訪問日:令和6年3月16日(土)
出 発:JR「大津駅」
到 着:JR「堅田駅」
「近江からはじめましょう」
日本人のルーツを求め、作家・司馬遼太郎が日本各地さらには海外まで25年間にわたって訪ねた「街道をゆく」は、この一言から始まりました。今回と次回は「街道をゆく」第一巻「湖西のみち」とおおむね同じコースを歩きます。県道沿いの市街地を歩きますので給水・トイレにはまったく困りません。
今日のスタートはJR「大津駅」。JR「大阪駅」から乗り換えなしで約40分(990円)で着きます。ただ阪急沿線に住む私は阪急電車で「高槻市駅」まで来てJRに乗り換え「高槻駅」経由で来ました。阪急電車って本当に安いんですよ。本数も多いし。午前8時42分、今日もニコニコ出発です。
駅前交番の前から中央大通りという道を北に進み、次の「京町三丁目交差点」を渡ってから右に曲がります。すぐ左に「天孫神社」。これは裏門です。
次の辻を左折して表門に向かいます。「天孫」という名前から「高千穂峰」に降臨した天照大神の孫である「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」を御祭神にしているのかと思いましたが、その子「彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)」をお祀りしているようです。(午前8時48分)
今後多くの神社にお参りすると思いますが、ここで「琵琶湖一周」完歩の安全祈願をしましょう。「舞殿」のある立派な神社です。
参拝を終え元の道に戻り真っ直ぐ進めば右に「滋賀県庁本館」。昭和14年5月に竣工したルネッサンス様式の近代建築で国の登録有形文化財に登録されています。立派な建物ですね。(午前8時52分)
琵琶湖を擁する滋賀県は人口約140万人。かつては「近江の国」と呼ばれました。これは大和政権から見て遠い湖(浜名湖)に対して近い湖(琵琶湖)ということから付けられたそうです。だから静岡県の西半分を「遠江」というそうです。面積は全国で10番目に狭いそうですが、総面積の6分の1を琵琶湖が占めるため人が住める面積は全国で一番面積が狭い香川県よりも少ないそうですよ。
さらに真っ直ぐ進み突き当たりの「松本一丁目交差点」を左折。正面に何やら天守閣のような建物が見えてきました。
この建物は「滋賀県立琵琶湖文化館」。滋賀県内の文化財や淡水魚を展示する施設だったそうですが平成20年から休館しているようです。背後には琵琶湖が開け湖畔に建つ象徴的な建物ですので、ここをビワイチのスタート&ゴールにする人も多いようですね。(午前9時3分)
向かって右側にはかつて明智光秀の弟・明智左馬之助が馬で琵琶湖を渡ったという伝説にちなみ「明智左馬之助湖水渡り」の石碑が立ちます。せっかく碑が立っているのに柵が邪魔ですね。
さて私もここを琵琶湖一周のスタートとします。私の歩紀は時計回りですので左に進みます。文化館を過ぎれば駐車場を抜けて「なぎさ公園」に入りましょう。
右には水上警察と水上消防の合同庁舎が。琵琶湖には海上自衛隊も海上保安庁もいないので警察・消防だけが頼りですね。
ここは「大津港」。琵琶湖で最も大きい港です。午前9時40分発のクルーズ船「ミシガン」が泊まっていました。私は乗ったことはないのですが乗った人の話では「動くレストラン」だと言っていましたよ。(午前9時17分)
ロータリーの先を南に進めば県道558号線に合流します。「大津港口交差点」の角には「大津城跡」の石碑が。天正13(1585)年、豊臣秀吉の命により築城され関ヶ原の戦での「大津籠城」が有名だそうですが、ほとんど遺構は残っていないそうです。
そのまま県道を進み橋の手前から右を眺めれば何やらレトロチックな木造建造物が。「旧第三高等学校(現京都大学)艇庫」だそうです。三高伝統の琵琶湖周航はここから出発したそうですよ。今は別のボートクラブが使用しています。
艇庫手前の公園の中には「琵琶湖周航の歌」歌碑。
♪ われは湖の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと 昇る狭霧や
さざなみの 志賀の都よ いざさらば ♪(1番)
そして先ほどの橋に戻り琵琶湖と反対側を見れば取水口のようなものが見えます。これは「琵琶湖疎水第一疎水揚水機場」と言うそうです。この川のような流れは「琵琶湖疎水」です。つまり琵琶湖に注ぐのではなく、ここから始まり最終的には大阪湾に注ぎます。(午前9時41分)
疎水「左岸」を歩き京阪電鉄の「三井寺駅」を過ぎます。
「北国橋」を越えて次の辻を右に曲がり橋を渡ります。この流れは明治23年に完成した「琵琶湖第一疎水」と言うそうです。桜がきれいでしょうね。橋を渡って左に曲がり「右岸」を進みます。
鳥居が見えてくれば右の筋に入り正面に見える門に向かって歩きます。鳥居は「三尾神社」。門はこれから訪れる「三井寺」の総門です。門はくぐらず右へ曲がりましょう。
少し進めば「園城寺町交差点」に出ます。三井寺の正式名称は「長等山園城寺(おんじょうじ)」と言うそうです。天智・天武・持統三帝の産湯に用いられた井戸があることから「三井寺」と呼ばれるようになったそうです。また桜の名所でもあり夜はライトアップされます。参拝しましょう。
駐車場を過ぎれば正面に「仁王門」。宝徳4(1452)年の建築で元は常楽寺というお寺の山門でしたが、伏見城などに移築された後、慶長6(1601)年、徳川家康によって三井寺に寄進されました。国の重要文化財です。仁王門をくぐり入山料(600円)を納め境内に進みます。(午前9時56分)
順路に従い進んで行けば本堂である「金堂」。御本尊は弥勒菩薩で慶長4(1599)年に完成した間口23mを越える巨大な木造建造物は、国宝そしてユネスコ文化遺産にも認定されています。
本堂の右手には「鐘楼」。慶長7年(1602)年に建立され国の重要文化財に指定されています。
