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インテリアコーディネーターのブログ。
住まいのこと。インテリアのこと。仕事のこと。子どものこと。。。

10月8日 夢

2005-10-08 | ひとりごと
いつか、機会があれば投稿しようと思っていたのですが・・・。今日は記念すべき50回目の投稿なので、そろそろ私が、インテリアコーディネーターを目指すきっかけになったお話しをしたいと思います。
私の経歴を知ると、「なぜ?」という疑問を持たれることが、あります。私も確かに回り道したかな?という思いと、運が良かったな。という思いとが、ごちゃ混ぜになったような感覚で日々を過ごしています。

私が「インテリアコーディネーターになりたい」。と初めて口にしたのは、小学6年生の終わりか、中学1年生の頃だったと思います。今にして思えば、インテリアコーディネーターになりたい。というよりは、他の職業に対し、興味がなかった。という方が正しいのかもしれません。

記憶がただしければ、ケーキ屋さんや保母さん、看護婦さん、というのが当時の私のまわりの女の子たちに人気の職業だったと思います。けれど、私には全く興味がありませんでした。いえ、むしろ、小学生の自分が何かの職業に就く。という感覚が沸かなかった。という方が近いかも知れません。

当時、誰かに将来の夢を聞かれると、決まって「およめさん」と答えていました。結婚したいというより、「働く」という想像ができず、大人になること=(イコール)母の様になることだと思っていました。

そんな折、自宅を建て替えることになりました。

当時の家の間取りは、
1Fが応接室(洋室)/台所兼食堂/居間(和室=兼祖母の寝室)/縁側/浴室/洗面/便所。
2Fが祖母の仕事部屋(和室)/父の寝室(洋室)/母・私・弟の寝室(和室)の5DK。

建て替えるということが決まり、見せられた図面には、私の部屋がありました。
それが、とても嬉しかったのを覚えています。それから、図面に色鉛筆で着彩されたものが送られてきました。私はそれの真似をして、平面図に着彩したり、自分の部屋と弟の部屋にベッドや机を書き込んで、配置をしたりしては、小さな図面の小さなスペースでの模様替えを繰り返して楽しみました。

日曜日になると、大阪のショールームに出掛けてクロスやカーテンを選んだり、家具を選んだりしました。と言いましても、お姉さんが次から次へと、私と弟にジュースを運んできてくれたことと、見たこともない大きなビルだった。ということしか覚えていません。今にして思えば、打合せに参加したというよりは、ジュースが好きなだけ飲めて、目新しいものがたくさんあるところで、弟と二人で遊んでいた。という感じでしょうか。

そんな訳ですから、当時担当してくれていたコーディネーターさんのことも全く覚えていません。「家の建て替えがきっかけで・・・」という言葉を口にすると、憧れの対象となった人物が居るのだろうと考えられますが、私の場合、そうではありません。
どちらかというと、プレゼンボードに自分の将来を重ねた。という感じでしょうか。こうして文章にしてみると、あまりに単純で、それをその先の十数年の間、迷うことなく私の天職だと信じてやってきたのですから、自分のことながら恐ろしくなります。

時折郵便ポストに届く、おおきな封筒を心待ちにしていました。
封筒を開けると、照明器具やウィンドートリートメントのプレゼンボードが入っていました。私はそれをボロボロになるまで、何度も何度も見ては、自分の部屋ができていく姿を想像し、幸せな気分に浸りました。

多分、具体的に将来の夢として捉えたのは、こんな日々の中でのことだったと思います。考えてみれば、生まれて10年程度の子どもを捕まえて、「大きくなったら何になりたいの?」っていう大人の無責任な質問は、ものすごい影響力を持っているのかも知れません。

それからしばらくして、ECCジュニア 英会話スクールでのこと、こんなやりとりがありました。

先生:「あなたの夢は何ですか?」
私 :「インテリアコーディネーターです。」
先生:「じゃあ、英語が必要ね。」

子どもながらに「なんで?」という疑問もありましたが、差ほど気に留めず、その後、外大へ進学しました。

さすがに、その頃には、ある程度の分別がついておりました。入学と同時に「インテリアコーディネーター」の道はなくなったと、他の仕事に目を向けはじめました。
しかし、7月13日のブログでも紹介しています大西教授との出会いが、再び私をその道へと導いてくれたと思います。

就職活動はさんざんなものでした。何の知識もないのに、ハウスメーカーの事務員採用試験に出掛けては、「インテリアコーディネーターになりたいです!」と胸を張っていたのですから、ただのあほです。今から考えると恥ずかしくて仕方ありません。
学生が故の、知らないが故の強さでしょう。

それから、まわりまわってハチセに来ました。その頃には度重なる就職試験での教訓を活かし、まさか「インテリアコーディネーターをさせてください。」とは言いませんでした。1998年(平成10年)3月、営業事務として就職、それから2年半後、工務部に転部することができたのは、運が良かった。としか言いようがありません。

2000年(平成12年)7月に転部した後の数ヶ月は、自分の無知さに苦しみました。とにかく毎晩毎晩泣いてばかり居ました。「辞めたい」「でも、他で勤まるのか?!」自問自答の繰り返しだったと思います。
それから、会社を辞めて、本格的に勉強しようと考えました。インテリアコーディネーターに関するたくさんの学校を探しました。

ちょうどそんなとき、社内の先輩との他愛もない雑談の中で、ふと仕事に対する自分の考えを口にしました。そのことがきっかけで、先輩の力を借りながら、少しずつ、自分の仕事ができるようになり始めました。

スペースデザインカレッジへの入学を決めたのは、それから数日後の秋か初冬の頃のことだったと思います。

スペースデザインカレッジは、東京で開講され、入学資格が20歳以上という大人向けの専門学校ではあるものの、良くある資格対策ではなく、専門技術を学ぶための学校でした。資料請求当初、2001年(平成13年)に京都にも開講することが決定してはいたものの、学校の所在地が未定でした。
今ではたくさんのクラスがありますが、当時の募集は、全日制のスペースデザイン設計科(2年)と夜間のインテリアコーディネーター科(基礎科)の2クラスでした。
秋になり、ようやく所在地や授業の開始時間が確定します。場所は会社から徒歩10分。夜間の開始時間は19:00。

これも運命だと、少し大袈裟かも知れませんが、感じました。会社を辞めずに、学べる環境。私のために、用意されたようなものだとさえ、思いました。

2001年(平成13年)4月にインテリアコーディネーター 基礎科に入学。2003年(平成15年)3月にインテリアコーディネーター 応用科を卒業するまでの2年間、学校で習ったことを、直接仕事で試すことができ、普通の学生より理解を深めやすかったと思います。

一方、仕事と学校の両立は想像以上に大変で、もう二度とあのような生活は出来ないと思います。でも、あの2年間があったからこそ、いまここで働いていられるに違いありません。

「家は、一生に一度の買い物」。と言われるほど、大きな買い物だと思います。
ほとんどの人は、一生懸命働いて、貯めたお金の他、長い年月のローンを組んでやっと手に入れるものです。
そんな、大きな買い物のお手伝いに何度も立ち会うことができるインテリアコーディネーターという仕事は、やっぱり素晴らしい仕事だと思います。

幼い頃の私がそうであったように、そうして手に入れる、ひとりの人やその家族が、それを手に入れるまでの過程までも、楽しみ、家が完成するまでの時間を幸せに感じてもらえることが、私の役目だと思います。