▼「全国戦没者追悼式」と日本政府が名付けている式典が、ことしもすべて終わったのが、ちょうど24時間ほど前の8月15日午後1時ごろでした。
その夜半に仕事をしていて、あらためて考えたのは、現実を見るときに、過去と、たった今と、未来のいずれをも真っ直ぐに見ていなければならないということです。
それは簡単なことでは、ありませぬ。
たった今を正確に見ることは極めて難しい。世界は広く、深い。
それに、よほど自分を客観的に突き放して、澄んだ心境を保たないと、実は目の前のこともよく見てはいないのです。
過去は、どうか。
過ぎ去ったことであるから、今を見るよりは、全体像がよく見える・・・ようでいて、実はやはり忘却というものの凄まじい力にやられている。
未来は、いつも深い霧の中です。先のことは分からないから、というだけではなく、どうしても自分に都合良く、根拠のない楽観や、逆に根拠のない不安に邪魔されて視界を喪うからです。
しかし、日本のまつりごと ( 政 ) と文学に、仕事として関わる以上は、それをやらねばなりません。
8月15日という日は、過去の戦争と敗北を見るだけではなく、現在と未来を同時に見る日だと、いつも考えています。
それが、人のために祖国のために、みずからの永遠にひとつ切りの命を捧げられた同胞への、最低限の責任だとも考えています。
その夜半に仕事をしていて、あらためて考えたのは、現実を見るときに、過去と、たった今と、未来のいずれをも真っ直ぐに見ていなければならないということです。
それは簡単なことでは、ありませぬ。
たった今を正確に見ることは極めて難しい。世界は広く、深い。
それに、よほど自分を客観的に突き放して、澄んだ心境を保たないと、実は目の前のこともよく見てはいないのです。
過去は、どうか。
過ぎ去ったことであるから、今を見るよりは、全体像がよく見える・・・ようでいて、実はやはり忘却というものの凄まじい力にやられている。
未来は、いつも深い霧の中です。先のことは分からないから、というだけではなく、どうしても自分に都合良く、根拠のない楽観や、逆に根拠のない不安に邪魔されて視界を喪うからです。
しかし、日本のまつりごと ( 政 ) と文学に、仕事として関わる以上は、それをやらねばなりません。
8月15日という日は、過去の戦争と敗北を見るだけではなく、現在と未来を同時に見る日だと、いつも考えています。
それが、人のために祖国のために、みずからの永遠にひとつ切りの命を捧げられた同胞への、最低限の責任だとも考えています。