梵鐘は近江八景のひとつ「三井晩鐘」です。
石段を上れば「霊鐘堂」。中には「弁慶引摺鐘」と呼ばれる梵鐘が。
霊鐘堂の先には「一切経蔵」。室町時代に建てられた国の重要文化財です。
さらに進めば「三重塔」。かつて奈良吉野にあった比蘇寺という寺の東塔を徳川家康が移築寄進したものです。
三重塔とこの「潅頂堂」「大師堂」を合わせた三棟は「唐院」と呼ばれ、いずれも国の重要文化財に指定されています。
三井寺は天台寺門宗総本山であり平安時代、第五代天台座主・智証大師円珍和尚により天台別院として中興された1200年以上の歴史を有する古刹です。(三井寺ホームページより)
境内の西端には「微妙寺」。
道なりに南に下って行けば「毘沙門堂」。江戸時代である元和2(1616)年に建立され、これも国の重要文化財です。
毘沙門堂前の石段を上れば「観音堂」。西国三十三所観音霊場の第十四番札所として多くの信仰を集めています。札所は本堂からちょっと離れているんですね。
観音堂前の展望台から大津市内を眺めます。関西地方以外の方にとっては馴染みが薄いかも知れませんが、滋賀県の県庁所在地である大津市は滋賀県南西部に位置し人口約35万人。667年に天智天皇が「志賀の都」とも呼ばれる「近江大津宮」を置いた歴史ある町でもあります。
観音堂前の階段を下りれば自然と境内の外に出ます(午前10時25分)。左に曲がればちょっとコースがだぶってしまうのですが、参拝前に通過した「総門」の前を通って「園城寺町交差点」へ出るのでそのまま真っ直ぐ。県立大津商業高校や大津市役所を左に見ながら進みます。
消防署を過ぎると案内表示がありますので「法明院・弘文天皇陵」方向に左折します。すぐに「弘文天皇御陵参拝道」と刻まれた石標が立ちます。
そのまま真っ直ぐ進み案内表示に従って左に曲がれば右角に「地蔵尊」と刻まれた小さな石碑がありますが、その向かいにある「大津市庁舎第2別館」前の脇道に入っていきましょう。
そこにひっそりと「弘文天皇長等山前陵」が佇みます。ここが第38代天智天皇の第一皇子として誕生した「弘文天皇」の陵所とされています。(午前10時37分)
ただ「大友皇子」と呼ばれ皇位を継承するはずだったところ、天智天皇の弟・大海人皇子(のちの天武天皇)との皇位継承争い(壬申の乱)に敗れて自害し、日本書紀には即位の記述がなく明治政府になってから第39代弘文天皇の諡号が与えられました。
そして背景の森に溶け込んでいるのでうっかりすると見落としてしまいそうですが、弘文天皇陵前に大きな石鳥居があるので入って行きます。
奥には「新羅善神堂(しんらぜんしんどう)」。街道をゆくでは「新羅神社」として登場します。(午前10時41分)
琵琶湖周航の歌1番でも歌われていますが、滋賀県南西部のこの辺りは「楽浪(さざなみ)の志賀」と呼ばれ、朝鮮半島にも「楽浪(らくろう)」という地名があることから司馬遼太郎は「楽浪」と「新羅」は同義であり近江と古代朝鮮とのつながりを指摘しています。
先ほど訪れた三井寺の鎮守社で暦応3(1339)年、足利尊氏により再建されたと伝わり本尊の新羅明神坐像とともに国宝に指定されています。何でもない小さなお堂ですが「国宝」ですよ。
お堂の右にある通用門を抜ければ先ほどの「地蔵尊碑」前に出るので市役所の通りまで戻り左へ。京阪電車に沿って進みます。JR湖西線のガードをくぐれば左に「皇子が丘公園」。「近江大津宮」がこの辺りにあったと推定されていますが、大友皇子(弘文天皇)が自害したため5年ほどで廃都となりました。
発掘調査も行われたようですが、付近の宅地化も進み現在のところ大津宮の詳細はわからないようです。この広大な「皇子が丘公園」も史跡公園というよりはスポーツ公園です。
そのまま真っ直ぐ進めば「史跡近江大津京錦織遺跡第8地点」と書かれた案内表示が立ちます。見たところ単なる草っぱらという感じです。(午前10時58分)
その奥の「第1地点」はちょっと公園っぽい感じです。
その隣の「第2地点」は柱跡でしょうか円柱が並びます。何カ所かこのような跡が残るだけです。この向かいにも「第7地点」「第9地点」の標識が立っていますが、住宅建築前の「更地」といった感じです。
さらに進み橋を渡って右にカーブすれば「近江神宮」の第一鳥居前に出ます。(午前11時5分)
鳥居をくぐって表参道へ。前半は何かバザーの日だったのでしょうか。キッチンカーやフリマなどが並んでいましたが、この参道は「木洩れ日の道」と言います。前には第二鳥居も見えてきました。
第二鳥居をくぐり右へ進めば手水舎横に朱色に輝く「楼門」が。
「外拝殿」でお参りします。近江神宮は大津に都を開いた天智天皇を御祭神とする神社ですが、創建は新しく昭和15年、紀元2600年を記念して建立されたそうです。
天智政権は古代朝鮮の百済とともに唐・新羅の連合軍と戦い「白村江の戦い」で大敗したことから唐・新羅の侵攻(報復)を恐れここ近江の国に遷都しました。そのため湖国・近江では天智天皇に対する信仰が深いそうです。
また天智天皇は「漏刻」という水時計を作られたことから「時」「時計」の神様としても崇められ、境内には水時計・日時計のモニュメントや時計館なども見られます。
さらに小倉百人一首における天智天皇の御製が国民に親しまれたことから「歌かるた」の聖地となり、毎年「かるたクイーン決定戦」を初めとした各種かるた選手権大会が開かれるほか映画「ちはやふる」の舞台にもなったそうです。
参拝を終え一の鳥居前を左に。すぐ横にある歩道橋前に小さな歩行者用踏切があるのですが、さらに線路沿いに進み2つ目の歩行者用踏切で京阪線を渡ります。住宅街、湖西線のガードを過ぎて東へ。
やがて県道558号線に突き当たるので左に曲がります。正面には大きな施設が。「陸上自衛隊大津駐屯地」でした。この辺りから大津の市街地を後にします。(午前11時42分)
