広島の親戚のところに行く用事ができたので
ついでに御朱印あつめに。
去年のことですが。
福山市にある福山八幡宮へ。
伝承によれば福山八幡宮の前身となる延広八幡宮と
野上八幡宮は古代から深津郡に奉祀されていたと
されているが、両神社が文献に現れるのは
江戸時代になってからで、それ以前の正確な様子は
わかっていないそうです。
福山藩初代藩主水野勝成による福山城築城と
城下町の整備に伴い城下に祀られるようになり
2代藩主水野勝俊の時代に城下南側の西と東に
置かれる形ができあがったんだとか。
延広八幡宮はかつては惣堂八幡宮と呼ばれ
福山城建設地である常興寺山の
麓にあったが、福山城築城のとき職人たちにより
城下の南の神島町下市(現在の延広町)に
祀られたとされる。
野上八幡宮は天文年中(1532-55)に備後地方の
有力豪族である杉原盛重により常興寺山
(現在の福山城)に造営されたとされる。
福山城築城に際して城下の南西である
野上(現在の野上町)に移され
「野上」の名称の由来となったといわれる。
4代藩主・水野勝種は天和3年(1683年)に城下南東の
延広八幡宮と城下南西の野上八幡宮を筆頭家老
上田玄蕃下屋敷であった吉津川北岸の
松廼尾山に移転させた。本宮は福山城天守を南に
望む小山の山頂に同じ形式・規模で並べて建てられ
隣接した位置に設置されたが両社の間は
福山藩初代藩主である水野勝成を祀る
聡敏神社が鎮座し、参道も東西それぞれに
専用のものが設けられた。
以後、2つの神社は両社八幡宮と
呼ばれることになった。
昭和44年(1969年)に「福山八幡宮」と改められた。
両社の本殿は共に建造当時のまま
今日まで残されているが、間を隔てる聡敏神社は
昭和59年(1984年)の中央拝殿建設により
西御宮裏(北西部)に移され、本殿の周囲も舞台の
新設を始めとする大規模な整備が行われ
創建時から大きく姿を変えたそうです。
福山八幡宮は2つの社で構成されている。
多くの場合、神社を並列して祀る場合
どちらかの本殿へ合祀することが一般的であるが
本宮は本殿、拝殿、随身門、石段、両部鳥居
参道、総門等それぞれが同一規模、同一形式で
東西に並べて建てられており、全国に類例の
少ない形式なんだとか。
主祭神は応神天皇、神功皇后、比売大神。
住所は広島県福山市北吉津町1-2-16。
114枚目。
御訪問ありがとうございました。