”スローライフ滋賀” 

「ウォーキング三昧」ブログの続編です。令和元年(2019年)5月1日に移行しています。

コロナ下の運動会、巨大旗が盛り上げ 東近江・五個荘小学校で制作

2021-10-15 10:00:00 | 東近江ライフ
 近江商人の町「五個荘」の東近江市「五個荘小学校」で10月16日(日)、2年ぶりに運動会が開催されるのを前に、全校児童が巨大な旗を作った。

↑写真:中日新聞より

 感染対策で応援合戦がなくなったため、各自で旗に抱負を書き込んで当日掲揚する。「競い合うより協力する運動会にしよう」と準備に力が入っている。
 「心を一つに」「みんな笑顔で」。縦3.2m、横4.6mの旗には、全校児童663人の言葉が手書きされている。
中央には「切磋琢磨」の字が躍り、校内の四つの縦割りグループを表す赤、青、黄、緑の4色を組み合わせて四つ葉を描いた。

 運動会の実行委員の6年生30人が「全校応援旗プロジェクト」と題して企画した。
2学期の始まった8月下旬以降、赤の中村旺輔君、青の外村敦君、黄の平田悠斗君、緑の藤野允君の「色リーダー」が中心となり、15分間の休み時間に話し合いを重ねた。「コロナが不安な人もいる。みんなの意見を合わせるのが大変だった」と外村君は振り返る。

 学年をまたいで交流し、大声を張り上げる恒例の応援合戦の代わりに盛り上げる方法として、オリジナルのマスク作りやグラウンドに池を設けるといったアイデアの中から、中村君らが提案した応援旗作りに決まった。
グループごとに書き込めるよう、縦160cm、横230cmの旗4枚を用意。「一言でもいいので書いてください」と全クラスにお願いして回った。書き終わった4枚は、先生にミシンで縫い合わせてもらった。
 
 運動会当日は校舎から垂らして披露し、その後も校内で掲示する。
中村君らは「コロナ禍でもみんなで協力してできるプロジェクトにしたかった。声を響かせる応援をして優勝争いをしたかったけど、歴史に残る運動会にしたい」と16日当日を心待ちにしている。

<中日新聞より>
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聖徳太子1400年悠久の近江魅力再発見委員会の新WEBサイト

2021-10-15 09:00:00 | 滋賀TODAY
 聖徳太子1400年悠久の近江魅力再発見委員会は、聖徳太子薨去(こうきょ)1400年を迎える2022年に向けて、近江独自の聖徳太子の特徴や歴史、ゆかりの地、同委員会の各種取り組みなどを紹介する公式ウェブサイトを開設した。

近江発「聖徳太子の足跡めぐり」

新しい取り組みがアップされると思うので継続してこのサイトをチェックして欲しい。

<滋賀報知新聞より>
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聖徳太子についてパネルで学ぼう 東近江の観光案内所で巡回展

2021-10-15 08:00:00 | 東近江ライフ
 2022年2月の聖徳太子没後1400年の節目に合わせ、東近江地域のゆかりの社寺や伝承を紹介する巡回展近江の聖徳太子」が始まった。

↑写真:中日新聞より

東近江市五個荘塚本町の観光案内所ぷらざ三方よし」で10月18日(月)まで、以降も県内各地で開かれる。 

 東近江市や愛荘町、多賀町の博物館などでつくる「鈴鹿山麓混成博物館」が主催。聖徳太子の観光資源化に関する調査報告書をまとめた大津市のNPO「歴史資源開発機構」に委託し、55枚のパネルを作成した。
 建立とされる寺院や太子作の仏像を持つ寺院の数を都道府県別に集計したグラフを示し、近江が「日本で一番聖徳太子に愛された国」とPR。
ハナノキや横溝納豆、太子芋といった名物も取り上げ、ゆかりの深さを伝えている。
問い合わせ:事務局=0749(48)2077

<中日新聞より>
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【滋賀・近江の先人第213回】浅井長政の異腹の姉・昌安見久尼(阿久)(長浜市)

2021-10-15 06:00:00 | 滋賀・近江の先人

昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに、天文7年(1538年) - 天正13年(1585年))は、戦国時代の女性。名は阿久(あく)であり、昌安見久尼は戒名。

人物
浅井長政の父浅井久政の長女であるが、庶子のため祖父・浅井亮政の養女となった。生母は浅井亮政の侍女と伝わるが定かではない。浅井久政と正室井口殿(小野殿)が嫁ぐ前のことである。兄弟姉妹に浅井長政、京極マリアら多数。

母と共に平野郷の「実宰院」(当時は実西庵)(長浜市平塚町)に移り住み、母の死後庵主となる。
寺伝によれば、彼女は身長5尺8寸(176cm)・体重28貫(105kg)の大女であったため、嫁入りをあきらめて、天文11年(1542年)に出家し、小谷城の南4kmの平塚村に庵を建てて移住し、実西庵の開基者となったとされる。

しかし、一方でこの実西庵の出来事は、阿久の母は浅井亮政の侍女であり、阿古(小野殿・井口殿)、後の浅井久政の正室の実家である有力者井口氏に対する配慮だったとも言われ、阿久6歳の時のことである。


豊臣の治世になっても秀吉によって実西庵に庵料として50石の田畑を与えられ、三霊殿を創営して浅井三代を祀ったという。江戸時代に入っても秀吉の与えた50石は徳川秀忠の御朱印状で認められている。このような配慮は浅井家3姉妹に繋がる寺院であったためだろうか。

実宰院に伝わる位牌によれば、天正13年(1585年)47歳で没している。長浜市「実宰院」本堂には江戸時代中期に作られた昌安見久尼の木造が安置されている。

逸話
実宰院境内にある花一輪に2個ずつ実をつけるという双子の梅は、阿久が出家するときに弟の長政が贈ったものと伝えられている。
小谷落城(小谷城の戦い)時の浅井三姉妹(茶々・初・江(お督))について、通説ではお市の方と共に織田軍が身柄を引き取ったとされるが、長政は落城に先立って4人を実西庵に逃がし、阿久に養育を依頼したとの伝承がある。

その後、実西庵にやって来た織田軍の残党狩りに対して、阿久はとっさに自身の法衣の中に浅井三姉妹を匿ったと伝えられている。この逸話を裏付ける史料はないものの、実宰院に伝わる慶長2年(1597年)5月1日付けの豊臣家奉行連署状が実西庵と豊臣秀吉に深い繋がりがあったことを示しており、秀吉から庵料を与えられたことと併せて、茶々との関係を暗示していると言われている。

しかし、浅井三姉妹を保護したのは小谷落城落城時ではなく、茶々たちの居場所が不明な時期、柴田勝家の越前北ノ庄落城落城後ではないかとの説も有力である。

<Wikipedia、「近江戦国の女たち」引用>

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