長年の経験からだいたいこの時間にここへ着くことはわかっていました。今日の昼食は「天下一品唐崎店」です。私はこれまでちょっとお洒落な店や昭和レトロ感溢れる洋食屋などで昼食をしてきましたが、今はファミレスやフランチャイズ系の店にはまっています。個人経営の店は休日でも休んでいたりしますが、日本の外食産業はクオリティー高いうえ営業時間や休日がはっきりしているので助かります。
「あっさり屋台ラーメン定食」(1200円税込)を注文。麺が延びちゃうので写真に撮った後すぐに箸をつけましたが、この後「ミニ炒飯」が来ます。
午後0時25分、昼食を終えさらに県道を進み「ミニストップ」が右に見えてくれば案内表示に従い脇道にそれます。7~80mで右に道が見えてくるので曲がりましょう。電柱の横に「白鬚」「天保七」と刻まれた道標が埋まっています。その先には鳥居が。
そこは「唐崎神社」。(午後0時29分)
鳥居前には「みたらし団子屋」さんがあります。ここは日吉大社の摂社であり毎年7月、日吉大社の祭礼である「みたらし祭」がここで開かれることに因むようです。手筒花火などもある大きなお祭りのようですよ。
神殿に比べて結構広い境内は琵琶湖に面しており、ここは近江八景のひとつ「唐崎夜雨」です。
広々とした良い雰囲気の神社ですよ。
道標の辻まで戻り右へ曲がります。右には「県営都市公園」。トイレがあります。
大塚食品(製薬)の施設やホテル過ぎると右に琵琶湖の景色が広がります。このすぐ西方向に「穴太(あのう)」という地域があります。「古事記」には、その付近に第13代成務天皇が「志賀高穴穂宮」という皇居を構えたと記載されていますが、学術的には成務天皇の存在自体定かではないそうで遺構もまったく確認されていません。「街道をゆく」でも触れられています。ただそれなりの権力者はいたのでしょうね。
そのまま進んで行けば湖畔に「日吉大社七本柳鳥居」。日吉大社は比叡山の麓に鎮座し、神仏習合時代も含め厄除けにご利益があるそうですよ。(午後0時51分)
そして毎年4月に行われる「山王祭」で、ここから船渡御が行われ神輿は先ほどの唐津神社沖合を巡ります。この変わった形の鳥居は日吉大社から始まった「山王鳥居」というそうです。
そして鳥居を過ぎれば右に「坂本城跡公園」。坂本城とは織田信長による比叡山焼き討ちの後、比叡山延暦寺監視を命じられた明智光秀により築城されたそうです。園内にはトイレがあります。(午後0時53分)
公園内には「明智光秀像」が立っています。このコースは明智光秀ゆかりの地でもあるのです。
県道を挟んで公園の向かいにある「小唐崎神社」という小さな社の横を流れる水路に沿って進みます。すぐ北側にも小さな社が立つ水路があるので間違わないように。私は間違って入ってしまい5分ほど時間をロスしました。こんなことはちょくちょくあります「想定内」です。
次の辻を右に曲がります。角には「真宗大谷派立専寺」。
続いて左に「浄土真宗本願寺派順照寺」。街道らしい雰囲気ですね。
そしてその先の四つ辻には「坂本城址碑」。かつては大天守、小天守を擁する壮大な城だったそうですが、明智光秀が「本能寺の変」で君主・織田信長に弓を引いてからは衰退を極め遺構のほとんどは残っていないそうです。(午後1時7分)
辻を右に曲がった突き当たりには「東南寺」。延暦寺の支院で延暦年間(782~806年)に比叡山の東南に創建されたことからその名になったと言われています。本能寺の変以後、坂本城落城の際の武士たちを祀っているそうです。仏教界には「破壊者」である織田信長に対してある種の「反織田」感情はあるでしょうね。ことごとくお寺を焼き討ちしましたから。もう許しているとは思いますが。
東南寺前を左に進んでいけば県道558号線に突き当たります。正面の会社跡でしょうか門の右に「坂本城本丸跡石碑」がひっそりと立ちます。
県道を北に進めばエネオスの向かいにある「au」横に「明智塚」が。坂本城落城の際、明智光秀の脇差しが埋められた跡と伝えられているそうです。(午後1時13分)
さらに県道を進み「マクドナルド」前の辻を左に入ります。1つ目の四つ辻を過ぎた先には「両社神社」「酒井神社」という二つの神社の鳥居が向かい合って立っています。ここもかつて坂本城の城域だったのでしょうか。
先ほどの四つ辻に戻り左へ。虫籠窓のある旧家並ぶ狭い道を進みます。このコースには小さな神社や地蔵堂・祠などがたくさんあります。信仰心の深い地域なのでしょうね。そして行き交う多くの人たちを見守ったのでしょう。
左には「専念寺」。
その先には「幸神神社」。「さいのかみ」と読むようです。「さいのかみ」は「道祖神」と同意語で「道」「道行く人」「境界」などの神様だそうです。
「下阪本5丁目交差点」で県道と交わりますが、そのまま真っ直ぐ進みます。マリーナを過ぎ小さな川を渡れば右に「新唐崎公園」。トイレがあります。この公園も湖畔まで続いています。
さらに進んでいけば右に「若宮神社」という神社。(午後1時31分)
神社の向かって右側の路地に入れば突き当たりに「若宮漁港」。琵琶湖には20ほどの「漁港」があるようです。
若宮神社まで戻り、その先には「県営都市公園湖岸緑地比叡辻」。水草が水面まで生い茂る風景をみると、改めて琵琶湖は海ではなく淡水湖なんだなと感じます。
良い雰囲気の道を進んで行きます。
「カネカ」という工場の手前を左に曲がれば県道の「比叡辻交差点」に出ます。信号の向こうには「天台宗紫雲山聖衆来迎寺」。お参りしましょう。(午後1時42分)
「表門」から境内に入ります。この門は坂本城の城門を移築したものだそうです。
寺伝では「最澄」の創建と伝わり多くの建造物や美術工芸品・庭園などがあり、本堂は寛文5(1665)年の建立で国の重要文化財に指定されています。寺が所有する「絹本著色六道絵」は国宝に指定されているそうです。
