ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

照和おまけ2

2013-05-23 14:38:53 | 日記
照和の閉店は1978年11月30日
その翌月20日に【HERO】発売

1979年春のツアー前に
『マイ・ジェネレーション』のレコーディング

このレコーディングが
博多のスタジオで行われたことは
以前に触れた通りですが

甲斐さんいわく…

レコードを東京で作る必要を感じない

要はハートだから、どこだって作れる

それをこういう形で
メッセージにしたいんだ

この言葉を聞いて

最新の設備が整っていなくても

あえてその味わいを生かす音を録りたかったのかな?

と理解してたけど(汗)

奥さんによると

照和の閉店を知らされた甲斐さんが
博多での録音を決めたんだという

ご自身がアマチュアの頃
博多にやって来たプロを見て

俺たちだって負けないと発奮し、しのぎを削った

その場所が失くなったことを
少しでもなんとかしたかったからだそうだ

あの街の奴らを刺激してやりたかったし
自分たちにも刺激になった

胸の中に熱いものがこみ上げて来て
博多でしか書けない曲が何曲か出来た

と話されたらしい


ちょうどHEROがヒットしていた頃だから

『あの照和出身の甲斐バンドが!』と
地元では一層刺激的だったでしょうね♪


そのHEROが1位になって
かねてからの約束通り

スタッフの方々のためだけのライブを開かれたそうだ

音響や照明のスタッフの方は
いつもライブ中は仕事をなさっているので(笑)

甲斐バンドのステージを
ちゃんとご覧になったことがないからだという


この時に照和が閉店していなければ
きっと照和で…と思うのは
ボクだけじゃないでしょう?


実際に照和でライブが行われた時は
急遽2公演が追加される盛況振りで

元はセッティングとリハーサルに
当てられていたはずの日が

アコギバージョンで
照和ライブの初日となった

後に甲斐さんが

本当はスタッフのために
演奏するつもりだったと

おっしゃってたらしい(笑)


そのアコギバージョンを見た甲斐友さんから

ライブ後の照和で
甲斐さん達がリハーサルをしてる!

というメールが届いたそうだ

ネタバレになるからと
曲名は教えて貰えなかったみたいだけど…(笑)

甲斐友さんは深夜まで
照和の外で聞き入っていたという(笑)

後日のセイヤングで…

この真夜中のリハーサルが
話題になっていたらしい

その時、スタッフの方々のための演奏がされたのか

それともやはりライブの準備に追われて
それどころじゃなかったのか(汗)

真相は語られなかったようだ(笑)
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照和おまけ1

2013-05-22 20:49:43 | 日記
ボクなりに『照和』について
長々と書いて参りました(汗)

つたない文章を読んで下さった皆様
ありがとうございました!!m(_ _)m

資料によって年代にバラつきがあったり
出来事が前後して書かれていたりと(苦笑)

迷うことも多かったけど
やはり『禁断の果実(爆)』は美味でした(笑)

ボクが楽しんで書いていたのは事実ですが

細かい数字や正確な年代を気になさる方には

アバウトでごめんなさいm(__)m

でも、例えば

甲斐さんが初めて
照和に行かれた時のことを

持ち歌が5曲、30分のステージ
と書いたのは

甲斐さんが【荒馬のように】の中で
そう書かれていたからです(笑)

映画『照和』の中では
持ち歌4曲で40分とおっしゃってますけど…(爆)

【九州少年】でも4曲になっていたから

ラジオで演奏された3曲に
【ヘルプレス】をプラスした4曲が
正解かも知れませんね(笑)


門田一郎さんによると…

1行の真実、10行の作り話(笑)
ウソも100回言えば真実だから

【1970年物語】が
すべて真実になる日が来るだろう…(爆)

でも、甲斐さんがファンクラブの会報に
【1970年物語】を掲載される際

富澤一誠さんの【照和伝説】を例に取って

照和に関する書物は

外から眺めた者の覚束ない形のモノと説明され

門田一郎さんのことは

確かにその最盛期の中にいた一人
と紹介なさっていたので

食い違った記載があった時には
門田さんの『ウソ』を選択しました(笑)


門田さんご自身は

ご自分の記憶していることを書いているので

【照和伝説】のように完全版ではないと
おっしゃってますが…(爆)


ボクの脳ミソが『照和』から離れるのに
まだ時間がかかりそうなので

今しばらくお付き合いくださいね(笑)


余談ですが
最近の奥さんは…と言うと

相も変わらず、繰り返し
ローリング・バースデイ・ライブを見ております(笑)

信じられないかも知れませんが
毎日欠かさずに、最低でも2回…です(爆)

ファンクラブで速攻で入手したのに
薬師寺ライブにはまだ手をつけてないようなので
ボクもまだ見れません(汗)

