「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

大阪24区を歩く~すみよっさんとあびこさんの町「住吉区」

2013-09-20 21:39:23 | 日記
訪問日:平成26年6月15日(日)
出 発:JR「長居駅」
到 着:JR「杉本町駅」

 「摂津國住吉郡」。明治11年の郡区町村編制法施行により「大阪府住吉郡」として「西成郡」「東成郡」とともに誕生。その後、「東成郡」に併合されるが、大正14年の区編制により「住吉区」となる。そして、昭和18年、「阿倍野区」「東住吉区」を分区した際、当時の住吉区役所があった「阿倍野区」が「住吉区」の名を継承し、「住吉区」は「住之江区」と名乗る予定であった。しかし、住民らの反対により引き続き「住吉区」と称することとなる。その後、昭和49年、西部を「住之江区」として分区、その結果、面積10k㎡にも満たない小さな区となった。
 そこまで住民たちがこだわってきた「住吉」の名。それは、やはり「住吉大社」の存在だろう。また、区南部には「我孫子(あびこ)」と名の付く駅が東西に4つ並ぶ。「すみよっさん」と「あびこさん」とともに歩んできた人口約15万6千人の町を歩く。


 午前9時55分、JR阪和線「長居駅」を出発。サッカーワールドカップ、世界陸上が開催された長居公園のすぐ西に位置するが、長居公園は、昭和18年の分区の際、東住吉区となった。「東住吉区」編で訪ねる。
 

 出入口は、駅北側にあるので駅舎に沿って南へ。「池田泉州銀行」の角を西に進んでいくと「長居商店街」というアーケード街前に出る。
 

 「長居(ながい)」というが、180mほどの短いアーケードだ。
 

 途中、2つの通りと交わるが、それぞれ東(駅側)に向かってアーケードはないが商店街になっている。
 

 アーケードを出て左へ行く。このアパート横の路地を入る。
 

 「西長居公園」と、その南に小さな杜が現れるので、ぐるっと回って正面に向かう。「神須牟地神社」。そのまま素直に「かみすむち」と読む。
 

 創建は定かではないが、延喜式に記載された2000年以上の歴史を持つ古社で、神産霊大神(カミムスビノオオカミ)、天日鷲命(アメノヒワシノミコト)、少名彦命(スクナヒコナノミコト)を御祭神とする。今日一日の安全を祈願する。
 

 「西長居公園」まで戻って左折し、「大領(だいりょう)」という町を辻を折れながら進んで行く。
 

 この辺りは、田んぼがあるんだ。井戸水を汲み上げているのだろうか、結構、きれいな水が引かれていた。
 

 「府立急性期・総合医療センター」という大きな病院が現れる。以前、「大阪府立病院」があった所だ。
 

 病院の前は、公園として整備されている。
 

 病院の前を走るのは「あべの筋」。住吉区も南北に「あべの筋」「あびこ筋」、東西に「南港通」「長居公園通」という「筋」と「通」が走る(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「コラム『チンチン電車』『筋を通す』」参照)。
 

 「総合医療センター前交差点」から「あべの筋」を50mほど北に上ったところを左折して路地に入る。古い病院が。
 

 100mほどで「万代池公園」に出る。
  

 周囲700mほどの池の真ん中には3つの島があり、1つの島を渡って向かいまで橋が架かるので対岸へ。
 

 この池の歴史は、聖徳太子の時代までさかのぼるらしい。明治時代までは灌漑池として利用されていたが、その後、公園として市民の憩いの場となっている。
 

 公園の前の道は「熊野街道」らしい。
 

 公園の西側には大阪で唯一のチンチン電車が走る。この線路は「天王寺駅前」から「住吉公園」まで4.6kmを結ぶ「阪堺電車上町線」だ。
 

 線路沿いに右に曲がり「帝塚山三丁目」の乗降場に出れば左折する。
 
 
 すぐ左に「帝塚山学院」。大正5年に創設された私立学園で、ここには幼稚園から高校までがある。奈良にも帝塚山学院があるが、法人は別らしい。
 

 校舎を過ぎれば南海高野線「帝塚山駅」前で踏切を渡る。
 

 突き当たりには「帝塚山古墳」。5世紀初頭に造られた全長約88mの前方後円墳で大和朝廷の高官大伴金村の墓と伝わる。かつて「大帝塚」「小帝塚」と呼ばれる2つの古墳があり、それが「帝塚山」という地名のルーツになったという。
 

