釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

初散歩

2007年01月12日 05時42分15秒 | お散歩日記/東京地名の話
2007年の初散歩の目的は初詣。
出発点は清澄白河駅。

清澄白河といえば一番有名なのが、清澄庭園



最初は紀伊国屋文左衛門の屋敷といわれ、後年、下総関宿(現・野田市)の城主、久世家の下屋敷となり、明治時代は三菱の岩崎弥太郎の所有になった。
昭和七年に東京市の公園として開園。

今回はここが目的ではないので、素通り。
最初の目的地は「深川不動尊」。
ここずっと、成田山の焼印の入った木札のお守りが割れたので、お寺に戻さなくてはいけないと思いつつ、戻していなかった。
行く度に木札を買っているものだから、手元に四枚も・・・。
成田山の木札のお守りマニアと化している。

清澄は、昭和七年までは清住町といって、ここあたりを開発した人の苗字だったのを、住の字を美しい澄に変えて名づけられた。
隅田川に架かる清洲橋は深川清住町と日本橋中洲町の間に架かるから、清洲橋という。


隅田川大橋から見た清洲橋

清澄通りと清洲橋通り、二つとも清澄に由来の通り名だ。

清澄の隣は、白河。
清澄通りから深川江戸資料館に向かう道の左側に大きな寺がある。
霊巌寺である。
霊巌寺は霊巌上人が開いた寺で、はじめは霊岸島(現・中央区新川)にあり、明暦の大火後、深川に移転してきた。
この寺には寛政の改革で名高い、松平定信の墓がある。


松平定信の墓

ここでピンときた方は偉い。
寛政の改革を皮肉った狂歌をご存知だろうか?

白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき

寛政の改革があまりにも厳しかったので、昔の賄賂政治の田沼意次の時代のほうが良かったと皮肉った内容である。
あまり澄み切った水よりも、少し濁った水のほうが棲みやすい。
「水清ければ、魚棲まず」である。
この白河が、松平定信のことである。
松平定信の領地は、奥州白河(福島県白河)であったからだ。

この辺りが白河と呼ばれるのは、昭和七年に、このあたりの町が合併したときに、松平定信にあやかって、深川白河町とした。

東京には、大名家の屋敷があった場所がその大名の名前や領地の名前で呼ばれることがある。
浅草の象潟町は出羽本荘の六郷家の屋敷があったので、領地の名勝地の象潟にちなみ命名された。
新宿区の信濃町は永井家(信濃守)。
同じく内藤町は、高遠(長野)内藤家。
青山は郡上八幡(岐阜)の青山家の屋敷。
紀尾井町は、紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷に囲まれていたからだ。
文京区の播磨坂は、茨城府中(石岡)藩、松平播磨守。
台東区の佐竹商店街は、出羽久保田(秋田)佐竹家。
港区にも、旧・芝田村町は三春(福島)田村家。
旧・麻布盛岡町は盛岡の南部家に由来している。

そんななかで藩主の墓の所在地に領地の名前を使っているのは珍しいことだ。

皮肉にも、地下鉄の駅名は、この狂歌の最初の部分をもじったよう「白河の清きに澄み」じゃないですか?

霊巌寺にはほかにも、江戸六地蔵がある。
江戸時代に、江戸の主な街道沿いに六体の地蔵が置かれたもののひとつだ。


霊巌寺の地蔵

霊巌寺から南下して、深川不動尊に向かった。
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