まあ、ボクも今は映画『照和』に釘付けなので、またいずれ…(笑)
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照和その19

2013-05-22 01:45:26 | メディア
藤松武さんが
照和のマネージャーになられる前から

オーナー側と現場責任者との間に
意見の食い違いはあったようで…(汗)

オーナーご自身は
藤松さんのフォーク喫茶『照和』のアイデアについて

『それが若者たちのためになるなら』
という立場で了承されたんだけど

ある意味、採算を度外視したやり方に
経営に携わる幹部の方々は難色を示していたらしい

それでも、開店時から照和の全盛期には
文句のつけようがなかったのが

ひとたび勢いが衰え始めると
地下に出入りする若者たちについて

あれこれオーナーの耳に吹き込むようになったという

髪の毛の長い連中がたむろしている、タバコを投げ捨てる

トイレが汚れている、音がうるさい等
1階の喫茶店の客から苦情が出ている

といった話を聞かされたオーナーは
地下をレストランにしたいと考えたようだ

若者が多く出入りすることが店の活性化に繋がる

という藤松さんの進言は聞き入れられず

藤松さんは『照和』を4階に移して
存続させる手配をした後、退職された


地下の天井の低さ、スペースの狭さ
天神界隈での価格設定のミス等

藤松さんが心配された通り
レストランの経営は上手くいかなかったようだ

でも、新しいマネージャーは
経営不振の理由を4階のせいにしたらしい

若い奴らが店の前にいると
レストランの客が入って来れないとか

エレベーターの前に
タバコの吸殻が散らかっているとか…

その当時、チーフマネージャーだった門田さんが

森山達也さんの依頼で
『ロック・デイ』を開催されていたことは
以前にも触れましたけど…

新しい照和に生まれ変わろうとした矢先に

オーナー側から、こじつけの標的にされて

結果、照和は閉店することになってしまった


3年後にミュージック・パブとして
開店したものの1985年に閉店

91年に再度オープンしたけど

照和の発案者であり
大きな後ろ楯だった藤松さんが辞められ

門田さんが自らの手で
照和の幕を降ろそうと決められた時が

『照和』の最期だったのではないでしょうか?

甲斐さんによれば
4階に移った照和は照和じゃないそうだけど…(笑)


照和閉店の知らせを受けて…

当時ARBのイチローさんと石橋凌さんは

ちょうど仕事で博多に行く予定だったこともあり

翌日の閉店パーティーに顔を出されたそうだけど

出席者に知人が少なくて
1時間ほどで帰られたらしい(苦笑)


財津和夫さんは

どうしたんだろう?経営不振かな?
とは思われたようだけど

もう関係ないやとあまり気にかけなかったという(笑)


武田鉄矢さんは

青春の原点が失くなってしまうようで、居たたまれない

と残念がっておられたらしい


甲斐さんは

寂しいけど仕方がないと言われ

無念さを口には出さないけど
無表情でもなかったそうだ

ただ、それより俺には明日の方が大切だと
おっしゃっていたという(笑)


陽水さんのコメントは見つからないんだけど

よくまあ、この4人が集まって
こけら落としライブが出来たなあと…(爆)

かつての恩人の方々に対する感謝の気持ちや

福岡という街への思いが
成せたことなんでしょうね…
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照和その18