 現存するのは「小帝塚」で、「御勝山古墳(生野区)」「茶臼山古墳(天王寺区)」「聖天山古墳(阿倍野区)」とともに大阪市内に残る4大古墳のひとつらしい。今回の「歩紀」ですべての古墳を巡ったことになる(「生野区編」「野里町歩紀~摂河泉をゆく~陰陽師ゆかりの地『阿倍野』」「上町台地『歴史の散歩道』と真田幸村」参照)。
 

 「帝塚山西2・3・4丁目」と下って行く。高台の「帝塚山」は、大阪市内でも高級住宅街として知られる。
 

 「市立住吉中学校・小学校」の間を抜け、細街路を進んで行く。この辺りには、蔵のある大きな屋敷や町家が残る。
 

 

 町家を利用したカフェもある。
 

 坂道を下って行くとタコの足には1つ足りない7つの道が交わる「辻」に出る。ここは「六道の辻」と呼ばれ、仏教でいう死後、前世での善悪によって行きめぐる「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」の6つの世界への分岐点とされる。今では1つ道が増え、「七」道の辻となっている。
 

 角には「閻魔地蔵尊」。
 

 これから進む道は、どこへ続くのだろう。
 

 「地蔵尊」前を50mほど進み「阪堺電車上町線」の踏切を渡る。ここは、路面ではなく「専用路線」を走る。
 

 すぐ左に鎮守の森が現れるが正面に回る。途中、「旧東成郡西成郡境界」碑が立つ。
 

 その角を曲がれば「生根神社」。
 

 式内社で、明治時代までは住吉大社の摂社であったが、住吉大社の鎮座以前から当地に鎮座すると言われ「少彦名命」を祀る。
 

 神社前を右に進む。「上町線」の踏切を渡れば、すぐにもう一つのチンチン電車が現れる。これは「恵美須町」から堺市の「浜寺駅前」までの14.1kmを結ぶ「阪堺電車阪堺線」だ。
 

 住吉警察署を右に見ながら進むと「住吉」で「上町線」と「阪堺線」がクロスする。
 

 「住吉」の乗降場の側に建つ「待合所」。阪堺線は「駅」とは言わないようだ。
 

 「上町線」は次の「住吉公園」で終着となり、「阪堺線」は「住吉鳥居前」となる。
 

 その真ん前には「住吉大社」。「摂津一の宮」であり、全国の「住吉神社」の総社。そして住吉区民が最後まで区名にこだわった元となった神社である。
 

 鳥居をくぐれば「太鼓橋」。「反橋(そりばし)」とも呼ばれる。正月3が日には200万人を越える人たちがお参りをする。
 

 古事記には、「黄泉の国」から戻った「伊邪那岐命(イザナギノミコト)」が禊ぎ払いした際、瀬の中から「底筒之男(ソコツツノオ)」「中筒之男(ナカツツノオ)」「上筒之男(ウワツツノオ)」が誕生し、住吉の社に祀られたと記されている。これが「住吉三神」。その後、「神功皇后」が加わり「住吉四神」といわれ、航海・海・水・戦さなどの神として崇められている。四角い柱の鳥居は「住吉鳥居」と呼ばれる。
 

 奥から「第一本宮」「第二本宮」「第三本宮」と縦に並び、それぞれ「底筒之男命」「中筒之男命」「上筒之男命」が祀られる。
 

 そして「第三本宮」の右に「神功皇后」が祀られた「第四本宮」が並列する。いずれも文化7(1810)年に建造された「住吉造」と呼ばれる建築様式で、国宝に指定されている。
 

 結婚式があったようだ。
 

 神苑を時計方向に回る。境内東側には「石舞台」。毎年5月の「卯之葉神事」では、舞楽が奏でられるそうだ。
 

 一旦、神苑の外に出ると「御田(おんだ)」。約600坪の田んぼで、ちょうど昨日(6月14日)、「御田植神事」が行われ、苗が植えられている。
 

 ここの稲は「鴨農法」により育てられ、新嘗祭には神様に新米が捧げられる。
 

 もう一度、太鼓橋を渡り境外へ。道路に沿って全国から寄進された約600基の石灯籠が並ぶ。
 

 南海本線「住吉大社駅」前までの参道に店が並ぶ。
 

 手前の小さな三角屋根の建物は、阪堺電車上町線の終点「住吉公園」駅舎。南海本線から西は「住吉公園」。かつて住吉区内であったことから、このように呼ばれるが分区後は「住之江区」となった。「住之江区編」で訪ねる。
 

