サイコドラマ④
同じような日々を過ごすから、変化が際立つらしい。
6月の雨は、僕たちの気分を何となく憂鬱なものへと変えてしまう。今年は、先に控えている夏休みでさえ大きな壁に見えてくる。ある人は自分に突き付けられた偏差値という数字の事で頭が一杯になっている。ある人は、まだまだ時間はあるんだし、となんとも穏やかな毎日を過ごしている。またある人は、受験勉強に必死になっているなんて格好悪いと自分に言い聞かせ、ゲームにのめり込んでいく。しかし、多くの人は今までこの教室に出来上がっていた社会を壊さないように、クラス用の顔をして学校にやってくる。加藤先生はいつも通りに朝の連絡事項をクラスに伝え、他クラスの先生達よりも早く教室を出て行った。今では、口を開くと全員に聞こえてしまう程に朝の教室は静かになっていた。僕は、少し窮屈な気持ちになって廊下をぶらぶらと歩いたり、周りの真似をして1年の予定表を作ってみたりして、短い空白の時間をやり過ごしていた。字面では受験に必死になっている人達の気持ちが分かっても、僕自身が同じような気持ちになったりする事は今のところなかった。それでも、予定表を書いていると、それが自分の未来をデザインしている設計図のように見えて、少し満足な気持ちに浸る事は出来た。
「お前は余裕あって良いよな」と、好史が言った。
好史は最近少し痩せたように見える。その原因は主に村谷さんとのいざこざのようだ。僕には恋人がいないし、好史も詳しい内容までは僕に話さないのでよく分からないが、村谷さんは随分と受験戦争の雰囲気にまき込まれ必死になっていて、何かと好史に当たっているらしかった。
「まあ、俺みたいな奴が後悔するんだ、結局」と、僕は言った。
それが本心から来ている言葉なのかどうか、自分でもよく分からなかった。好史は「いやいや」と言ったが、それ以上は続けなかった。
「お前さ、痩せたよな」と、僕は沈黙を避けるように好史に聞いた。
「そうかな」と、好史はさも心当たりが無いという風に応えた。
「何か悩みでもあるのか、聞くよ。折角ある余裕を使わないなんて勿体ないし」
「はは、小池らしいな」
好史がそう言うと、しばらく沈黙が流れた。僕は、今度は好史が話し始めるのをじっと待っていた。雨の音が心地好く耳に響いた。
「まあ、大したことじゃないさ。最近ちょっと香里が参っちゃっててさ」と、しばらく経ってから好史が言った。
「そうなのか」と僕は言った。
内心そうだろうなとは思いつつ、僕の方から色々と聞くのは気が咎めたので、再び好史が何か言うのを待った。
「まあ、確かには俺には受験生としての自覚が足りないだけなのかもしれないけどさ。あんな風に不安定になられたらこっちまでやられちまうよ。俺がいつも平気そうな顔してるってキレ始めるし。俺だって少しは勉強してるし、余裕なんか無いのにさ」
「そうか、好史も大変だな。自分の分だけじゃなく、村谷さんの分まで背負わなきゃいけないんだもんな」
「な。だからさ、この時期に彼女なんか作るもんじゃないぜ。男だけでわいわいやってた方が絶対に良いんだよ」と、好史は半分冗談めいた事を言った。
僕は肯定も否定もする事ができず、好史と一緒になって小さく笑った。
「でも、お前がいて良かったと思うよ。あいつら張りつめ過ぎなんだよ。朝の10分や15分で何が変わるんだ」と、僕は言った。2人は教室と同じ階にある特別教室の前を、ゆっくりと歩きながら話していた。
「急にどうしたんだよ」と好史は照れたふりをした後、「そうだよな。俺もこういう時間が一番大事だと思うわ」と言った。
雨の日は何となく気分が落ち込む。でも、僕はこういう落ち着いた時間も好きだった。
また少し、静かな時間が流れた。僕はふと、好史が村谷さんの事をあまり話さないのは、好史自身が負わされている負担を僕に抱えさせないためなのではないかと思った。
「そろそろ戻るか。数学始まるし」と言って、好史はあくびをしながら背伸びをした。
僕もつられてあくびをしながら、好史を見た。2年以上着ている制服は窮屈そうで、伸び上がった制服の袖から、白い腕が数センチはみ出していた
――僕は目を疑った。好史の手首には、縦向きに細い切り傷が残っていた。リストカットの痕だ。テレビや授業で話題になり知識はあったが、自分とは縁のないものだと思っていた。雨の音は冷たく、鬱陶しく耳に響いていた。
「なあ、本当に大丈夫なのか?」と、僕は聞いた。
「いや、大丈夫じゃないのは香里だからな。本当あの性格何とかならんもんかな」と、好史は呑気な顔で答えた。
不意に僕は、4月に見た桜の木を思い出した。幹に刻まれた無数の唇は、何も語ることなくじっと閉ざされていた。僕には、好史の手首に刻まれた傷痕が、言葉よりも遥かに重大な何かを物語っているように見えた。
ここで、第四の場面は幕を閉じる。
