不思議な名前の寺が杉並の方南町にあります。
名前は釜寺、正式名称は東運寺。
環七を通るバスの停留所名にも「釜寺」があるように付近では有名な寺です。
停留所名になるくらいだからさぞ大きな寺だと思ったら、意外にこじんまりした寺でちょっとびっくり。お寺に入って本堂に進むと話に聞いていた通りに屋根の上にお釜が乗っていました。この寺が通称「釜寺」と呼ばれるのはこのためなのです。
しかし不思議な眺め。
この寺の縁起は、次のように伝えられています。
戦国時代の天正元年、備前国の一安上人という僧が「身代り地蔵尊」を奉じてこの地にやってきます。その時に、この地の大地主の鈴木伊兵衛が帰依して屋敷を寄進し、念仏堂としたのが始まりということです。
それなのでしょうか?身代わり地蔵が、寺の門前にあります。
この言い伝えは、元禄のころ住職であった祐梵上人が由緒書に書いたことだそうです。
元禄といえば、赤穂事件が元禄十四年に起きています。
赤穂浅野家の浪人が吉良上野介の本所屋敷へ主君の敵討に押し入った年です。赤穂藩浅野家の当主浅野内匠頭は元禄十三年(1701)三月十四日、江戸城松の廊下で、高家筆頭吉良上野介に刃傷におよんで即日切腹させられました。
この寺の山門は、そのとき内匠頭が切腹した芝田村町(現在の西新橋)にあった奥州一関城主田村右京大夫の屋敷の脇門で、内匠頭の遺体を運び出した不浄門でしたが、所縁の人によって昭和二十八年(1953)に当山に寄進されたといいます。
さて、屋根の上にある釜の由来について調べてみました。
一安上人の「身代り地蔵尊」というのが、「山椒大夫」の話でおなじみの安寿と厨子王が、として売られた先で釜ゆでにされそうになったときに、坊さんの姿になって二人を助けた守り本尊だと伝えられているそうです。
この言い伝えにちなんで、本堂の屋根に釜を置くようになったのだそうです。
もっとも現在の釜は、昭和二十年の戦災で本堂が焼失したため、戦後に当地の信者が寄進したもので、米一表、60kgを炊くことのできる大釜だそうです。
さて、ここでいつもの疑問が頭をもたげてきました。
「山椒大夫」というと森鴎外のものが有名だけど、原拠は江戸時代に流布していた説教節の「さんしょう大夫」です。この「さんしょう太夫」を劇作家のふじたあさや氏が戯曲にした「さんしょう大夫」の上演に劇団在団中に関ったことがあります。
その「さんしょう大夫」には釜ゆでの場面は出てきません。では原拠の説教節ではどうなのかと改めて翻刻されている説教節の「さんしょう太夫」を読んでみました。
説教節「さんしょう大夫」は丹後の国にある金焼地蔵の由来を語るという形式で話が進められています。安寿と厨子王が山椒大夫から額に焼きごてを当てられるという罰を与えられたときに、守り本尊の地蔵菩薩が身代わりになり、額にできた傷をわが身に受けるというものです。釜ゆでの話はまったく本文には出てきません。
『丹後の国、金焼地蔵のご本地を語り申す。』で始まるから、どう考えても『釜茹地蔵』ではないのです。もし釜茹でなら『釜茹地蔵』になっていたはずです。
ちなもに明治時代に書かれた森鴎外の「山椒大夫」には、二人の夢としてこの焼きごての身代わりの話が盛り込まれていますが、こちらにも釜ゆでの話は出てきません。
また、守り本尊の地蔵は肌守りとして安寿と厨子王が持っていたもので、巨大な石の地蔵ではありません。寺の本尊が寺の門前にあるのは不思議な話で、ご本尊は本堂にあるべきものです。では釜寺・東運寺の本尊はどういういわれのものだろうか。
ではなぜ釜寺のお釜の由来が安寿と厨子王といわれたのであろうか?まったくの謎です。
ほかの説教節の逸話と間違われたか?「さんしょう大夫」に異本があるのか?
はなはだ不思議な話です。
それよりもこのお釜が屋根に乗った本当の理由は何なのかますます知りたくなってきます。
飢饉を長く忘れないためだったのでしょうか?
