明日のあざ六+の街歩きで「梅」の話を十分ほどするのでここで話す内容を確認してみます。
ウメはバラ科サクラ属の落葉小高木。
原産は中国、殷代の遺跡(紀元前14から紀元前12世紀ころ)から梅の種が出土しているようで、この頃には食用または薬用として用いられていました。
日本には弥生時代にもたらされたといわれていますが、九州には野生といわれている梅もあり、日本原産説も浮上しているそうです。
中国では前漢から唐代(紀元前3から紀元後7世紀)には梅の花を鑑賞する風習ができあがり、日本にも遣唐使とともに、梅の文化がもたらされました。
その当時は白梅でしたが、平安時代に紅梅ももたらされ、日本の風土に合致して、今では300種類の品種があります。
遣唐使が廃止されるまでは、中国文化への憧れが、観梅の宴など梅の花を愛でることが盛んになることに現れ、文化的な花としての位置に上り詰めます。
万葉集には、萩についで詠まれた歌が多く、118首あります。
また、平安京紫宸殿前に植えられていたのが「左近の梅」でした。
王朝貴族を代表する花だったのです。
「左近の梅」は村上天皇の時代(遣唐使の廃止から数十年後)に「左近の桜」に植え替えられます。
唐風文化から国風文化への転換を目の当たりにする事件です。
遣唐使の廃止といえば、天神様で知られる菅原道真は、こよなく梅を愛したことで知られています。
飛梅伝説や、天神様の神紋が梅紋であることなど、梅とは切っても切れない縁があります。
道真は、梅を代表する最後の人物なのかもしれません。
湯島天神のしだれ梅
遣唐使の廃止後、梅の地位は桜に変わられますが、鎌倉以降は中国との関わりのある禅宗の隆盛など、また再評価され、桃山以降は茶花としても利用されていきます。
江戸以降は、花の品種改良がされたり、盆梅といわれる盆栽の梅の流行がおこったりします。
また枝ぶりの良さを競うことなども行われ、亀戸や向島の梅屋敷など名所も生まれます。
「江戸名所図會」の亀戸梅屋敷・臥龍梅
亀戸梅屋敷の旧地に近い小村井の梅
またウメは、食用ともなることからその栽培が広かっていきました。
元来は中国の「烏梅(ウメイ)」というウメを燻蒸した漢方薬として入ったものだそうです。
ウメの名前もここから来ているそうです。
平安時代には、塩漬けの「梅干し」が誕生し、江戸時代には一般庶民の口にも入るようになりました。
また、藩が栽培を奨励して、「豊後梅」などの果実系の品種も作り出されています。
「豊後梅」っていうのは、アンズとの交雑種だそうで、実も大きく、開花の時期もアンズの花の咲く時期に近く、だいぶ遅咲きです。
「桜伐る馬鹿 梅伐らぬ馬鹿」という言葉がありますが、桜は切り口から菌が入り枯れやすく、梅は剪定しないと樹形が崩れ実の付きも悪くなることからいわれるそうです。
梅は、枝ぶりを楽しむ木だということからも選定が大事だということでしょう。
最近、桜に関しては、リンゴの栽培方法が取り入れられて、剪定してすぐ消毒する方法で、古い木の活性化を行っているようです。
一概にことわざ通りではなくなっています。
先ほど書いた「烏梅」ですが、日本の伝統工芸に欠かすことのできないものだそうです。
それは紅花染色で、媒染剤として使われたのです。
紅の色を鮮やかにするためにウメを使うというアイデアは誰が考えたのでしょう。
奈良月ヶ瀬の梅林はこの紅花染めのために作られた梅林だそうです。
梅にもいろいろと楽しい話が満載です。
*最初の画像は、隅田公園の形のいい梅の木
ウメはバラ科サクラ属の落葉小高木。
原産は中国、殷代の遺跡(紀元前14から紀元前12世紀ころ)から梅の種が出土しているようで、この頃には食用または薬用として用いられていました。
日本には弥生時代にもたらされたといわれていますが、九州には野生といわれている梅もあり、日本原産説も浮上しているそうです。
中国では前漢から唐代(紀元前3から紀元後7世紀)には梅の花を鑑賞する風習ができあがり、日本にも遣唐使とともに、梅の文化がもたらされました。
その当時は白梅でしたが、平安時代に紅梅ももたらされ、日本の風土に合致して、今では300種類の品種があります。
遣唐使が廃止されるまでは、中国文化への憧れが、観梅の宴など梅の花を愛でることが盛んになることに現れ、文化的な花としての位置に上り詰めます。
万葉集には、萩についで詠まれた歌が多く、118首あります。
また、平安京紫宸殿前に植えられていたのが「左近の梅」でした。
王朝貴族を代表する花だったのです。
「左近の梅」は村上天皇の時代(遣唐使の廃止から数十年後)に「左近の桜」に植え替えられます。
唐風文化から国風文化への転換を目の当たりにする事件です。
遣唐使の廃止といえば、天神様で知られる菅原道真は、こよなく梅を愛したことで知られています。
飛梅伝説や、天神様の神紋が梅紋であることなど、梅とは切っても切れない縁があります。
道真は、梅を代表する最後の人物なのかもしれません。
湯島天神のしだれ梅
遣唐使の廃止後、梅の地位は桜に変わられますが、鎌倉以降は中国との関わりのある禅宗の隆盛など、また再評価され、桃山以降は茶花としても利用されていきます。
江戸以降は、花の品種改良がされたり、盆梅といわれる盆栽の梅の流行がおこったりします。
また枝ぶりの良さを競うことなども行われ、亀戸や向島の梅屋敷など名所も生まれます。
「江戸名所図會」の亀戸梅屋敷・臥龍梅
亀戸梅屋敷の旧地に近い小村井の梅
またウメは、食用ともなることからその栽培が広かっていきました。
元来は中国の「烏梅(ウメイ)」というウメを燻蒸した漢方薬として入ったものだそうです。
ウメの名前もここから来ているそうです。
平安時代には、塩漬けの「梅干し」が誕生し、江戸時代には一般庶民の口にも入るようになりました。
また、藩が栽培を奨励して、「豊後梅」などの果実系の品種も作り出されています。
「豊後梅」っていうのは、アンズとの交雑種だそうで、実も大きく、開花の時期もアンズの花の咲く時期に近く、だいぶ遅咲きです。
「桜伐る馬鹿 梅伐らぬ馬鹿」という言葉がありますが、桜は切り口から菌が入り枯れやすく、梅は剪定しないと樹形が崩れ実の付きも悪くなることからいわれるそうです。
梅は、枝ぶりを楽しむ木だということからも選定が大事だということでしょう。
最近、桜に関しては、リンゴの栽培方法が取り入れられて、剪定してすぐ消毒する方法で、古い木の活性化を行っているようです。
一概にことわざ通りではなくなっています。
先ほど書いた「烏梅」ですが、日本の伝統工芸に欠かすことのできないものだそうです。
それは紅花染色で、媒染剤として使われたのです。
紅の色を鮮やかにするためにウメを使うというアイデアは誰が考えたのでしょう。
奈良月ヶ瀬の梅林はこの紅花染めのために作られた梅林だそうです。
梅にもいろいろと楽しい話が満載です。
*最初の画像は、隅田公園の形のいい梅の木
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