功山寺決起

青山繁晴事務所から自由民主党の党員になりました。(2020年)

「鬱勃たるパトス」(2020-06-29 05:46:11)

2020-06-29 18:42:04 | On the Road

▼きのう6月28日の日曜、現職閣僚のおひとりに電話し「現在の政治は、いつも『できない理由』を探すという誤りに陥っています」と申しあげました。
 交渉が継続している、交渉の真っ只中にあることですから、具体的な中身をこのブログにて明らかにできません。
 それを、主権者に対していつも申し訳なく思います。
 しかし、交渉は途中経過に意味があるのではなく、主権者にとって良い結果を生むことが本来の目的ですから、交渉経過を途中で晒 ( さら ) す愚をおかすことは致しません。

▼安倍政権と官僚機構がなかなかやろうとしない、幾つもの政策課題について、「日本の尊厳と国益を護る会」 ( 護る会 ) と共に交渉を続けていて、このごろ、あらためて自戒していることがあります。
 それは直接交渉をしているときは、「良く分かった。前向きに考えましょう」と仰っている人にこそ、裏では「あれは駄目だよ」、「難しいね」と囁いている人が居るという事実です。

 これは、世に常にあることです。
 すなわち人間の本性のひとつとも言える、裸の現実です。
 それに落胆したり失望したりするようでは、そもそも国会議員という交渉と議論が職務の仕事に就く資格がありません。
 だから、まったく、がっかりしたりはしていません。
 同時に、「良く分かりました」と言われて思わず、安心したりする甘さがおのれに果たしてないかということには、徹底的に向き合っていかねばなりません。

▼そのうえで、相手と話しているときには良きことを言い、その相手が居ないときには悪しきことを言う、そのような人物、議員には、日本の指導者を務める資格がありません。
 ぼくは安倍晋三総理と、意見の違いが多くあります。
 しかし安倍総理には、こうした「直に仰ることと、他の人に仰ることが違う」ということがありません。
 少なくとも、不肖ぼくとの間でそれが起きたことが一度もありません。いつも考えをはっきり仰います。妙に含むところがあったり、裏切ったりされることがありません。
 その意味で、日本国総理たる資格をお持ちだと思います。意見が何度、食い違っても、そこは変わりません。


▼一方でなぜ、相手にはその都度、耳に良いことを仰り、あとで違うことを仰る人が出るのか。
 先ほど申しましたように、人間の性 ( さが ) でもあります。
 けれども、日本国民の運命を直接に左右する政 ( まつりごと ) においては、人間の性ですねと言って済む問題ではありませぬ。
 そのような挙に出る最大の理由のひとつは、喪うものがあるから、権力が欲しいからです。安倍さんのあとに総理になりたいからです。

 ぼく自身を顧みれば、4年前に国会議員となってから今日まで、議員としては喪うものがありません。地位とカネについて欲するところが無いからです。
 みなさんにとっては聞きたくないことかも知れませんが、命についても、もはや欲するところはありません。
 これは、ただのぼくの個人的生き方であると同時に、その姿勢で臨まないと、何も変わらないからです。

 歴史の永い日本国に降り積もった既得権益、特に敗戦からのたった75年で凝り固まった「資源のない敗戦国でいることを利権にしている構造」は、とてつもなく分厚く堅い。
 事実は、世界第6位という広大な海に資源はあり、敗戦は西暦1952年4月28日の主権回復を持って終わっています。
 それにもかかわらず資源の無い敗戦国なんだと国民を欺 ( あざむ ) くことから利権を得ている、たとえば「戦勝国アメリカに仲介していただいて高い資源を中東の独裁者から買っていればいい。これまでそれでやって来たんだから」と旧来の経済構造を続けるよう仕向けて、国民に資源の輸入代金を背負わせ、日本を真の独立国ではなく従属の国にとどめています。
 その中心に居るのが自由民主党であり、残念ながら野党はそれを裏から補完していると、暗黒国会の現場に立って言わざるを得ません。
 この仕組みの巨大な壁に、たとえちいさな穴でも穿 ( うが ) つには、すべてを捨てて掛かるしかない、その迫力だけがわずかにでも事を動かす可能性を持つのです。

 そして穴は、内部から開ける穴がいちばん効く。外からガリガリやっていても、それはやっている振りに終わりかねません。

▼少年時代に愛読した日本の書のひとつに、「鬱勃たるパトス」という言葉がありました。
 蛇足を申せば、「うつぼつたる」とは、空に湧く雲や繁る木と草のごとく胸の裡 ( うち ) に心意気が満ち満ちて今にも溢れ出ようとすることですね。
 パトスというギリシャ語は、エートスの対義語で、わっと湧き出て物事を変える力のある感情のことです。
 パトスは、かつて旧制高校で青春を生きるときに使われることがあったと、その書に記されていました。

 国会議員になって鬱屈が日々、深まります。
 夜半の苦しみは、なかなかのものです。
 しかし思うのです。
 鬱屈のなかの一字は、この鬱勃たるパトスにも含まれています。
 それなのに憂鬱の意味はない。その影はない。
 そうです、鬱屈こそ、前へじりじり進む力に変えねばなりません。

 月曜の朝に、いつも思うことです。
 一緒に歩けるひとだけで良いから、これからも一緒に歩き、必要なときにはじりじりと匍匐 ( ほふく ) 前進を試みましょう。
 ね ?





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