”スローライフ滋賀” 

「ウォーキング三昧」ブログの続編です。令和元年(2019年)5月1日に移行しています。

新刊「近江の聖徳太子」刊行

2022-08-13 10:00:00 | 近江の歴史文化・探訪
 日本で最も多く伝えられる近江の聖徳太子に関する歴史文化遺産を紹介する書籍「近江の聖徳太子 縁起・伝説の世界を訪ねる」が海青社(大津市)から発刊された。執筆したのは、元安土城考古博物館副館長の大沼芳幸氏。
 今年は聖徳太子の没後1400年にあたり、滋賀の風土に根差した太子文化に注目が集まっている。



近江の風土に宿る太子遺産。面白さに触れ郷土愛深める一冊
 著者の大沼氏は、滋賀県に伝わる聖徳太子の文化について、奈良県や大阪府のような日本書紀などの信頼性の高い史料に基づく「史実の聖徳太子」ではなく、古代から現代にいたるまで連綿と続く、聖徳太子を神として崇める「聖徳太子信仰」に基づく、縁起・伝説の世界として語られる聖徳太子の文化と捉える。
 これらは滋賀の風土が招き、創造した聖徳太子文化といえ、「全国のどこにもない、滋賀の個性的な文化であり、滋賀を発信する資源となりうる」と評価するが、地元住民はその価値に気づいていないのが現状だ。

 本書では、近江に伝えられた聖徳太子の縁起・伝説について背景を含めて解説し、県内の関連文化遺産200件以上から厳選した33件について豊富な写真を使って紹介した。
 具体的には、小野の里、西教寺、日吉大社、園城寺、石山寺、飯道山・飯道寺、正福寺、油日神社、佐久良川沿い、金剛定寺、竜王山、吉祥寺と竜王の聖徳太子、御澤神社、石塔寺、長壽寺、市神神社、狛長者、太郎坊宮、瓦屋禅寺、百済寺、聖徳太子の道、五個荘金堂と小幡神社、乾徳寺と小松寺、石馬寺、善勝寺、老蘇の森と長光寺、岩戸山十三佛、観音正寺、教林坊、八幡山と願成就寺、長命寺、敏満寺。

 大沼氏は「近江の聖徳太子を文化資源として定着させ、活用するきっかけになれば」としている。四六判フルカラー印刷。160ページ。定価1980円。滋賀県内外の書店で販売するほか、ウェブ販売も行っている。

 詳しくは海青社(TEL077―577―2677)または同社ホームページ(https://www.kaiseisha-press.ne.jp/)へ。

<滋賀報知新聞より>
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地元の歴史知り、郷土愛を 県人会と歴史愛好団体が小冊子寄贈(東近江市)

2022-08-13 09:00:00 | 東近江ライフ
 滋賀県人会の県内組織、「ふる里滋賀県人会」と、歴史愛好家でつくる「ふるさと滋賀愛郷会」、「びわ湖巡り研修会」はこのほど、中学生向けに近江の歴史を分かりやすくまとめた小冊子「近江を制する者は天下を制する」(全28ページ)の東近江市内中学2年生分1053冊を東近江市教育委員会に寄贈した。

↑写真:滋賀報知新聞より

 この寄贈は、滋賀県の知名度が47都道府県のうち下位に甘んじていることから、知名度を向上させるには、まず、子どもたちに地元の歴史を知ってもらおうと始まった。滋賀県内企業から製作費の協力を得て、2020年度から取り組んでいる。

 贈呈式で、ふる里滋賀県人会の蔭山孝夫会長(全国滋賀県人会連合会副会長)は、「遠方に行くと、滋賀県が知られていないことが分かる。滋賀はほどほどの都会、田舎で住みやすく、歴史がいっぱいあるすばらしい県。中学生には地元のよいところを知ってもらい、どこへ行っても(ふるさと)自慢できるようになってほしい」と述べた。
 受け取った藤田善久教育長は「ふるさとを知ることで(地域への)愛着が育まれる。冊子を読むことで、地域の歴史に興味を持てると思う」と話していた。
 冊子は4版の改定が行われ、充実が図られた。
内容は4編
 ▽本能寺の変以前
 ▽関ヶ原の戦いまで
 ▽徳川幕府の確立
 ▽幕末

 主な人物や出来事が記述され、近江が歴史的に重要な舞台であったことが、分かりやすく解説されている。
 ふる里滋賀県人会の蔭山会長は「1回限りでなく、5年計画で毎年配布したい」と抱負を語っていた。