杉並区の歴史を調べていると出版物でもネットでも、釜茹での話が出てきます。最初の間違えはどこから起こったか興味深いですね。それに、改めていい加減なことは書けないなと心から思いました。
名前は釜寺、正式名称は東運寺。
環七を通るバスの停留所名にも「釜寺」があるように付近では有名な寺です。
停留所名になるくらいだからさぞ大きな寺だと思ったら、意外にこじんまりした寺でちょっとびっくり。お寺に入って本堂に進むと話に聞いていた通りに屋根の上にお釜が乗っていました。この寺が通称「釜寺」と呼ばれるのはこのためなのです。
しかし不思議な眺め。
この寺の縁起は、次のように伝えられています。
戦国時代の天正元年、備前国の一安上人という僧が「身代り地蔵尊」を奉じてこの地にやってきます。その時に、この地の大地主の鈴木伊兵衛が帰依して屋敷を寄進し、念仏堂としたのが始まりということです。
それなのでしょうか?身代わり地蔵が、寺の門前にあります。
この言い伝えは、元禄のころ住職であった祐梵上人が由緒書に書いたことだそうです。
元禄といえば、赤穂事件が元禄十四年に起きています。
赤穂浅野家の浪人が吉良上野介の本所屋敷へ主君の敵討に押し入った年です。赤穂藩浅野家の当主浅野内匠頭は元禄十三年(1701)三月十四日、江戸城松の廊下で、高家筆頭吉良上野介に刃傷におよんで即日切腹させられました。
この寺の山門は、そのとき内匠頭が切腹した芝田村町(現在の西新橋)にあった奥州一関城主田村右京大夫の屋敷の脇門で、内匠頭の遺体を運び出した不浄門でしたが、所縁の人によって昭和二十八年(1953)に当山に寄進されたといいます。
さて、屋根の上にある釜の由来について調べてみました。
一安上人の「身代り地蔵尊」というのが、「山椒大夫」の話でおなじみの安寿と厨子王が、として売られた先で釜ゆでにされそうになったときに、坊さんの姿になって二人を助けた守り本尊だと伝えられているそうです。
この言い伝えにちなんで、本堂の屋根に釜を置くようになったのだそうです。
もっとも現在の釜は、昭和二十年の戦災で本堂が焼失したため、戦後に当地の信者が寄進したもので、米一表、60kgを炊くことのできる大釜だそうです。
さて、ここでいつもの疑問が頭をもたげてきました。
「山椒大夫」というと森鴎外のものが有名だけど、原拠は江戸時代に流布していた説教節の「さんしょう大夫」です。この「さんしょう太夫」を劇作家のふじたあさや氏が戯曲にした「さんしょう大夫」の上演に劇団在団中に関ったことがあります。
その「さんしょう大夫」には釜ゆでの場面は出てきません。では原拠の説教節ではどうなのかと改めて翻刻されている説教節の「さんしょう太夫」を読んでみました。
説教節「さんしょう大夫」は丹後の国にある金焼地蔵の由来を語るという形式で話が進められています。安寿と厨子王が山椒大夫から額に焼きごてを当てられるという罰を与えられたときに、守り本尊の地蔵菩薩が身代わりになり、額にできた傷をわが身に受けるというものです。釜ゆでの話はまったく本文には出てきません。
『丹後の国、金焼地蔵のご本地を語り申す。』で始まるから、どう考えても『釜茹地蔵』ではないのです。もし釜茹でなら『釜茹地蔵』になっていたはずです。
ちなもに明治時代に書かれた森鴎外の「山椒大夫」には、二人の夢としてこの焼きごての身代わりの話が盛り込まれていますが、こちらにも釜ゆでの話は出てきません。
また、守り本尊の地蔵は肌守りとして安寿と厨子王が持っていたもので、巨大な石の地蔵ではありません。寺の本尊が寺の門前にあるのは不思議な話で、ご本尊は本堂にあるべきものです。では釜寺・東運寺の本尊はどういういわれのものだろうか。
ではなぜ釜寺のお釜の由来が安寿と厨子王といわれたのであろうか?まったくの謎です。
ほかの説教節の逸話と間違われたか?「さんしょう大夫」に異本があるのか?
はなはだ不思議な話です。
それよりもこのお釜が屋根に乗った本当の理由は何なのかますます知りたくなってきます。
飢饉を長く忘れないためだったのでしょうか?
杉並区の歴史を調べていると出版物でもネットでも、釜茹での話が出てきます。最初の間違えはどこから起こったか興味深いですね。それに、改めていい加減なことは書けないなと心から思いました。