サイコドラマ⑦
人は本能のように、心の傷を舐め合って生きていく。
好史が死んで、数日が経った。学校は夏休みに入り、僕は何の実感も無いままだった。家の中は妙に蒸し暑く、勉強は相変わらず身に入らなかった。元々何の目標も無かった僕は、話し相手も、進むべき道の目安も失ってしまったようだった。ただ、与えられた課題を熟し、なんとなく買った参考書を眺めた。悲しみは湧いて来ず、ただこの休暇が永久に続くような気がした。朝起きて、1日机に向かい、夜眠った。時折、自分でもよく分からない後悔の念が、襲ってきた。
そんな折、加藤先生が僕を家に呼んだ。先生の家に入る人がどれほどいるのか分からない。あまり多くはないだろう。僕は、アパートの2階にある先生の部屋の前に立ち、少し緊張しながらドアを開けた。
「いらっしゃい」と、加藤先生は明るい声で言った。
「こんにちは」と、僕は言った。
突然の呼び出しで、僕はどうすれば良いのか分からなかった。加藤先生は、努めて明るく振る舞っているようだった。先生の部屋は8畳くらいの洋室で、白い壁に背を向けるようにテレビが置かれ、テレビの正面には小さなテーブルと白いソファーが置いてあった。先生は僕をソファーに座らせ、自分はテーブルを挟んだ向かいの床に、座布団を敷いて座った。
「どうだい、最近の調子は」
「まあまあですよ」
「そっか」
会話は途切れ途切れだった。先生は、僕が好史の話題をしたくないのではないかと、心配しているようだった。
「好史のことなら、大丈夫ですよ」と、僕は言った。
「そうか」と、先生は相槌を打った。
「大丈夫ですか、先生」
「ごめんな、こんな風に呼び出しておいて何も言ってやれなくて」
「いいんですよ、先生の気遣いには昔から感謝しっぱなしですから」
「いやいや」と、先生は小さく笑いながら言った。
「なんだろうな。私が小池を励ましてあげたいと思って呼んだのに、却って私が励まされているみたいだ。まさかこんな風になるなんて思ってなかったから――」
加藤先生の話を聞きながら、僕は先生の人間性に初めて触れたような気がしていた。小さい頃から、先生というものは尊敬されたり嫌われたりしながらも、間違いなく生徒より上の立場にいるものだと思い込んできた。しかし、今目の前で話をしている先生は、紛れもなく僕と同じ立場の人間だった。
「先生って、大変ですね」と、僕の口が自然に言っていた。
「どうして」と、先生は尋ねた。
「俺達に弱みを見せられないじゃないですか。進路相談なんて特にそうだ。冷静に考えるとまだ大学を出てきたばかりの先生が、今から大学に入ろうとしている奴らにアドバイスしなきゃいけない。もちろん、歳が近いから同じ目線にも立ち易い。でも、立場上同じ目線に立っちゃいけない。先生が不安定だと生徒は安心できない。それって、凄いことじゃないですか」
「どうしたんだ、突然」と、先生は笑った。
「それですよ」と僕は言った。「先生はそこで、『そうなんだ。私だって愚痴くらいこぼしたい』って言ったって良いはずなのに」
加藤先生は、僕がそう言い終えた後もしばらく何も言わなかった。僕は言わなくても良いことを言ってしまったかと思いながらも、黙って先生の言葉を待った。何も考えずにいると、自然と僕の目は先生の身体に移っていた。師弟という立場が曖昧になると、先生がよく見知った女友達のようにも見えた。私服の加藤先生は、このままの姿で恋人と手を繋ぎながら繁華街を歩いていても、何の違和感もなさそうだった。
「どうしてだろうな」と、しばらくしてから加藤先生は言った。「私自身、どうしてそんな風にしているのか分からない。威厳のある態度をひけらかしたいわけでもないのに。役割っていうものが、自然にそうさせるんだろうな」
「そうでしょうね。俺だって、きっと今中学生の前に立ったら、そんな風に接すると思います。で、多分今先生が上手く言いたいことを見つけられないのも、この役割関係で言えることしか言えないからなんじゃないですかね」
「それは分からんけどな」と、先生は抵抗した。
「俺は正直言って、まだ好史が死んだ実感があまりないんです。時期もあるでしょうけど。勉強に身が入らないのは前からだし」と、僕は言った。
「そうなのか」と先生は言った。「正直言って、私は不安だよ。高橋のことを知った時は、年甲斐もなく泣いた。小池は強いな」