参拝を終え県道を北に進みます。浄化センターや「セブンイレブン」を過ぎれば左から道路が交わり突き当りに「苗鹿常夜灯」という石灯籠が立ちます。これは弘化4(1847)年、伊勢参りの講により建てられたものだそうです。
ここを過ぎれば「雄琴温泉」です。右に「ゴールデンゲート」というアーチが見えてきました。実は雄琴温泉には「2つの顔」があります。
そのひとつがかつて「トルコ風呂」と呼ばれた「ソープランド」の密集地。今でも30軒ほどの「個室付き特殊浴場」が並びます。ただ、ここには源泉は引かれていません。
さらに進めば保養地としての「雄琴温泉」です。最澄が開いたと伝わりますが、昭和に入って温泉宿が開業し県道の山手には立派なホテルや温泉旅館が並びます。アルカリ性単純泉で「美肌の湯」と言われています。(午後2時8分)
レジャーの多様化により各地の温泉街が衰退していく中、ここは行政や地元観光協会の努力により関西の奥座敷的な存在としてリピーターも多いそうです。「大津市おごと温泉観光公園」の中には「足湯」がありました。
湖畔には「雄琴観光港」。岸壁の「雄琴湖岸緑地」には公衆トイレがあります。
ここからひたすら県道を歩きます。
遠くに見えるのは「比良山地」でしょうか。頂上には雪が残っています。
川を渡り「仰木口交差点」に出れば右折。「県立堅田高校」前を進みます。堅田高校前通過時間は午後2時50分と予想していましたが、ほぼ定刻です。
何となく良い雰囲気になってきました。「妙盛寺」というお寺の前を通り過ぎます。天正元(1573)年に建立されたそうです。
突き当たりに駐車場と公衆トイレがあります。観光地らしい雰囲気になってきましたね。(午後3時1分)
すぐ前の「湖族の郷資料館」という建物の横を入って行きましょう。「本福寺」という大きなお寺に突き当たりますので右に曲がります。
そこに「宝井其角寓居乃跡」。説明文によると宝井其角という人は松尾芭蕉の高弟のひとりで、ここはその父の屋敷だったそうです。
突き当たりを右・左と曲がれば「光徳寺」。境内には「堅田源兵衛父子殉教之碑」が立ちます。蓮如が三井寺に預けた親鸞の御真影を取り戻すため人の生首二つを求められたことから、光徳寺の門徒である堅田源兵衛父子が首を差し出したという逸話だそうです。宗教闘争って結構残虐ですね。
その先には「伊豆神社」。堅田の総鎮守社で寛平4(892)年の創建。ハートの形をした「幸福を呼ぶ石」というパワースポットがあるそうですよ。
神社を背にして南に進みます。茶舗がある四つ辻を左に曲がれば正面に「満月寺山門」。入山料300円を納め境内へ。(午後3時6分)
山門の様式を見てもわかるように臨済宗の禅寺なのですが、門の左脇にもあったようにここは「浮御堂(うきみどう)」として有名です。湖上安全と衆生済度を祈願して平安時代に建立されたそうです。
琵琶湖大橋をバックにした写真は有名ですね。ここも近江八景のひとつ「堅田落雁」で安藤広重の浮世絵には浮御堂の上を飛ぶ雁の群れが描かれています。
山門を出てすぐ右に曲がり郵便局、伊豆神社境内の横を通り過ぎます。右の小さな路地を入れば湖畔に出られたので、次回訪れる「琵琶湖大橋」を撮影しておきました。
突き当たりを右に折れれば「港橋」という小さな橋が。たもとには「琵琶湖哀歌の歌碑」。
橋を渡ってすぐに正面の路地に入ります。呉服屋さんの看板が上がっていますが今でもやっているのでしょうか。
途中右に「居初氏邸宅」。郷士の邸宅で琵琶湖を借景にした庭園が美しいそうですが閉まっていました。
そのまま道なりに進みましょう。角に「金刀比羅宮」があり、その前に案内標識が立ちます。ここは、この後訪れる「出島の灯台」とゴールである堅田駅との分岐点になっているようです。もうすぐゴールです。(午後3時26分)
すぐ先には「堅田漁港」。漁港会館という漁協の施設が建ち琵琶湖でも結構大きな漁港ではないでしょうか。しかし「潮の香り」はしません。
案内標識に従い600m先にある「出島の灯台」へ向かいます。旧家が並ぶ狭い道ですが案内標識は整備されているので迷うことはないでしょう。
集落を抜けると「出島灯台」の看板が見えてきました。「でけじま」と読むようです。(午後3時33分)
そして琵琶湖に飛び出すように櫓のような小さな灯台が立ちます。明治8(1875)年に建てられたそうですが、昭和36年9月の第2室戸台風で倒壊寸前となり地元の人たちの保存運動により昭和48年に復旧。平成元年からは点灯も再開されたそうですよ。
隣の造船所には滋賀県警の警備艇が入渠していました。やっぱり「海」なんだな。
先ほどの金刀比羅宮まで戻りゴールの堅田駅方向に進みます。あと900m。途中「堅田内湖月影公園」。「内湖」とは風や波で運ばれた土砂の堆積によりできた「潟」のようなもので琵琶湖には23の内湖があるそうです。(午後3時52分)
農業用水や淡水真珠の養殖などに利用されています。
「内湖大橋」を渡り真っ直ぐ進めば突き当たりに本日のゴールJR「堅田駅」。午後4時5分到着。「かたた」と読みます。ここから大阪駅まで約50分(1170円)。もちろん私は「高槻駅」で乗り換え阪急電車で帰ります。
本日の歩紀「43220歩」(29.38km)。結構歩きましたね。今回はかなり欲張ったコースでしたが、大津市は大阪から近いため早めの出発、遅めのゴールが可能だったので歩き通すことができました。次からは段々と大阪から離れていきますので、ちょっと早足になるかも知れませんね。
本日の一人打ち上げなのですが「琵琶湖一周歩紀」の間は、わが家の近所である「かめたにときわ台店」にさせていただきます。理由は遠距離になるので帰宅時間が遅くなってしまうからです。ただ、この店は中華を除くメニューが豊富ですのでいろいろな料理をアテに「ぷしゅー」したいと思います。まずは生中(580円税込)で「乾杯~」。ここのビールはいつも「キンキン」です。
この後「とんかつ・唐揚げセット」(1050円税込)で夕食です。
出 発:JR「大津駅」