<滋賀報知新聞より>
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中日新聞 <戦争を語り継ぐ>(1)軍用機偽装し敵に戦力誇示 中島伸男さん

2022-08-13 06:00:00 | 東近江ライフ
 77年前、太平洋戦争末期の1945年春、旧八日市町(現在の東近江市)の国民学校の講堂に、教師と児童が集められた。授業を犠牲にして組み立てたのは、木肌が目立つ実物大の軍用機の「模型」だった。「子ども心に立派なものだと思った」。当時は初等科5年生。何に使われるのか、よく分からなかった。
 八日市町には前身が日本初の民間飛行場で、当時は旧陸軍の八日市飛行場があった
 偽装の機体は、敵に戦力を誇示するためとみられる。「日本にまだ飛行機が沢山あるんだ、と並べたんだろう。そんなバカなことまでして、戦争を続けようとしたのか」。本物の機体は米軍の爆撃を避けるため、飛行場周辺に築いた掩体壕(えんたいごう)に隠していた

 「模型」の材料は、取り壊された兵舎の廃材。教師を中心に組み立て、5、6年生が手伝った。木材を運んだり、くぎを打ちつけたり。作業中に突き出たくぎをうっかり右足で踏み、教師に抜いてもらった。八日市では他の学校でも、教師や児童が組み立てに駆り出された。

 戦時中、飛行場に続く道には米、英の国旗が石灰で大きく描かれた。級友と一緒に力いっぱい踏んづけて歩いた。海軍大将の山本五十六が戦死すると、学校で追悼の詩を作った。「米英憎いと大空にらみ、とうとう自分も大空へ」。書き出しを今も覚えている。開戦当初は日本の勝利を信じたが、B29爆撃機の編隊がきれいな飛行機雲を引くのを見て、不安が込み上げた。「日本はどうなるのか。心の底から怖くなった」

 終戦が近づく7月25日午前六時ごろ。晴れた空にごう音が響き、母と自宅近くの防空壕(ごう)に逃げた。「大きな雷がいくつも落ちたようだった」。便所にいた父が着物の帯も結ばずに転がり込んできた。「一体、何が起きているのか分からなかった」。ごう音は1時間近く続いた。
 その日、八日市では飛行場が空襲され、米国のグラマン戦闘機と日本の五式戦闘機が空中戦を繰り広げた。「柿の木に登って戦闘を見た人もいたらしい」。子どもや大人ら民間人を含め、少なくとも7人が犠牲になったとされる。

 終戦の日は、大人の輪の外でラジオの玉音放送に耳を傾けた。「心にとんでもない空洞ができた。日本がどうなるのか、父も教えてくれない」。戦後の食糧不足は特に苦しかった。わずかなコメに混ぜる野草を探した。空腹に耐えかねて泣いたこともある。
 終戦で無用になった飛行場は、サツマイモ畑になった。野々宮神社の宮司をしながら郷土史を長年研究してきたが、飛行場の実態については分からないことが多い。日本軍が敗戦直後に、資料を燃やしたからだ
 今は掩体壕などのわずかな遺跡を残すのみだが、見学会で町の歴史を子どもたちに語ってきた。「飛行場があったことを知らない人も多い。何もしなければ、忘れられてしまう。命ある限り、次の世代に伝えていきたい」

↑写真:滋賀報知新聞より
*中島伸男さんは「陸軍八日市飛行場」の著者でもある。

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◇中島伸男さんコメント 
 今年も8月15日(終戦の日)を迎える。半年ほど前にはロシアがウクライナに侵攻。戦禍はまたも命を奪い、世界情勢に波を立てた。エネルギー価格が高騰して私たちの暮らしに影響し、滋賀県内に身を寄せる人もいる。平和への思いが募る夏。太平洋戦争の終戦から長い時が経ち、体験した世代が減っている。過ちを繰り返さぬよう、戦争の実態を語り継ぎたい。

中日新聞記者:取材後記 
 「知らないこと、本当のことを言えないのは怖い」。取材で中島さんが口にした言葉が印象的だった。少年の頃は「日本がリーダーになって、米英から植民地を解放する」という大義の戦争に勝つと信じていたという。ウクライナ侵攻を正しいと信じるロシア人と、当時を重ねた中島さんは「日本がどんな風に歩んできたのか。今の子どもに知って欲しい」と言った。今起きていることは、過去に通じている。

<中日新聞より>
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