「俺だって、これから凄い悲しみが来るかもしれないです。ただ、実感がないだけで。たまに、凄い後悔の気持ちに襲われるんです。しかも、気持ちだけしか出てこない。どうして後悔してるのか分からないんです」
僕の話を聞きながら、先生は次第に涙目になっていった。僕はそれを見て、何とも言えない切ない気持ちになった。
「ごめんな、辛いだろうな」と、先生は言った。
僕には、それが僕に対する言葉でもありながら、先生自身の辛さを吐き出している言葉であると感じられた。先生には、自分の苦しみを吐き出せる相手がいないのだ。立場もあるだろう。しかしそれよりも、先生自身の性格が、ここまで自分を追い込んでいるのだ。きっと、同僚や家族にも、言えないんだろう。自分の不幸を人に持ち込むことができないのだ。そんな想像をしているうちに、ますます切ない思いがこみ上げてきた。
それからしばらく、僕は加藤先生が机に伏して泣いているのを見ていた。励ましの言葉をかけようかとも思ったが、先生が大切にしている立場の壁を乗り越えることは、失礼になるような気もした。ただ、どうしようもない感情だけが、僕の中で膨らんでいた。
「ごめん――私は何のために小池を家に呼んだんだろう」と、少し落ち着いて先生が言った。「元々、小池が沈んでるんじゃないか、励ましてあげられないかと思って声をかけたのに、こんな所を見せて。恥ずかしいな」
先生は今も尚、先生としての自分と、込み上げる感情との間で揺れ動いているようだった。
「ごめんな」と言いながら、先生は立ち上がった。そして、僕の頭の上にぽんと手を置いた。
――そこで、僕の中にあった感情が弾けたような感じがした。僕は、頭の上に乗っていた先生の手を掴み、肩に手を回した。そして、僕が座っていたソファーに先生を引き唐オた。そして、強く抱きしめ、胸に顔をうずめた。
なんだ。俺も不安だったんじゃないか。僕は思った。僕は行き場のない様々な不安を、自分にも見えないように隠していただけだったようだ。先生は僕の背中に手を回してくれた。泣いているようだった。僕も、子どもみたいに泣いた。
第七の場面は、ここで幕を閉じる。
人は本能のように、心の傷を舐め合って生きていく。
好史が死んで、数日が経った。学校は夏休みに入り、僕は何の実感も無いままだった。家の中は妙に蒸し暑く、勉強は相変わらず身に入らなかった。元々何の目標も無かった僕は、話し相手も、進むべき道の目安も失ってしまったようだった。ただ、与えられた課題を熟し、なんとなく買った参考書を眺めた。悲しみは湧いて来ず、ただこの休暇が永久に続くような気がした。朝起きて、1日机に向かい、夜眠った。時折、自分でもよく分からない後悔の念が、襲ってきた。
そんな折、加藤先生が僕を家に呼んだ。先生の家に入る人がどれほどいるのか分からない。あまり多くはないだろう。僕は、アパートの2階にある先生の部屋の前に立ち、少し緊張しながらドアを開けた。
「いらっしゃい」と、加藤先生は明るい声で言った。
「こんにちは」と、僕は言った。
突然の呼び出しで、僕はどうすれば良いのか分からなかった。加藤先生は、努めて明るく振る舞っているようだった。先生の部屋は8畳くらいの洋室で、白い壁に背を向けるようにテレビが置かれ、テレビの正面には小さなテーブルと白いソファーが置いてあった。先生は僕をソファーに座らせ、自分はテーブルを挟んだ向かいの床に、座布団を敷いて座った。
「どうだい、最近の調子は」
「まあまあですよ」
「そっか」
会話は途切れ途切れだった。先生は、僕が好史の話題をしたくないのではないかと、心配しているようだった。
「好史のことなら、大丈夫ですよ」と、僕は言った。
「そうか」と、先生は相槌を打った。
「大丈夫ですか、先生」
「ごめんな、こんな風に呼び出しておいて何も言ってやれなくて」
「いいんですよ、先生の気遣いには昔から感謝しっぱなしですから」
「いやいや」と、先生は小さく笑いながら言った。
「なんだろうな。私が小池を励ましてあげたいと思って呼んだのに、却って私が励まされているみたいだ。まさかこんな風になるなんて思ってなかったから――」