到 着:JR「堅田駅」
「近江からはじめましょう」
日本人のルーツを求め、作家・司馬遼太郎が日本各地さらには海外まで25年間にわたって訪ねた「街道をゆく」は、この一言から始まりました。今回と次回は「街道をゆく」第一巻「湖西のみち」とおおむね同じコースを歩きます。県道沿いの市街地を歩きますので給水・トイレにはまったく困りません。
今日のスタートはJR「大津駅」。JR「大阪駅」から乗り換えなしで約40分(990円)で着きます。ただ阪急沿線に住む私は阪急電車で「高槻市駅」まで来てJRに乗り換え「高槻駅」経由で来ました。阪急電車って本当に安いんですよ。本数も多いし。午前8時42分、今日もニコニコ出発です。
駅前交番の前から中央大通りという道を北に進み、次の「京町三丁目交差点」を渡ってから右に曲がります。すぐ左に「天孫神社」。これは裏門です。
次の辻を左折して表門に向かいます。「天孫」という名前から「高千穂峰」に降臨した天照大神の孫である「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」を御祭神にしているのかと思いましたが、その子「彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)」をお祀りしているようです。(午前8時48分)
今後多くの神社にお参りすると思いますが、ここで「琵琶湖一周」完歩の安全祈願をしましょう。「舞殿」のある立派な神社です。
参拝を終え元の道に戻り真っ直ぐ進めば右に「滋賀県庁本館」。昭和14年5月に竣工したルネッサンス様式の近代建築で国の登録有形文化財に登録されています。立派な建物ですね。(午前8時52分)
琵琶湖を擁する滋賀県は人口約140万人。かつては「近江の国」と呼ばれました。これは大和政権から見て遠い湖(浜名湖)に対して近い湖(琵琶湖)ということから付けられたそうです。だから静岡県の西半分を「遠江」というそうです。面積は全国で10番目に狭いそうですが、総面積の6分の1を琵琶湖が占めるため人が住める面積は全国で一番面積が狭い香川県よりも少ないそうですよ。
さらに真っ直ぐ進み突き当たりの「松本一丁目交差点」を左折。正面に何やら天守閣のような建物が見えてきました。
この建物は「滋賀県立琵琶湖文化館」。滋賀県内の文化財や淡水魚を展示する施設だったそうですが平成20年から休館しているようです。背後には琵琶湖が開け湖畔に建つ象徴的な建物ですので、ここをビワイチのスタート&ゴールにする人も多いようですね。(午前9時3分)
向かって右側にはかつて明智光秀の弟・明智左馬之助が馬で琵琶湖を渡ったという伝説にちなみ「明智左馬之助湖水渡り」の石碑が立ちます。せっかく碑が立っているのに柵が邪魔ですね。
さて私もここを琵琶湖一周のスタートとします。私の歩紀は時計回りですので左に進みます。文化館を過ぎれば駐車場を抜けて「なぎさ公園」に入りましょう。
右には水上警察と水上消防の合同庁舎が。琵琶湖には海上自衛隊も海上保安庁もいないので警察・消防だけが頼りですね。
ここは「大津港」。琵琶湖で最も大きい港です。午前9時40分発のクルーズ船「ミシガン」が泊まっていました。私は乗ったことはないのですが乗った人の話では「動くレストラン」だと言っていましたよ。(午前9時17分)
ロータリーの先を南に進めば県道558号線に合流します。「大津港口交差点」の角には「大津城跡」の石碑が。天正13(1585)年、豊臣秀吉の命により築城され関ヶ原の戦での「大津籠城」が有名だそうですが、ほとんど遺構は残っていないそうです。
そのまま県道を進み橋の手前から右を眺めれば何やらレトロチックな木造建造物が。「旧第三高等学校(現京都大学)艇庫」だそうです。三高伝統の琵琶湖周航はここから出発したそうですよ。今は別のボートクラブが使用しています。
艇庫手前の公園の中には「琵琶湖周航の歌」歌碑。
♪ われは湖の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと 昇る狭霧や
さざなみの 志賀の都よ いざさらば ♪(1番)
そして先ほどの橋に戻り琵琶湖と反対側を見れば取水口のようなものが見えます。これは「琵琶湖疎水第一疎水揚水機場」と言うそうです。この川のような流れは「琵琶湖疎水」です。つまり琵琶湖に注ぐのではなく、ここから始まり最終的には大阪湾に注ぎます。(午前9時41分)
疎水「左岸」を歩き京阪電鉄の「三井寺駅」を過ぎます。
「北国橋」を越えて次の辻を右に曲がり橋を渡ります。この流れは明治23年に完成した「琵琶湖第一疎水」と言うそうです。桜がきれいでしょうね。橋を渡って左に曲がり「右岸」を進みます。
鳥居が見えてくれば右の筋に入り正面に見える門に向かって歩きます。鳥居は「三尾神社」。門はこれから訪れる「三井寺」の総門です。門はくぐらず右へ曲がりましょう。
少し進めば「園城寺町交差点」に出ます。三井寺の正式名称は「長等山園城寺(おんじょうじ)」と言うそうです。天智・天武・持統三帝の産湯に用いられた井戸があることから「三井寺」と呼ばれるようになったそうです。また桜の名所でもあり夜はライトアップされます。参拝しましょう。
駐車場を過ぎれば正面に「仁王門」。宝徳4(1452)年の建築で元は常楽寺というお寺の山門でしたが、伏見城などに移築された後、慶長6(1601)年、徳川家康によって三井寺に寄進されました。国の重要文化財です。仁王門をくぐり入山料(600円)を納め境内に進みます。(午前9時56分)
順路に従い進んで行けば本堂である「金堂」。御本尊は弥勒菩薩で慶長4(1599)年に完成した間口23mを越える巨大な木造建造物は、国宝そしてユネスコ文化遺産にも認定されています。
本堂の右手には「鐘楼」。慶長7年(1602)年に建立され国の重要文化財に指定されています。
梵鐘は近江八景のひとつ「三井晩鐘」です。