 門前らしい店が建つ。この路地を北に入る。
 

 阪堺電車上町線の踏切を越え、スーパー「玉出」の前を右に曲がれば「洋食やろく」。時間は、午前11時45分。昼食としよう。
 

 昭和10年創業。ということは80年ほど続く店ということだ。「やろく定食(1080円)」を注文。
 

 食事を終え、再度、通りに出て、住吉大社とチンチン電車の間を歩く。
 

 阪堺線と分かれ「住吉税務署」前を左に。先ほど訪ねた「御田」前を過ぎて更に進む。高灯籠が建つ池に出れば右へ。
 

 橋で「細井川」を渡れば、左に「大歳神社」。
 

 「天台宗地蔵寺」というお寺を過ぎれば右に「左あびこ観世音」と刻まれた道標。
 

 「長居公園通」を越え、次の角を右に曲がれば「住吉行宮跡」。「行宮(あんぐう)」とは仮宮のこと。
 

 南朝「後村上天皇」が、行幸の際の「行宮」とした所と伝わる。後村上天皇は、正平23(1368)年、この地で崩御したという。
 

 「住吉行宮跡」の南側の路地を進み「市立墨江小学校」(左)と「清明学院」(右)の間を抜ける。「墨江(すみえ)」と読む。清明学院は、昭和16年、「大阪住吉女学校」として創立された私立高校である。現在は、共学校。
 

 この道も「熊野街道」のようだ。
 

 市立墨江丘中学校の横を抜け右折、西に進むと「阪堺電車阪堺線」の「安立町」。「安立(あんりゅう)」と読み、住之江区側の地名だ。
 

 阪堺線にそって南に進む。
 

 10分ほどで阪堺電車阪堺線「我孫子道」に着く。最初に訪れる「我孫子」と名乗る駅だ。
 

 すぐ南には「阪堺電車我孫子道車庫」があり、本社もここにある。
 

 そして駅前から続く「あびこ道商店街」。
 

 160mほどのアーケード街だ。
 

 アーケードを抜けても、しばらく商店街が続く。
 

 商店街の東端には「出世地蔵尊」。一応、「出世祈願」をしておいた。
 

 地蔵尊を過ぎれば「あべの筋」に出るので信号を渡り、小さな階段を上って「遠里小野」の町に入る。「おりおの」と読む。
 

 町家が残る。
 

 ここは、150m四方ほどの間に4つの寺院が建つ。まず、突き当たりに「真宗本派安養寺」。
 

 南に下れば「浄土宗西方寺」。
 

 次の角を左折すると「熱海温泉」というお風呂屋さんがあるので、その右の路地を北に戻ると、先ほどの「安養寺」の東に出る。
 

 突き当たりを右折すれば「浄土宗安楽寺」。
 

 その向かいには「極楽寺」。この寺には、聖徳太子と縁のある「毘沙門天」が祀られているそうだ。
 

 古い建物は「質屋さん」。
 

 その南には、大きな屋敷が2邸並ぶ。一つは洋風に建てられているが、もう一つは板塀の良い雰囲気だ。
 

 さらに古い酒屋さん。
 

 一旦、府道を渡り、さらに南に進むと「市立遠里小野小学校」の北西に「農神社」という小さな社があり、狭い境内に「遠里小野編入紀念碑」が建つ。村が大阪市に編入されたのを記念して建てられたものらしい。
 

 小学校の角には「熊野街道」碑。やはり、街道筋だったんだな。
 

 「遠里小野小学校」の前を東に進む。
 

 大阪市内で良く見られる「長屋」。
 

 「南海高野線」に突き当たるので左折。先ほどの府道で踏切を渡り、「南海高野線」に沿って北に約200m進む。2つ目の「我孫子」を名乗る南海高野線「我孫子前駅」。「前」を名乗るには、少し無理があると思うのだが。
 

 さらに南海高野線に沿って北上すると「あべの筋」に出る。道路の向こうに神社が見えるのだが、中央分離帯があり渡れないので、一旦、北に進み「殿辻交差点」で信号を渡る。
 

 「止々呂支比売命神社」という長い名前の神社だ。「とどろきひめのみこと」と読む。
 

 創建は不詳であるが、延喜式に載る古社で、素戔嗚尊と稲田姫尊の夫婦神を祀る。また、後鳥羽天皇が境内の松林に行宮(あんぐう)~仮宮~を置いたことから「若松神社」とも呼ばれる。
 