加藤先生の話を聞きながら、僕は先生の人間性に初めて触れたような気がしていた。小さい頃から、先生というものは尊敬されたり嫌われたりしながらも、間違いなく生徒より上の立場にいるものだと思い込んできた。しかし、今目の前で話をしている先生は、紛れもなく僕と同じ立場の人間だった。
「先生って、大変ですね」と、僕の口が自然に言っていた。
「どうして」と、先生は尋ねた。
「俺達に弱みを見せられないじゃないですか。進路相談なんて特にそうだ。冷静に考えるとまだ大学を出てきたばかりの先生が、今から大学に入ろうとしている奴らにアドバイスしなきゃいけない。もちろん、歳が近いから同じ目線にも立ち易い。でも、立場上同じ目線に立っちゃいけない。先生が不安定だと生徒は安心できない。それって、凄いことじゃないですか」
「どうしたんだ、突然」と、先生は笑った。
「それですよ」と僕は言った。「先生はそこで、『そうなんだ。私だって愚痴くらいこぼしたい』って言ったって良いはずなのに」
加藤先生は、僕がそう言い終えた後もしばらく何も言わなかった。僕は言わなくても良いことを言ってしまったかと思いながらも、黙って先生の言葉を待った。何も考えずにいると、自然と僕の目は先生の身体に移っていた。師弟という立場が曖昧になると、先生がよく見知った女友達のようにも見えた。私服の加藤先生は、このままの姿で恋人と手を繋ぎながら繁華街を歩いていても、何の違和感もなさそうだった。
「どうしてだろうな」と、しばらくしてから加藤先生は言った。「私自身、どうしてそんな風にしているのか分からない。威厳のある態度をひけらかしたいわけでもないのに。役割っていうものが、自然にそうさせるんだろうな」
「そうでしょうね。俺だって、きっと今中学生の前に立ったら、そんな風に接すると思います。で、多分今先生が上手く言いたいことを見つけられないのも、この役割関係で言えることしか言えないからなんじゃないですかね」
「それは分からんけどな」と、先生は抵抗した。
「俺は正直言って、まだ好史が死んだ実感があまりないんです。時期もあるでしょうけど。勉強に身が入らないのは前からだし」と、僕は言った。
「そうなのか」と先生は言った。「正直言って、私は不安だよ。高橋のことを知った時は、年甲斐もなく泣いた。小池は強いな」
「俺だって、これから凄い悲しみが来るかもしれないです。ただ、実感がないだけで。たまに、凄い後悔の気持ちに襲われるんです。しかも、気持ちだけしか出てこない。どうして後悔してるのか分からないんです」
僕の話を聞きながら、先生は次第に涙目になっていった。僕はそれを見て、何とも言えない切ない気持ちになった。
「ごめんな、辛いだろうな」と、先生は言った。
僕には、それが僕に対する言葉でもありながら、先生自身の辛さを吐き出している言葉であると感じられた。先生には、自分の苦しみを吐き出せる相手がいないのだ。立場もあるだろう。しかしそれよりも、先生自身の性格が、ここまで自分を追い込んでいるのだ。きっと、同僚や家族にも、言えないんだろう。自分の不幸を人に持ち込むことができないのだ。そんな想像をしているうちに、ますます切ない思いがこみ上げてきた。
それからしばらく、僕は加藤先生が机に伏して泣いているのを見ていた。励ましの言葉をかけようかとも思ったが、先生が大切にしている立場の壁を乗り越えることは、失礼になるような気もした。ただ、どうしようもない感情だけが、僕の中で膨らんでいた。
「ごめん――私は何のために小池を家に呼んだんだろう」と、少し落ち着いて先生が言った。「元々、小池が沈んでるんじゃないか、励ましてあげられないかと思って声をかけたのに、こんな所を見せて。恥ずかしいな」
先生は今も尚、先生としての自分と、込み上げる感情との間で揺れ動いているようだった。
「ごめんな」と言いながら、先生は立ち上がった。そして、僕の頭の上にぽんと手を置いた。
――そこで、僕の中にあった感情が弾けたような感じがした。僕は、頭の上に乗っていた先生の手を掴み、肩に手を回した。そして、僕が座っていたソファーに先生を引き唐オた。そして、強く抱きしめ、胸に顔をうずめた。
なんだ。俺も不安だったんじゃないか。僕は思った。僕は行き場のない様々な不安を、自分にも見えないように隠していただけだったようだ。先生は僕の背中に手を回してくれた。泣いているようだった。僕も、子どもみたいに泣いた。
第七の場面は、ここで幕を閉じる。