おきると荘の書斎

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頭でっかちにならないために

2016-06-30 23:54:00 | ノンジャンル
本当に常々思うんですけどね。

頭でっかちにならないためには、
とにかくやるしかないんですよ。

でもねー。

なっちゃうんだよねー。

頭でっかちに。


何にしても、最初に夢中でやってる間はいいんですよ。
例えば楽器にしても、お絵かきにしても、文章を書くことにしてもそうですが。

楽器であれば、まずは音が出る。
自分が思ってるよりも素敵な感じで音が出るわけですね。

そこから一曲一曲できるようになっていくのはただ楽しいんですよ。
ただね。

そこから。

自分が思ってるよりも上手くいかないことが起こってくる。
ここからですよ。

で、知識を色々集めたり、
自分の頭で考えてみたりする。

これも大事な時期だとは思うんですけどね。
でもね。

これをやりすぎると本当に頭でっかちになる。
「こうすればできるはずだ」みたいなものを集めすぎると、
実際に自分ができるレベルのことから知識だけが離れてひとり歩きし始めるんだよね。

これが浮「。
これが始まると、自分の実力がよく分からなくなる。

そしてそれがもどかしくなって、
遂には嫌になってしまう。

これはね。
あんまりよくない。

ならばどうするか。
やるしかないんですよね。

知識を吸収したっていいんだけど、
ただひたすらにやることはやめちゃダメだね。

ひたすらにやることを一時的にやめるのであれば、
「自分は頭でっかちになるぞ」という気持ちを持ってやめないといけない。

自覚があればまだ救いはある。
救いというか、身の程を知っているというか。

段々身の程が分からなくなってくると、
過去の自分の熱意は二度と戻ってこなくなってしまう。

なんだかもったいないよね。

そうなんだけどね。

やっぱりやめないことって凄くエネルギーが必要なんだよね。


どうですか、その辺。
心当たり、ありますか?

ないのであれば、それはきっと幸運なことだと思います。
やり続けましょう。

それでは。

心理学雑談⑬

2016-06-27 23:22:00 | ノンジャンル
どうも。

ご無沙汰ですが、心理学雑談をやりましょうかね。

本日のテーマはズバリ、「シンクロニシティ」です。

ご存知ですか? シンクロニシティ。


シンギュラリティじゃないよ。

水泳も関係ないよ。


シンクロニシティ。


これ、恐らく10年か15年くらい前だったら誰も知らない言葉だったんじゃないかと思うんですが、個人の実感としては最近知ってる人が結構多いんじゃないかという気がします。

みんなどこで聞いてくるんだろう。

色々な要因があると思いますね。

まずは、サブカルの浸透によるものがあるんじゃないかと予想してます。
あ、これは完全に憶測と妄想なのですが。
いかにも言いそうじゃない?

……これ酷い偏見だな。

ただ、プラシーボ効果の知名度がサブカルで結構上がったんじゃないかという感覚があるので (こちらは実際にキャラクターの口から発せられる瞬間を何度か目撃した) 、シンクロニシティも案外そんなところがあるんじゃないかな、と。