石段を上れば「霊鐘堂」。中には「弁慶引摺鐘」と呼ばれる梵鐘が。
霊鐘堂の先には「一切経蔵」。室町時代に建てられた国の重要文化財です。
さらに進めば「三重塔」。かつて奈良吉野にあった比蘇寺という寺の東塔を徳川家康が移築寄進したものです。
三重塔とこの「潅頂堂」「大師堂」を合わせた三棟は「唐院」と呼ばれ、いずれも国の重要文化財に指定されています。
三井寺は天台寺門宗総本山であり平安時代、第五代天台座主・智証大師円珍和尚により天台別院として中興された1200年以上の歴史を有する古刹です。(三井寺ホームページより)
境内の西端には「微妙寺」。
道なりに南に下って行けば「毘沙門堂」。江戸時代である元和2(1616)年に建立され、これも国の重要文化財です。
毘沙門堂前の石段を上れば「観音堂」。西国三十三所観音霊場の第十四番札所として多くの信仰を集めています。札所は本堂からちょっと離れているんですね。
観音堂前の展望台から大津市内を眺めます。関西地方以外の方にとっては馴染みが薄いかも知れませんが、滋賀県の県庁所在地である大津市は滋賀県南西部に位置し人口約35万人。667年に天智天皇が「志賀の都」とも呼ばれる「近江大津宮」を置いた歴史ある町でもあります。
観音堂前の階段を下りれば自然と境内の外に出ます(午前10時25分)。左に曲がればちょっとコースがだぶってしまうのですが、参拝前に通過した「総門」の前を通って「園城寺町交差点」へ出るのでそのまま真っ直ぐ。県立大津商業高校や大津市役所を左に見ながら進みます。
消防署を過ぎると案内表示がありますので「法明院・弘文天皇陵」方向に左折します。すぐに「弘文天皇御陵参拝道」と刻まれた石標が立ちます。
そのまま真っ直ぐ進み案内表示に従って左に曲がれば右角に「地蔵尊」と刻まれた小さな石碑がありますが、その向かいにある「大津市庁舎第2別館」前の脇道に入っていきましょう。
そこにひっそりと「弘文天皇長等山前陵」が佇みます。ここが第38代天智天皇の第一皇子として誕生した「弘文天皇」の陵所とされています。(午前10時37分)
ただ「大友皇子」と呼ばれ皇位を継承するはずだったところ、天智天皇の弟・大海人皇子(のちの天武天皇)との皇位継承争い(壬申の乱)に敗れて自害し、日本書紀には即位の記述がなく明治政府になってから第39代弘文天皇の諡号が与えられました。
そして背景の森に溶け込んでいるのでうっかりすると見落としてしまいそうですが、弘文天皇陵前に大きな石鳥居があるので入って行きます。
奥には「新羅善神堂(しんらぜんしんどう)」。街道をゆくでは「新羅神社」として登場します。(午前10時41分)
琵琶湖周航の歌1番でも歌われていますが、滋賀県南西部のこの辺りは「楽浪(さざなみ)の志賀」と呼ばれ、朝鮮半島にも「楽浪(らくろう)」という地名があることから司馬遼太郎は「楽浪」と「新羅」は同義であり近江と古代朝鮮とのつながりを指摘しています。
先ほど訪れた三井寺の鎮守社で暦応3(1339)年、足利尊氏により再建されたと伝わり本尊の新羅明神坐像とともに国宝に指定されています。何でもない小さなお堂ですが「国宝」ですよ。
お堂の右にある通用門を抜ければ先ほどの「地蔵尊碑」前に出るので市役所の通りまで戻り左へ。京阪電車に沿って進みます。JR湖西線のガードをくぐれば左に「皇子が丘公園」。「近江大津宮」がこの辺りにあったと推定されていますが、大友皇子(弘文天皇)が自害したため5年ほどで廃都となりました。
発掘調査も行われたようですが、付近の宅地化も進み現在のところ大津宮の詳細はわからないようです。この広大な「皇子が丘公園」も史跡公園というよりはスポーツ公園です。
そのまま真っ直ぐ進めば「史跡近江大津京錦織遺跡第8地点」と書かれた案内表示が立ちます。見たところ単なる草っぱらという感じです。(午前10時58分)
その奥の「第1地点」はちょっと公園っぽい感じです。
その隣の「第2地点」は柱跡でしょうか円柱が並びます。何カ所かこのような跡が残るだけです。この向かいにも「第7地点」「第9地点」の標識が立っていますが、住宅建築前の「更地」といった感じです。
さらに進み橋を渡って右にカーブすれば「近江神宮」の第一鳥居前に出ます。(午前11時5分)
鳥居をくぐって表参道へ。前半は何かバザーの日だったのでしょうか。キッチンカーやフリマなどが並んでいましたが、この参道は「木洩れ日の道」と言います。前には第二鳥居も見えてきました。
第二鳥居をくぐり右へ進めば手水舎横に朱色に輝く「楼門」が。
「外拝殿」でお参りします。近江神宮は大津に都を開いた天智天皇を御祭神とする神社ですが、創建は新しく昭和15年、紀元2600年を記念して建立されたそうです。
天智政権は古代朝鮮の百済とともに唐・新羅の連合軍と戦い「白村江の戦い」で大敗したことから唐・新羅の侵攻(報復)を恐れここ近江の国に遷都しました。そのため湖国・近江では天智天皇に対する信仰が深いそうです。
また天智天皇は「漏刻」という水時計を作られたことから「時」「時計」の神様としても崇められ、境内には水時計・日時計のモニュメントや時計館なども見られます。
さらに小倉百人一首における天智天皇の御製が国民に親しまれたことから「歌かるた」の聖地となり、毎年「かるたクイーン決定戦」を初めとした各種かるた選手権大会が開かれるほか映画「ちはやふる」の舞台にもなったそうです。
参拝を終え一の鳥居前を左に。すぐ横にある歩道橋前に小さな歩行者用踏切があるのですが、さらに線路沿いに進み2つ目の歩行者用踏切で京阪線を渡ります。住宅街、湖西線のガードを過ぎて東へ。
やがて県道558号線に突き当たるので左に曲がります。正面には大きな施設が。「陸上自衛隊大津駐屯地」でした。この辺りから大津の市街地を後にします。(午前11時42分)