 参拝を終え「殿辻交差点」まで戻り「あべの筋」を渡って真っ直ぐ東へ。右に「住吉区役所」の立派な建物が見えてくる。
 

 区役所の隣にある「沢之町公園」を通り抜ける。ここには、図書館や区民センターがあるので、ちょっと「トイレ休憩」。
 

 公園を横切り南側の通りを左折して東に進む。10分ほどでJR阪和線に突き当たるので右折。すぐ左に3つ目の「我孫子」を名乗る「我孫子町駅」。
 

 駅は高架になっているのでガードをくぐって東へ。左手に元祖厄除饅頭「あびこ餅本舗」が現れれば右の路地に入る。
 

 地図を頼りに細い道を抜けて行く。
 

 すると「あびこ観音」の門が見えてくるが、正面から参拝するため、一旦、右に曲がる。
 

 「あびこ観音」の土塀脇を抜ける。
 

 右に大きな木造2階建ての建物が現れる。
 

 「我孫子会館」というらしい。
 

 そして、その前に「我孫子」の元となる「観音宗総本山あびこ観音寺」。通称「あびこ観音」が現れる。
 

 「厄除け」に御利益があり、特に2月節分の「厄除大法会」「護摩加持祈祷」には、多くの人が参拝する。
 

 546年創建と言われる古い寺院で「我孫子」のほか「安彦」「吾彦」とも呼ばれる。
 

境内には、高さ19.5m、幹回り4.8mの「観自在楠」。戦国時代、大坂夏の陣、近代に入っては太平洋戦争と戦火にまみれた大阪の町を見守り続けて来た、樹齢700年を越える「くすのき」である。
 

 境内を後にし、「あびこ観音」東側の塀沿いに歩き「デイリーカナート」の手前を右折。
 

 すぐに「あびこ筋」に出る。もちろん「あびこ観音」に因んで名付けられた「筋」だ。そして「筋」の地下には、4つ目の「あびこ駅」。地下鉄御堂筋線の駅だ。この駅だけがひらがなで表記される。
 

 駅名は「ひらがな」だが、交差点名は漢字。「地下鉄我孫子南交差点」を左折、東に進む。
 

 この道は「歴史の散歩道」となっているようだ。
 

 「大阪府住吉警察署苅田警ら連絡所」を過ぎて信号を渡り、次の四つ角を右折する。
 

 ここも細い道なので地図を頼りに進んで行くと「真宗大谷派安楽寺」。寺の前には「庭井地蔵尊」。
  

 この辺りは「庭井」という集落らしい。古い民家があった。電柱が「非常に邪魔」だ。
 

 地蔵尊の横を南に進むとすぐに「大和川」の堤防が現れる。堤防上に上がる道があるので上がってみよう。「大和川」から向こうは「堺市」だ。下流方向を眺めると「吾彦(あびこ)大橋」が見える。「あびこ」には色々な漢字が充てられる。
 

 すぐに下る道があるので堤防下へ。下りたところには「大依羅神社」。「依羅(よさみ)」と読む。やはり古い町なのだろう、普通では読めない地名が多い。
 

 「社号標」も「制札」も茂みに隠れていた。
 

 

 この付近で勢力を誇った豪族「依羅吾彦」の祖神「建豊波豆羅和気王(タケトヨハズラワケノキミ)」と住吉三神を御祭神とする。
 

 本殿横には、多くの御祭神の名前が掲げられていた。
 

 鳥居の前まで戻る。そこには「庭井2号公園」という小さな公園があるが。公園内に「依網池址」碑が建つ。「依網池(よさみいけ)」とは、「記紀」にも出てくる古代史上の人工池である。
 

 この辺りにも田んぼが残る。かつて「依網池」の水を引いていたのだろう。
 

 そう言えば「農協(JA)の支店」があったな。
 

 神社西の「府立阪南高校」「市立苅田南小学校」前を通りながら西進。
 

 「大和川」を越えるため高架となった「あびこ筋」をくぐる。かつて、ここには、JR阪和線「杉本町駅」からJR関西本線に連絡する全長11.3kmの「阪和貨物線」が走っていた。その跡が今も残る。
 

 「杉本町公園」を過ぎて南に進む。信号を渡ると左右に何やら大きな建物が。
 

 「大阪市立大学」だ。明治13(1880)年創設された「大阪商業講習所」を前身とし、昭和24年、新制大学として発足した。大阪では「市大(いちだい)」と呼ばれている。「市大」角の町内地図には「阪和貨物線」が描かれている。
 

 「市営浅香第一住宅」前の信号を右折。「市大」校地の間を西に進んでいく。
 

 300mほどで踏切を渡り、右に曲がると本日のゴールJR「杉本町駅」。午後3時15分到着。本日の歩紀「24031歩」(20.66km)。「すみよっさん」と「あびこさん」。「神仏」に守られた古い町だった。
 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大阪24区を歩く~競艇の町... | トップ | 大阪24区を歩く~百済野を... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事