨
【まぼろしの古都】
エビス様の総本社【西宮神社】がある兵庫県西宮市の「西宮」という地名の語源は、京都からみて西にあったので「西宮」と呼ばれたらしい。しかし、では「東宮」とは何処だ? と言う疑問が残されている。
(今宮戎神社とか?🤔)
京都から西というよりも、大阪の「難波宮」(=東宮)に対して西にある宮とした方が、しっくりくる気がする。
古代まぼろしの都『難波宮』(現在大阪城前にある難波宮跡公園)は仁徳天皇~聖徳太子、孝徳天皇など、弥生・飛鳥・奈良時代の英雄達が開いた大阪湾を望む都で、何度か遷都が繰り返され、副都となり、平安時代に消滅して、表舞台はから姿を消した。
しかし、兵庫県側には、平清盛~室町時代に栄えた貿易拠点もあり、都はなくとも、海の玄関口だった摂津(神戸)と難波(大阪)は当に、「西の宮」「東の宮」と呼ぶに相応しいエリアだ。
【エビス様の始まり】
エビスの名は平安から見られ、信仰は室町時代の七福神から広がった。当初は八福神など紆余曲折があったが七福神になり、西宮神社近くで仕えていた傀儡師(操り人形師)らの手によって全国に広められたという。(人形浄瑠璃の起源)
七福神は、江戸時代に入り天海僧正によって更に広められたが、これは現世利得を民衆に教化する為の宗教政策だった様に思う🤔。
戦国時代の仏教は「来世利得」であり、兵士たちは死してあの世に往生する為(極楽浄土へ生まれ変わる為)皆、命がけで戦うのが常だった。
陣中には、あの世に往生させる為の僧が同伴し合戦に臨んでいたが、兵士に命を惜しまず戦わせる為の仏教の役割は終わりにして、平和な治世では人々が現世利得を求める様に福の神の信仰へ誘導する必要があったのだろう。
天海僧正の現世利得の宗教政策は、民衆の間で見事に大ブレイクし、十日エビスや「福男」の信仰など、死して極楽を求めるかつての戦国風土は刷新され、生きて福を求める平和な世の中へと風変りしていった。
エビス様は、室町時代に生まれた「七福神」の1人に列せられた唯一の日本の神様だが、日本国王を名乗った足利氏が貿易で財を成した時代だけあり、中華の福の神が多く輸入された時代でもある。元々、異民族を指して言うエビスとは中国風の呼び方で、
日本では蝦夷(エミシ)であり、
エミシ→ エビス→ エゾ と呼び方は変化していった。
ヤマト王朝にとっての、異民族や先住民族は飛鳥・奈良時代までは「蝦夷」=エミシと呼ばれ、征夷大将軍の坂上田村麻呂が東北のエミシを征した後、
エミシからエビスに変わった。
平安時代以降は関東への蔑称として「アズマ(東の)エビス」などと呼び蔑んだ事もあったが、後にアズマエビスと呼ばれた東国の武者は鎌倉幕府を開いた。
武士の時代になると、
やがて室町時代にはエビスという蔑称は無くなり、「エビス」と言う神になっていった。
北海道のエゾを残し、日本列島は足利氏に統一された国になったが、
「エビスといえども、我が宮を」と言う言葉が文献に残されており、かつて中央からは未開人の蔑称の様に蔑まれていた事が伺える。そのエビスが、時代を画して神様になったというのはどういう事だろうか?
突然、神となったエビスだが
エビス様を事代主神として祭る神社もあれば、(今宮戎神社)
エビス様をヒルコとして祭る神社もあり、(西宮神社)様々だ。
沿岸部には、ヒルコ上陸の伝承と、事代主の上陸伝承がそれぞれあったが、
これは、
事代主神、ヒルコ、もともと古くから沿岸部にあった海の神様、漁の神様の信仰に「エビス」様がマウントされて、
エビス様と言う新たな信仰に習合されたという事だろうか?
室町時代にエビス様を全国に広めたという傀儡師とは、
歌舞、曲芸などを行いながら全国各地を巡る芸能集団だが、
同時に寺社の布教をする興行メディアの役割を担っていた。
全国を回遊する傀儡師らも、沿岸部を漂白していた為、海辺の信仰があり
西宮神社に仕えた彼らは人形を使った演目で(エビスまわし)かつての沿岸信仰に加え
新たなエビスさまという福の神への信仰を全国へ広めていったのだ。
【古代の宗教政策と古事記】
古代世界では、徴税と軍事と宗教政策が国の根幹を成すものだった。支配者達は、律令と軍事だけでは国は治められず、宗教という見えない鎧で国を覆わなければならない事を知っていた。今の私達が考える「宗教」とは、全く性質が異なる。
古代は教育というものが存在せず、民族教育なども当然無い為、国が頒布する宗教政策が全てだったので、民族教育の為の宗教政策でもあり、民衆の信仰心を集める事を目的として、政策者は宗教をコントロールしなければならなかった。
軍事と宗教と信仰をコントロールしてこそが、民衆の支配者たる由縁だ。
多くは平和な治世の為に有事を防ぐことを目的とした宗教政策であり同化政策だったが、時には軍事的に利用されることもあった。
古代和国100余国の時代には、小部族・小国の王たちが沢山いてそれぞれが始祖を祭っていた。ヤマトの王もかつてはその中の1人でしかなかったが、8世紀の日本人が中央集権力を高める為に編纂した「古事記・日本書紀」の中に王たちはまとめられた。先住の国津神や結びの神としてイザナギ・イザナミの眷属に書き加えられていき、八百万の部族たちの始祖は、八百万の神々に体系化され一体となった。
【古事記のできた訳】
古事記・日本書紀が操作性のある書物である事が知られる様になってきた現在では、「万世一系」と言う建前的な考え方ではなく、巷説の世界では幾つかの王朝交代があったと考える方がよりリアルになってきている。しかし、一方では古事記・日本書紀の系譜を信じている人もまだ多い。
古事記・日本書紀は、日本の旧約聖書・新約聖書となり得るよう天武天皇が命じ半世紀近くかけて編纂されたものだが、見事に完成されたバイブルだ。
遣唐使の時代、世界の文化を集めた唐から知識を持ち帰った者がいたのかもしれない。8世紀の日本人はあらゆる神話素材を使った組み立てにより、和国の有力部族達の歴史を日本の歴史の中に組み変えていった。
インド神話の乳海撹拌の様なイザナミ・イザナキの国生み神話、
ギリシャ神話の天と海と冥界の神の様な三貴神、
エジプト神話の様な死者を蘇らせ兄弟神に勝つというエピソード、
キリスト教の様な創造主と最高神
(創造主ヤハウェ→天御中主・最高神イエス→天照大神)など、
世界の宗教をふんだんに取り込んだ、当時としては最新式のものだった。
えべっさんこと「ヒルコ」の古事記でのエピソードは洪水型兄妹始祖神話(長い名😅)が
素材になっていると言われているが、
神話の素材に注目しただけでは、
ヒルコそのものの存在は見えてこない。
次回は、古事記の裏側をみながらヤマト王朝以前の様子、日本列島に存在していた先住部族やヤマト族との合併の様子から、ヒルコと事代主について考えていきたい。そして、結末へ。
Part 3. へ続く…。
お読み頂きありがとうございました🙏✨
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