2013-05-21 02:19:47 | メディア
1976~77年頃は、照和の開店当初とは違い

交通手段の発達や情報量の増加によって
東京との距離が近くなるにつれ

次第に福岡独自の文化が失われつつあったようだ


『照和』という名前の力にも
翳りが見え始めていたものの

照和にいれば客は集まり
音楽関係者もたびたび訪れていたらしい

それが逆に当時の出演者たちを安心させ

甲斐さん達がいた頃みたいに
他のホールでコンサートを開くこともなく

照和で歌うことがすべてになってしまったようだ

自然とかつての勢いは衰え
ボルテージは落ちて

本日の出演者の名前より
照和出身のミュージシャンの名前に
頼るようになっていったらしい

照和にいればプロになれるという話は
徐々に過去のものとなって

ある者は照和を見かぎり
あるバンドはポプコンに傾いていった


照和のチーフマネージャーだった
あかんべぇの秋吉さんがヤマハに入って

照和へ出場の勧誘に来られていたことも
関係あったのかも知れないけど…


『歌の甲子園』と呼ばれたポプコンは
一夜明ければスター!といったイメージが定着し

かつての照和のように
客の反応がミュージシャンを育てるという

『叩き上げ』のやり方は
魅力的に見えなくなってしまったようだ


また一方で
観客も好きな音楽を聴くために

身近なアマチュアがいるライブハウスに行くより

福岡でも見ることが出来るようになった
プロのミュージシャンのライブに
足を運ぶようになったという


プロデビューすることは容易になっても
その後もずっとプロを続けて行くことは難しい

妙安寺ファミリーバンドは
デビューまであと一歩のところで頓挫し

リンドンは3年で解散してしまった

ラムフライやナガブチゴウさん(笑)は

照和の仲間から
『まだ早い!』と言われたデビューを果たしたものの

自然消滅したり、照和に戻って来たり…

西田恭平さんは

ナガブチゴウさんと同じ回のポプコン本大会で
グランプリを獲得、デビューされたけど

やはり照和に戻り、やがて故郷に帰られたそうだ


中途半端な気持ちで上京しては
都会に飲み込まれ潰されてしまう

そんな不安や危機感を抱え
それでも、おいそれとは博多に帰る訳にはいかない

デビュー前の甲斐さんが

何枚かアルバムを作っても
まだ余分にストックとして残せるくらい

オリジナル曲を書き貯めてから
デビューしたいと考えておられたこと

ソロコンサートや出発コンサートに来てくれた人達

応援してくれた仲間や
お世話になった方々の思いを
すべて背負いたいと言われたこと

このことは甲斐さんのプロになる決意の固さ
プロとしてやっていく覚悟の真剣さを物語っていると思う


『やるべきことはすべてやった』
『この街から胸を張って出て行くのだと誓った』

九州少年に書かれた甲斐さんの言葉です
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照和その17

2013-05-20 09:54:26 | メディア
ヤマハのポヒュラーコンテストは
通称『ポプコン』と呼ばれ

小坂明子さんや八神純子さん
円広志さん、ツイスト、チャゲ&飛鳥など

多くのミュージシャンを輩出しています

でも、中島みゆきさんが
グランプリを獲得される以前は

まだ知名度が低く
ポプコン自体のポリシーが明確でなかったことと

教条的なヤマハカラーが敬遠されたため

各地区の予選に出場する
アマチュアを集めるのに苦労していたらしい

当時の照和にはヤマハの方から
『ポプコン』に出場するよう
熱心な誘いが来ていたそうだ

口説き落とされる形で
甲斐さんが九州地区大会に出場して
【恋時雨】で優勝された際

以前にも触れたように
『版権をヤマハに委託する』という条件を拒否して

つま恋での本大会には進まなかったという

ピエロも【あやつり人形】という曲で

地区大会に出場し入賞を果たしたようだけど
レコード化の話は断ったらしい

チューリップ、海援隊に続き
リンドン、甲斐バンド、ラムフライがデビューした頃から

『照和』はプロへの登竜門と同義になり
アマチュアバンドの憧れの場所として人気を集めた

その一方で…

照和の出演者同士、出演者と観客の連帯感に
よそ者が入り込む隙はないと思う方や

照和に出ているというだけで
その権威に寄りかかるかのような
出演者には反発する声もあったようだ

そういったアンチ照和のアマチュアバンドは

ポプコンを足がかりに
デビューする道を選ぶようになったらしい

当時、照和のレギュラーだった長渕剛さんは
ポプコンに批判的だったそうだ

フォークは、生きざまも含め
トータルで評価されるべきだ

という長渕さんの考えと

たった1~2曲の善し悪しで
決められてしまうコンテストは
相入れないものだったからだ

でも、フォーライフ・レコードが
新人オーディションのデモテープを募集した時

大の吉田拓郎ファンの長渕さんは
応募するテープを作る手段として

ポプコンに出場することにされたそうだ(笑)

ポプコンに応募するという名目で
デモテープを録って貰い

そのテープをフォーライフに送ったらしい(爆)

皮肉なことに
フォーライフのオーディションには落ちてしまったけど

ポプコンの九州地区大会でグランプリを獲得
本大会でも入賞したそうだ(苦笑)

この【雨の嵐山】という曲は
デモテープに録った20曲の中から
自動的にエントリーされた曲で

長渕さんはご自身の本質の曲ではないと
思われていたらしい

それでも、プロになれるという魅力には抗えず
長渕剛(ナガブチゴウ)名義でデビューされたものの

半年も経たずに福岡に戻って来られ
再び照和で歌い始めたようだ


門田さんによると…

この頃の長渕さんは貪欲に曲を作り
地下の階段で発声練習を欠かさず
プロ志向が本物になってきて

デビュー前の甲斐さんと同じものを感じさせたそうだ

長渕さんは新しい曲をデモテープにして

レコード会社に持ち込んだけど
良い返事が貰えなかったので

きっかけを掴むため
再びポプコンに出場して

地区大会でグランプリ、本大会で入賞

今度はプロデビューの喜びに舞い上がることなく

ご自分の考えや希望を
ヤマハ側にきちんと伝えられたという
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