長年の経験からだいたいこの時間にここへ着くことはわかっていました。今日の昼食は「天下一品唐崎店」です。私はこれまでちょっとお洒落な店や昭和レトロ感溢れる洋食屋などで昼食をしてきましたが、今はファミレスやフランチャイズ系の店にはまっています。個人経営の店は休日でも休んでいたりしますが、日本の外食産業はクオリティー高いうえ営業時間や休日がはっきりしているので助かります。
「あっさり屋台ラーメン定食」(1200円税込)を注文。麺が延びちゃうので写真に撮った後すぐに箸をつけましたが、この後「ミニ炒飯」が来ます。
午後0時25分、昼食を終えさらに県道を進み「ミニストップ」が右に見えてくれば案内表示に従い脇道にそれます。7~80mで右に道が見えてくるので曲がりましょう。電柱の横に「白鬚」「天保七」と刻まれた道標が埋まっています。その先には鳥居が。
そこは「唐崎神社」。(午後0時29分)
鳥居前には「みたらし団子屋」さんがあります。ここは日吉大社の摂社であり毎年7月、日吉大社の祭礼である「みたらし祭」がここで開かれることに因むようです。手筒花火などもある大きなお祭りのようですよ。
神殿に比べて結構広い境内は琵琶湖に面しており、ここは近江八景のひとつ「唐崎夜雨」です。
広々とした良い雰囲気の神社ですよ。
道標の辻まで戻り右へ曲がります。右には「県営都市公園」。トイレがあります。
大塚食品(製薬)の施設やホテル過ぎると右に琵琶湖の景色が広がります。このすぐ西方向に「穴太(あのう)」という地域があります。「古事記」には、その付近に第13代成務天皇が「志賀高穴穂宮」という皇居を構えたと記載されていますが、学術的には成務天皇の存在自体定かではないそうで遺構もまったく確認されていません。「街道をゆく」でも触れられています。ただそれなりの権力者はいたのでしょうね。
そのまま進んで行けば湖畔に「日吉大社七本柳鳥居」。日吉大社は比叡山の麓に鎮座し、神仏習合時代も含め厄除けにご利益があるそうですよ。(午後0時51分)
そして毎年4月に行われる「山王祭」で、ここから船渡御が行われ神輿は先ほどの唐津神社沖合を巡ります。この変わった形の鳥居は日吉大社から始まった「山王鳥居」というそうです。
そして鳥居を過ぎれば右に「坂本城跡公園」。坂本城とは織田信長による比叡山焼き討ちの後、比叡山延暦寺監視を命じられた明智光秀により築城されたそうです。園内にはトイレがあります。(午後0時53分)
公園内には「明智光秀像」が立っています。このコースは明智光秀ゆかりの地でもあるのです。
県道を挟んで公園の向かいにある「小唐崎神社」という小さな社の横を流れる水路に沿って進みます。すぐ北側にも小さな社が立つ水路があるので間違わないように。私は間違って入ってしまい5分ほど時間をロスしました。こんなことはちょくちょくあります「想定内」です。
次の辻を右に曲がります。角には「真宗大谷派立専寺」。
続いて左に「浄土真宗本願寺派順照寺」。街道らしい雰囲気ですね。
そしてその先の四つ辻には「坂本城址碑」。かつては大天守、小天守を擁する壮大な城だったそうですが、明智光秀が「本能寺の変」で君主・織田信長に弓を引いてからは衰退を極め遺構のほとんどは残っていないそうです。(午後1時7分)
辻を右に曲がった突き当たりには「東南寺」。延暦寺の支院で延暦年間(782~806年)に比叡山の東南に創建されたことからその名になったと言われています。本能寺の変以後、坂本城落城の際の武士たちを祀っているそうです。仏教界には「破壊者」である織田信長に対してある種の「反織田」感情はあるでしょうね。ことごとくお寺を焼き討ちしましたから。もう許しているとは思いますが。
東南寺前を左に進んでいけば県道558号線に突き当たります。正面の会社跡でしょうか門の右に「坂本城本丸跡石碑」がひっそりと立ちます。
県道を北に進めばエネオスの向かいにある「au」横に「明智塚」が。坂本城落城の際、明智光秀の脇差しが埋められた跡と伝えられているそうです。(午後1時13分)
さらに県道を進み「マクドナルド」前の辻を左に入ります。1つ目の四つ辻を過ぎた先には「両社神社」「酒井神社」という二つの神社の鳥居が向かい合って立っています。ここもかつて坂本城の城域だったのでしょうか。
先ほどの四つ辻に戻り左へ。虫籠窓のある旧家並ぶ狭い道を進みます。このコースには小さな神社や地蔵堂・祠などがたくさんあります。信仰心の深い地域なのでしょうね。そして行き交う多くの人たちを見守ったのでしょう。
左には「専念寺」。
その先には「幸神神社」。「さいのかみ」と読むようです。「さいのかみ」は「道祖神」と同意語で「道」「道行く人」「境界」などの神様だそうです。
「下阪本5丁目交差点」で県道と交わりますが、そのまま真っ直ぐ進みます。マリーナを過ぎ小さな川を渡れば右に「新唐崎公園」。トイレがあります。この公園も湖畔まで続いています。
さらに進んでいけば右に「若宮神社」という神社。(午後1時31分)
神社の向かって右側の路地に入れば突き当たりに「若宮漁港」。琵琶湖には20ほどの「漁港」があるようです。
若宮神社まで戻り、その先には「県営都市公園湖岸緑地比叡辻」。水草が水面まで生い茂る風景をみると、改めて琵琶湖は海ではなく淡水湖なんだなと感じます。
良い雰囲気の道を進んで行きます。
「カネカ」という工場の手前を左に曲がれば県道の「比叡辻交差点」に出ます。信号の向こうには「天台宗紫雲山聖衆来迎寺」。お参りしましょう。(午後1時42分)
「表門」から境内に入ります。この門は坂本城の城門を移築したものだそうです。
寺伝では「最澄」の創建と伝わり多くの建造物や美術工芸品・庭園などがあり、本堂は寛文5(1665)年の建立で国の重要文化財に指定されています。寺が所有する「絹本著色六道絵」は国宝に指定されているそうです。
参拝を終え県道を北に進みます。浄化センターや「セブンイレブン」を過ぎれば左から道路が交わり突き当りに「苗鹿常夜灯」という石灯籠が立ちます。これは弘化4(1847)年、伊勢参りの講により建てられたものだそうです。