……なんか近くの部屋がうるさいな。熊とでも闘ってるのか……



まあいいや。
次の予測としては、ネットの普及が挙げられますね。

インターネットで様々な情報が身近になった。
心理学や精神分析のメディア的な流行りも相まって、
個人的に調べて知っている人も多いんじゃないでしょうか。


しかし、何より一番要因として大きいと思っているのは、
やはり文化的な価値観の変化ですね。

科学的なもの以外は信じないという「科学神話」が隆盛を極めてきた疲れか、
ゆとり教育の思わぬ恩恵かは定かではありませんが、

少しずつ心というものをある種非科学的に見ることに対する抵抗が少なくなってきているような気がしています。
それがやっぱり一番大きいですかね。



うん。何が問題かって、ここまでシンクロニシティの説明が全くなされていないことだよね。

知ってる知ってる。


というわけで、
改めてシンクロニシティとは何か。

端的に言うと、「意味のある偶然の一致」みたいなことですね。
因果関係だけでは説明のできない、共時的な出来事のことを指します。

ユングの提唱した言葉です。


これ、よく知られ始めている割にやっぱり誤解も多い言葉なんですよね。

というか、実際解釈も結構人によって違ったりしていて、
的確に言い表すのが難しい概念だとも言えます。


よく間違われる文脈としては、
「よく似た出来事が色々なところで同時多発的に起こる現象」
ということを指して使われる場面でしょうね。


例えば世紀の大発明が同時期に別の場所で行われること。
グラハム・ベルとエリシャ・グレイの電話の発明みたいに、
複数の場所で同じようなことが起きていること。


まあ、これをシンクロニシティと表現することも間違いではないでしょう。

ただし、その現象を客観的な事実の同時発生としてシンクロニシティだと呼び、超常現象的な捉え方をしている限りにおいて間違っている。


どういうことか。
例えば、俺の知人の実体験でこんな話があります (多少改変してます) 。

親族の葬式に参列し、式が終わった後になんとなく一同で話をしていた時、
突然ストーブの炎が燃え上がる。
ストーブの炎に向かって亡くなった親族の名を呼びかけると、それに応じるように炎が揺らめく。


これを科学信者に話せばただの偶然で終わりでしょう。
確かに、客観的にその事実を見れば偶然。

ただし、体験している本人にとってはこれは偶然で片付く話ではないわけですね。


こう言っちゃうとオカルトみたいな話に誤解されがちだと思うので、
もう少し違う表現を引き合いに出しましょう。


イメージしてみてください。


場所は駅前。

高校生が同級生を殴っている。


どんな感じがしますか?

「どうしよう」「痛そう」「青春か」みたいな感情が湧いてくるかもしれません。



では次。

イメージしてみてください。



場所は自宅。

自分の父親が、母親を殴っている。




さっきと同じような感じがしますか?


……こんな風に、見ている人と見られている人、
起こる現象と観測する人によって、同じ事実でも体験は全く異なります。



そして、シンクロニシティは「自分にとって非常に意味のある偶然の重なり」です。


恐らく、世の中には色々な出来事が同時多発的に常に起こっている。
似ている出来事も沢山あるでしょう。

だけど、基本的に人は一つひとつの出来事しか見ていない。
自分の目の前で起こっていることを切り取って体験しています。


それが、身近な人を失ったりするような大きな感情の変化に出くわした時、
2つの出来事が非常に強い繋がりを持って感じられることがある。

偶然だとはとても思えないようなことが起こってくる。
心の視野が広がっているとでも言いましょうか。


逆に、共時性を求める人の心に共時的な出来事がさも必然的に起こってくる、
ということも、また一つの真理だと言えます。

臨床家は、しばしばこういう体験に巡り合うそうです。
カウンセリングの過程だと、快方に向かう場面でよく起こってくる出来事なんだとか。


うーん、なんだか長々と書いた割に説明できたようなできてないようなふわっとした感じですが、
まだまだ俺自身ユングがどこまでの意味を込めてこの概念を提唱していたのかが分かっていないところが正直あります。

「共時性」を腑に落ちるように語るのは、因果律至上主義の我々からするととても難しいことだと思います。


日本のユング研究第一人者だった河合隼雄という人は、
あくまでシンクロニシティは主観的体験というところまでで留めているように感じます。
そして同時に、こういった因果律を超えていくような話は、
科学の目で深入りしない方が良いのかもしれない、という話もしています。


