昔から不思議に思っていたことがあります。
千葉県松戸市に「都営八柱霊園」があること・・・・・・。
東京なのに東京じゃない?
そこは東京都の飛び地なのだろうか?
子供心に不思議でした。
行ったことないし、桜もきれいらしいから、行ってみようか・・・・と出かけました。
降り立ったのは、北総線の松飛台駅。
松飛台って、これも不思議な名前ですが調べてみると、陸軍松戸飛行場があった場所にちなんでつけられた地名のようです。
それにしても北総線は運賃が高い!
駅の北側に出ると坂の上にもう霊園が見えます。
霊園前の通りは桜のトンネル。
今年の持ちのいい桜がハラハラと散っていました。
霊園の塀沿いに東へ向かうと松飛台門。
霊園の東南の角になります。
東側にはでかいマブチモーターの本社に工場。
霊園内にはそんなにたくさん桜はなさそうですが、あちらこちらに見えます。
青山や谷中の墓地とは違って、ほとんど同じ大きさの墓石が整然と並んで、そして樹木が巨大ではないので、広々と空が開けて、まるで巨大な広場か公園のような感じです。
同じ都営霊園でも感じが違いますね。
だいぶ園内を歩いたのに地図を見ると、まだ中央部まで来ていない。
広さ105万㎡、23区内最大の青山霊園が26万㎡だからざっと4倍の広さ。
でかいはずです。
ちなみに都営霊園の最大が多磨霊園130万㎡だそうです。
でも、多磨霊園も巨大な墓や樹木が多いのでそんなに広い感じはしませんが、八柱霊園は本当に広く感じます。
さて、なんで千葉県松戸に東京都営霊園があるかのお話です。
明治になって、旧朱引内(俗に江戸と呼ばれていた地域)内の埋葬が禁止となります。
そこで埋葬地が定められ、青山(立山を含む)、谷中、染井、雑司が谷の墓地が作られます。
大正期には人口増加で、上記四ヶ所の埋葬地も余裕が無くなり、さらに、亀戸や深川にあった埋葬地は廃止となりました。
そこで郊外、西方・東方・北方に新しい市営墓地を作ることになったのです。
大正10年に西方に多磨墓地が完成、昭和10年に東方に八柱霊園が完成しました。
北方の小平霊園が完成するのは戦後、昭和23年のことです。
大正10年は東京市がまだ20区の時代、昭和10年でも35区になった時代で今の東京23区がその市域でしたから、多磨墓地も東京市営墓地でありながら、北多摩郡多磨村にありました。
そして東方の墓地は、東京府内東部には広大な用地が無く、当時の千葉県東葛飾郡八柱村の田中新田に用地を求めたようです。
当時は、市営墓地(都営)ですから使用は東京市民(都民)に限られていたようです。
まるで、東京のベッドタウンというか永眠タウンというか・・・。
現在では松戸市民の利用も認められているようです。
実は面白い事実を発見しました。
東京都営の霊園が松戸にあるのが原因で土地が無かったのか、松戸市の市営霊園は隣の白井市にあるということです。
お墓の玉突き・・・・・。
だいぶ歩くと、北側にある正門に出ます。
正門の辺りは自然の地形を生かしたつくりで、ここが墓地だなんて思えない公園風のつくりです。
そういえば、都営霊園で最初に「霊園」を名乗ったのはここだとか。
正門前の緑地
正門付近の桜は見事でした。
正門前の通りにはたくさんの休憩所や石材店が肩を並べていました。
ここから新京成線の八柱駅までは20分ほど、この駅も昭和30年の完成といいますから、それまでこの霊園はどれだけアクセスが悪かったか想像できます。
東京都の施設にはほかにも、朝霞や三郷の浄水場や山梨県にある東京水道水源林など、都内に存在しない施設が数多くあります。
もちろん、利根川や荒川上流のダムも東京都の施設なのです。(他県と共用ですが・)
東京の暮らしは他県にも支えられているんですね。
帰りは、そばにある常盤平から五香へと続く長い桜通りを楽しんで家路につきました。
常盤平の桜並木
千葉県松戸市に「都営八柱霊園」があること・・・・・・。
東京なのに東京じゃない?