ここを過ぎれば「雄琴温泉」です。右に「ゴールデンゲート」というアーチが見えてきました。実は雄琴温泉には「2つの顔」があります。
そのひとつがかつて「トルコ風呂」と呼ばれた「ソープランド」の密集地。今でも30軒ほどの「個室付き特殊浴場」が並びます。ただ、ここには源泉は引かれていません。
さらに進めば保養地としての「雄琴温泉」です。最澄が開いたと伝わりますが、昭和に入って温泉宿が開業し県道の山手には立派なホテルや温泉旅館が並びます。アルカリ性単純泉で「美肌の湯」と言われています。(午後2時8分)
レジャーの多様化により各地の温泉街が衰退していく中、ここは行政や地元観光協会の努力により関西の奥座敷的な存在としてリピーターも多いそうです。「大津市おごと温泉観光公園」の中には「足湯」がありました。
湖畔には「雄琴観光港」。岸壁の「雄琴湖岸緑地」には公衆トイレがあります。
ここからひたすら県道を歩きます。
遠くに見えるのは「比良山地」でしょうか。頂上には雪が残っています。
川を渡り「仰木口交差点」に出れば右折。「県立堅田高校」前を進みます。堅田高校前通過時間は午後2時50分と予想していましたが、ほぼ定刻です。
何となく良い雰囲気になってきました。「妙盛寺」というお寺の前を通り過ぎます。天正元(1573)年に建立されたそうです。
突き当たりに駐車場と公衆トイレがあります。観光地らしい雰囲気になってきましたね。(午後3時1分)
すぐ前の「湖族の郷資料館」という建物の横を入って行きましょう。「本福寺」という大きなお寺に突き当たりますので右に曲がります。
そこに「宝井其角寓居乃跡」。説明文によると宝井其角という人は松尾芭蕉の高弟のひとりで、ここはその父の屋敷だったそうです。
突き当たりを右・左と曲がれば「光徳寺」。境内には「堅田源兵衛父子殉教之碑」が立ちます。蓮如が三井寺に預けた親鸞の御真影を取り戻すため人の生首二つを求められたことから、光徳寺の門徒である堅田源兵衛父子が首を差し出したという逸話だそうです。宗教闘争って結構残虐ですね。
その先には「伊豆神社」。堅田の総鎮守社で寛平4(892)年の創建。ハートの形をした「幸福を呼ぶ石」というパワースポットがあるそうですよ。
神社を背にして南に進みます。茶舗がある四つ辻を左に曲がれば正面に「満月寺山門」。入山料300円を納め境内へ。(午後3時6分)
山門の様式を見てもわかるように臨済宗の禅寺なのですが、門の左脇にもあったようにここは「浮御堂(うきみどう)」として有名です。湖上安全と衆生済度を祈願して平安時代に建立されたそうです。
琵琶湖大橋をバックにした写真は有名ですね。ここも近江八景のひとつ「堅田落雁」で安藤広重の浮世絵には浮御堂の上を飛ぶ雁の群れが描かれています。
山門を出てすぐ右に曲がり郵便局、伊豆神社境内の横を通り過ぎます。右の小さな路地を入れば湖畔に出られたので、次回訪れる「琵琶湖大橋」を撮影しておきました。
突き当たりを右に折れれば「港橋」という小さな橋が。たもとには「琵琶湖哀歌の歌碑」。
橋を渡ってすぐに正面の路地に入ります。呉服屋さんの看板が上がっていますが今でもやっているのでしょうか。
途中右に「居初氏邸宅」。郷士の邸宅で琵琶湖を借景にした庭園が美しいそうですが閉まっていました。
そのまま道なりに進みましょう。角に「金刀比羅宮」があり、その前に案内標識が立ちます。ここは、この後訪れる「出島の灯台」とゴールである堅田駅との分岐点になっているようです。もうすぐゴールです。(午後3時26分)
すぐ先には「堅田漁港」。漁港会館という漁協の施設が建ち琵琶湖でも結構大きな漁港ではないでしょうか。しかし「潮の香り」はしません。
案内標識に従い600m先にある「出島の灯台」へ向かいます。旧家が並ぶ狭い道ですが案内標識は整備されているので迷うことはないでしょう。
集落を抜けると「出島灯台」の看板が見えてきました。「でけじま」と読むようです。(午後3時33分)
そして琵琶湖に飛び出すように櫓のような小さな灯台が立ちます。明治8(1875)年に建てられたそうですが、昭和36年9月の第2室戸台風で倒壊寸前となり地元の人たちの保存運動により昭和48年に復旧。平成元年からは点灯も再開されたそうですよ。
隣の造船所には滋賀県警の警備艇が入渠していました。やっぱり「海」なんだな。
先ほどの金刀比羅宮まで戻りゴールの堅田駅方向に進みます。あと900m。途中「堅田内湖月影公園」。「内湖」とは風や波で運ばれた土砂の堆積によりできた「潟」のようなもので琵琶湖には23の内湖があるそうです。(午後3時52分)
農業用水や淡水真珠の養殖などに利用されています。
「内湖大橋」を渡り真っ直ぐ進めば突き当たりに本日のゴールJR「堅田駅」。午後4時5分到着。「かたた」と読みます。ここから大阪駅まで約50分(1170円)。もちろん私は「高槻駅」で乗り換え阪急電車で帰ります。
本日の歩紀「43220歩」(29.38km)。結構歩きましたね。今回はかなり欲張ったコースでしたが、大津市は大阪から近いため早めの出発、遅めのゴールが可能だったので歩き通すことができました。次からは段々と大阪から離れていきますので、ちょっと早足になるかも知れませんね。
本日の一人打ち上げなのですが「琵琶湖一周歩紀」の間は、わが家の近所である「かめたにときわ台店」にさせていただきます。理由は遠距離になるので帰宅時間が遅くなってしまうからです。ただ、この店は中華を除くメニューが豊富ですのでいろいろな料理をアテに「ぷしゅー」したいと思います。まずは生中(580円税込)で「乾杯~」。ここのビールはいつも「キンキン」です。
この後「とんかつ・唐揚げセット」(1050円税込)で夕食です。
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