確かに、近代科学は高校生の喧嘩もDVも同じ距離感で見つめることが必要な学問であり、因果律の権化みたいな存在だからね。

確かに科学の力は現代の豊かさを生み出す原動力になってきた。
ただし、科学の目は自分も他人も変わらないただの一個体としてどんどん平準化していきます。

これからの時代を生きていく上で、人に寄り添う心の在り方を自分なりに構築していくことは、もはや不可欠かもしれません。


中身のあるような無いような話でしたが、
今回はこの辺で。

あ、シンクロニシティについて調べるのはいいですが、
あまりネットで検索したりするのはオススメしません。

宇宙のパワーに吸い込まれますよ。
気になる方は専門書を読んでみてください。
俺も恥ずかしながら原著に触れたことがないので、
近いうちに読んでみたいと思います。

では。

いかに理想に近付くのか、何が理想なのか

2016-06-23 23:39:00 | ノンジャンル
うさぎ小屋③

 履修届は締め切り日になんとか提出した。結局のところ、最初の1週間で見学に行った授業を適当に割り振り、1限の授業は少なめに入れた。1年生はあまり専門分野の講義を履修する必要がなく、履修登録票にはいわゆる一般教養の授業が並んだ。教職は保険のつもりで取っておいた。改めて見返すと歴史・文学・社会学と文系科目だらけだ。埋めたいのにどうしても埋まらないコマには「文系科学」という科目をバランス調整のつもりで入れておいた。これで理系の話が分かるようになるとはとても思えなかったが。
 オリエンテーションが終わり、本格的に授業が始まった。面白いと言われている授業は確かに大したもので、僕はしばしば視聴率の取れる教養番組を見ているような気分になった。反対に、高校の授業の雰囲気を残した歴史や語学といった授業を受けていると、かつて何とか打ち勝つことのできていた眠気に耐えられなくなっている自分に気付いた。僕は着々と大学生化していた。
 新歓活動はいよいよ隆盛を極めていたが、飲みサーと呼ぶには妙にアンニュイな雰囲気を漂わせた秘密基地に居場所を見つけてしまった僕は先週とは打って変わって落ち着いていた。一度テニサーの新歓にも顔を出してみたが、同学年の学生たちの溌剌としたエネルギーがあまりに眩しく精神の安定を脅かされたので、アフターと呼ばれる夕食会の途中でそっと輪を抜け出して帰路についた。
 程よくアルコールの入った体で歩く田舎道はとても清々しいに違いない、と確信しながら、僕は渋谷の喧騒の中を歩いた。夜とは言えまだまだ夕食時で、駅からは沢山の人が吐き出されてくる。大勢の人間を見ていると少しずつ人酔いがしてきて、僕はなるべく人が少ない壁を探して寄りかかった。
「おい、兄ちゃん」突然近くでしゃがれ声が聞こえた。
声のした方を見ると、背の低いホームレス風の男が僕をじっと見据えている。汚れた黒い顔だった。僕と男はしばらく顔を見合わせていたが、男は少し表情を緩めて言った。
「あんた、田舎のうさぎだな。人にくたびれてる」
「それを言うなら田舎のねずみでしょう」僕は咄嗟に応えていた。
「田舎のねずみはもうちっと野生だよ」男は半笑いで言って、ャPットから未開封の缶コーヒーを取り出した。
「小奇麗な奴が増えた」男は続けた。「小奇麗な奴は汚い」
僕には男の言っていることがよく理解できなかった。ただ、ここから去ればこの薄汚れた男にはもう二度と会うこともないのだろうと考えると、何故か少し寂しいような気分に襲われた。スクランブル交差点の上では、二度と会うことのない沢山の人々が、自分の目的地だけを気にして沢山の他人たちとすれ違っているのだ。


しんどい時こそ自己投資☆

2016-06-13 22:29:00 | ノンジャンル
こんばんは。

人って面白いもんですね。

今やってることがしんどくなると、
どうしようもなく別の所に逃げたくなってしまう。

そして案外逃げた先のことが面白くなってきてしまう。
あるよね。

テスト前に聡怩オてしまう心理、所謂セルフハンディキャッピングなのかもしれませんが、実際テストの成績は悪くても部屋は片付くという。


しんどい時についついやってしまうこと、
聡怩セけとは限りませんよね。

レメ[トから逃げて絵を描き始めたり。


ただ、そういうのって集積すると結構な成果が得られるものなのかもしれません。
しんどい現実から逃げれば逃げるほど、
別の何かが育っていく。

面白いですね。
そして、結構それが何かを表現することだったりするんですね。

ただ、何でも深入りすればしんどいものなので、
逃げ道くらいの距離感が丁度いいのも事実でしょう。

逃げ道で迷子になるなんて最悪ですし。


なんかみんなのそういう人生観というか気晴らし観を聞いてみたいんだけど、
中々場を作るのが難しいんだよね。

自前の気晴らし方法がある方、是非教えてください。

よろしくお願いします!