同じような日々を過ごすから、変化が際立つらしい。
6月の雨は、僕たちの気分を何となく憂鬱なものへと変えてしまう。今年は、先に控えている夏休みでさえ大きな壁に見えてくる。ある人は自分に突き付けられた偏差値という数字の事で頭が一杯になっている。ある人は、まだまだ時間はあるんだし、となんとも穏やかな毎日を過ごしている。またある人は、受験勉強に必死になっているなんて格好悪いと自分に言い聞かせ、ゲームにのめり込んでいく。しかし、多くの人は今までこの教室に出来上がっていた社会を壊さないように、クラス用の顔をして学校にやってくる。加藤先生はいつも通りに朝の連絡事項をクラスに伝え、他クラスの先生達よりも早く教室を出て行った。今では、口を開くと全員に聞こえてしまう程に朝の教室は静かになっていた。僕は、少し窮屈な気持ちになって廊下をぶらぶらと歩いたり、周りの真似をして1年の予定表を作ってみたりして、短い空白の時間をやり過ごしていた。字面では受験に必死になっている人達の気持ちが分かっても、僕自身が同じような気持ちになったりする事は今のところなかった。それでも、予定表を書いていると、それが自分の未来をデザインしている設計図のように見えて、少し満足な気持ちに浸る事は出来た。
「お前は余裕あって良いよな」と、好史が言った。
好史は最近少し痩せたように見える。その原因は主に村谷さんとのいざこざのようだ。僕には恋人がいないし、好史も詳しい内容までは僕に話さないのでよく分からないが、村谷さんは随分と受験戦争の雰囲気にまき込まれ必死になっていて、何かと好史に当たっているらしかった。
「まあ、俺みたいな奴が後悔するんだ、結局」と、僕は言った。
それが本心から来ている言葉なのかどうか、自分でもよく分からなかった。好史は「いやいや」と言ったが、それ以上は続けなかった。
「お前さ、痩せたよな」と、僕は沈黙を避けるように好史に聞いた。
「そうかな」と、好史はさも心当たりが無いという風に応えた。
「何か悩みでもあるのか、聞くよ。折角ある余裕を使わないなんて勿体ないし」
「はは、小池らしいな」
好史がそう言うと、しばらく沈黙が流れた。僕は、今度は好史が話し始めるのをじっと待っていた。雨の音が心地好く耳に響いた。
「まあ、大したことじゃないさ。最近ちょっと香里が参っちゃっててさ」と、しばらく経ってから好史が言った。
「そうなのか」と僕は言った。
内心そうだろうなとは思いつつ、僕の方から色々と聞くのは気が咎めたので、再び好史が何か言うのを待った。
「まあ、確かには俺には受験生としての自覚が足りないだけなのかもしれないけどさ。あんな風に不安定になられたらこっちまでやられちまうよ。俺がいつも平気そうな顔してるってキレ始めるし。俺だって少しは勉強してるし、余裕なんか無いのにさ」
「そうか、好史も大変だな。自分の分だけじゃなく、村谷さんの分まで背負わなきゃいけないんだもんな」
「な。だからさ、この時期に彼女なんか作るもんじゃないぜ。男だけでわいわいやってた方が絶対に良いんだよ」と、好史は半分冗談めいた事を言った。
僕は肯定も否定もする事ができず、好史と一緒になって小さく笑った。
「でも、お前がいて良かったと思うよ。あいつら張りつめ過ぎなんだよ。朝の10分や15分で何が変わるんだ」と、僕は言った。2人は教室と同じ階にある特別教室の前を、ゆっくりと歩きながら話していた。
「急にどうしたんだよ」と好史は照れたふりをした後、「そうだよな。俺もこういう時間が一番大事だと思うわ」と言った。
雨の日は何となく気分が落ち込む。でも、僕はこういう落ち着いた時間も好きだった。
また少し、静かな時間が流れた。僕はふと、好史が村谷さんの事をあまり話さないのは、好史自身が負わされている負担を僕に抱えさせないためなのではないかと思った。
「そろそろ戻るか。数学始まるし」と言って、好史はあくびをしながら背伸びをした。
僕もつられてあくびをしながら、好史を見た。2年以上着ている制服は窮屈そうで、伸び上がった制服の袖から、白い腕が数センチはみ出していた
――僕は目を疑った。好史の手首には、縦向きに細い切り傷が残っていた。リストカットの痕だ。テレビや授業で話題になり知識はあったが、自分とは縁のないものだと思っていた。雨の音は冷たく、鬱陶しく耳に響いていた。
「なあ、本当に大丈夫なのか?」と、僕は聞いた。
「いや、大丈夫じゃないのは香里だからな。本当あの性格何とかならんもんかな」と、好史は呑気な顔で答えた。
不意に僕は、4月に見た桜の木を思い出した。幹に刻まれた無数の唇は、何も語ることなくじっと閉ざされていた。僕には、好史の手首に刻まれた傷痕が、言葉よりも遥かに重大な何かを物語っているように見えた。
ここで、第四の場面は幕を閉じる。