そこは東京都の飛び地なのだろうか?
子供心に不思議でした。
行ったことないし、桜もきれいらしいから、行ってみようか・・・・と出かけました。
降り立ったのは、北総線の松飛台駅。
松飛台って、これも不思議な名前ですが調べてみると、陸軍松戸飛行場があった場所にちなんでつけられた地名のようです。
それにしても北総線は運賃が高い!
駅の北側に出ると坂の上にもう霊園が見えます。
霊園前の通りは桜のトンネル。
今年の持ちのいい桜がハラハラと散っていました。
霊園の塀沿いに東へ向かうと松飛台門。
霊園の東南の角になります。
東側にはでかいマブチモーターの本社に工場。
霊園内にはそんなにたくさん桜はなさそうですが、あちらこちらに見えます。
青山や谷中の墓地とは違って、ほとんど同じ大きさの墓石が整然と並んで、そして樹木が巨大ではないので、広々と空が開けて、まるで巨大な広場か公園のような感じです。
同じ都営霊園でも感じが違いますね。
だいぶ園内を歩いたのに地図を見ると、まだ中央部まで来ていない。
広さ105万㎡、23区内最大の青山霊園が26万㎡だからざっと4倍の広さ。
でかいはずです。
ちなみに都営霊園の最大が多磨霊園130万㎡だそうです。
でも、多磨霊園も巨大な墓や樹木が多いのでそんなに広い感じはしませんが、八柱霊園は本当に広く感じます。
さて、なんで千葉県松戸に東京都営霊園があるかのお話です。
明治になって、旧朱引内(俗に江戸と呼ばれていた地域)内の埋葬が禁止となります。
そこで埋葬地が定められ、青山(立山を含む)、谷中、染井、雑司が谷の墓地が作られます。
大正期には人口増加で、上記四ヶ所の埋葬地も余裕が無くなり、さらに、亀戸や深川にあった埋葬地は廃止となりました。
そこで郊外、西方・東方・北方に新しい市営墓地を作ることになったのです。
大正10年に西方に多磨墓地が完成、昭和10年に東方に八柱霊園が完成しました。
北方の小平霊園が完成するのは戦後、昭和23年のことです。
大正10年は東京市がまだ20区の時代、昭和10年でも35区になった時代で今の東京23区がその市域でしたから、多磨墓地も東京市営墓地でありながら、北多摩郡多磨村にありました。
そして東方の墓地は、東京府内東部には広大な用地が無く、当時の千葉県東葛飾郡八柱村の田中新田に用地を求めたようです。
当時は、市営墓地(都営)ですから使用は東京市民(都民)に限られていたようです。
まるで、東京のベッドタウンというか永眠タウンというか・・・。
現在では松戸市民の利用も認められているようです。
実は面白い事実を発見しました。
東京都営の霊園が松戸にあるのが原因で土地が無かったのか、松戸市の市営霊園は隣の白井市にあるということです。
お墓の玉突き・・・・・。
だいぶ歩くと、北側にある正門に出ます。
正門の辺りは自然の地形を生かしたつくりで、ここが墓地だなんて思えない公園風のつくりです。
そういえば、都営霊園で最初に「霊園」を名乗ったのはここだとか。
正門前の緑地
正門付近の桜は見事でした。
正門前の通りにはたくさんの休憩所や石材店が肩を並べていました。
ここから新京成線の八柱駅までは20分ほど、この駅も昭和30年の完成といいますから、それまでこの霊園はどれだけアクセスが悪かったか想像できます。
東京都の施設にはほかにも、朝霞や三郷の浄水場や山梨県にある東京水道水源林など、都内に存在しない施設が数多くあります。
もちろん、利根川や荒川上流のダムも東京都の施設なのです。(他県と共用ですが・)
東京の暮らしは他県にも支えられているんですね。
帰りは、そばにある常盤平から五香へと続く長い桜通りを楽しんで家路につきました。
常盤平の桜並木
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