人に見せるのは何故?

2016-06-03 00:43:00 | ノンジャンル
こんばんは。

クリエイターとしてこの世で成功するためには、
カエルの卵みたいに沢山作って色々な人に見せるのが一番なんだよね。

って、さっきツイッターでも呟いたんですけどね。

呟きながら、「でもそれってクリエイターに限らずプレイヤーでも一緒だよなー」とか思ってました。
きっとこの世で生活している限りそこら辺のしがらみからは逃れられないでしょうね。
沢山の人に見せた方がいいのは、沢山の人こそが世の中を構成しているからなわけで。

例えば自分の感覚だけを頼りに誰にも見せずにただ只管に何かの作品を作り続けると、それは只管に個性的な能力を鍛えていくことになるでしょう。

それは誰にも真似のできない唯一無二の件pと言って差し支えないと思うんだけど、生きていくという現実が迫ってくるとしんどい。

だからそういう人は素敵なパトロンを見つければいいんだけど、
それも中々難しいのよね。

本当に個性がどこかで認められればいいけど、
人類が滅びるまで誰にも見向きもされないということだってあり得る。
そうなると、もはやそれはただの独りよがりなんじゃないか。

一方で、本当に好きなことに没頭して気に入ったものを作れるんだとすれば、誰にも振り向かれなくていいんじゃないか。

この辺りのせめぎ合いはあるよね、きっと。
答えを今出そうとは思ってないですが、皆さんいかがでしょうか。


ちなみに、自分が作った何かの作品を1か月後に自分で鑑賞してみて違和感がなければ、割といいものができてると言えるんじゃないかと思います。
物語にしても絵にしても曲にしても。

産み落とした後は自分のもの感が半端じゃないので、
おかしなところは見当たらないはずです。
ただ、時間が経つと自分の心は色々な別の刺激を受け、
徐々に作った作品との接点がなくなっていきます。

その後で改めて見返すと、あの時はあんなに素敵だったアレがこんなソレになってるわけですね。

職人の域まで達すれば滑らかに正しいことができるのかもしれませんが、
そうでないうちは自分で何度も見返して角を取っていくことも勉強でしょうね。
そして、それが面唐ネ人はあんまりその世界には向いてないのかもしれない。

いや、急に凄い作品を作れちゃう人がいること自体は全然否定しないんだけどね。才能ってのはあるだろうし。


あとはずっと考えることだね。
何か答えを出さないといけない。でもどれも今一つしっくりこない。
でも、自分の腑に落ちるまで考えていると、最終的にしっくりくる何かが生まれてくる。
誰しもそんな経験はあるかと思います。

そうやって考えて考えてストンと落ちてきたことをどんどん積み重ねていくことで、
ようやく素晴らしいものが作れるのかもしれない。

いやー、クリエイターやってる人ってホント凄いと思うのよ。
サラリーマンが束になって人を何とか満足させているところをひとりでやっちゃうわけだから。

クリエイターの修業はある意味最強の自己投資だろうね。
元手は殆どかからない。
習いに行ったとしてもそれはあくまで個人が支払う額の領域に収まるわけだから。
だけどこの辺に、「好きなことは仕事にしちゃいけない」なんて話があるのかもしれないよね。

好きとはいえやっててしんどくなるくらいやり込まないといけなくなるわけだからねえ。
仕事にしてしまうと納期的なものも発生してくるだろうし、
時間に追われるとそれだけで義務感が伴ってくる。

この辺はきついだろうね。


それでも、やっぱり作り手って凄い。

リアルの友人たちにはまだ件p家系の仕事をしている人がいないから、
余計にそう感じるのかもしれない。

何かを世の中に残したいと意気込んでいる皆様、
心から応援しています。