拍手ってコメント付けられるのか……!!
昨日記事の管理画面見ててふと気付きました。
付けられるどころか、コメント付けて拍手下さってる方がいたんですね。
今まで気付きませんでしたorz
と、いうわけで今回はコメント返し。
半年前の記事ですが、知らなかったので許してください。
コメントを頂いていた記事はこちら。
よりによって相当勢いメインで書いた記事だったので、
一度読み返しました。
そして傍目から見て改めて分かる思考のブレっぷり。
でも、言わんとしていることは分かったし自分のいつも持っている価値観と離れているものでもなかったので、
いけるような気がします。
頂いていたコメントはこちら。
――――――――――――――――――――――――――――――――
面白い記事でした!
「感情」と「理性」の関係についてですが、両者は截然と区分できるようなものではない、というのはなるほどと思いました。
そこでなんですが、
①「理性」とは手続きを経た「感情」の発露にすぎず、両者は本質的に同一のものである(=区別できない)。
②「理性」と「感情」はあくまで別個の作用であるが、理性の根幹は感情に統御されており、両者は極めて密接に関連しているため明確な境界線を定めることはできない。
という2つの考え方ができそうだと思いまして、るとすわさんの考えはどちらに近いでしょうか?それともまた別の考えをお持ちでしょうか?
ということがちょっと気になったので、お聞かせいただければと思います~。
――――――――――――――――――――――――――――――――
…………やべえ、難しい。
あ、まずはコメントありがとうございました。
大分昔のことですのでご本人も忘れられてるかもしれませんが、
ともかくありがとうございます。
アレだよね。
まずは質問の意図をちゃんと理解できるかどうかが難しいよね。
確かに俺は感情と理性はそこまでハッキリと分割できるものではないと思います。
ただ、多分質問してもらってる意図のところまで深入りしていくと、
中々厄介な問題ですよね。。。
少しずつ自分の考えをブレイクダウンしていきたいと思います。
まず、理性と感情がなぜ明確に分割できないと考えるか。
これは、俺には理性というものが場所や場面によって姿かたちを変えてしまうフレキシブルな概念に見えているからだと思います。
理性的であること。
これは落ち着きがあることでしょうか。
そうとも言うでしょう。
ここで我慢したら絶対に良くないと思ってキレることでしょうか。
それもそうでしょう。
なんとなく理性的であることって、その人自身の中にある一歩退いた目線からのGOサインを待ってアクションを起こすこと全般を指しているような感じがしますね。
酒を飲んでへべれけになって通行人を殴ってしまうことを理性的とは言わないかもしれません。
でも極論すれば、そこに人がいることで自分の視界が遮られて鬱陶しいという、
極めて自己中心的な立場に立てばそれも合理的な判断だと言えましょう。
そう考えると、理性的であることって「メタ視点からGOサインをもらって動くこと」だと考えられますね。
それが自己中心的な位置から離れれば離れるほど (一般的な価値観に近づけば近づくほど) 、その人は他人から理性的だと判断される。
ひとまず、ここまでの思考の整理からすると、
恐らく②の方が俺自身の考え方に近いと思います。
というかね。
理性って相対的なもんだと思うのよね。
②で書いてもらってる考え方だと「理性の根幹は感情に統御されている」という風になってるよね。
ただ俺の考え方を例えると、
「感情というキャラメルを理性という分厚いオブラートが包んでいるんだけど、ちょっと熱で融けちゃっててもはやどこからがキャラメルでどこからがオブラートなのかよく分からない」
みたいな感じかな。
多分、理性と感情は一番離れている所どうし見ると結構違う風に見えると思うんだよね。
理性が理路整然としているのに対して、感情はごちゃごちゃとしているかと思えば突然真っ直ぐに伸びて行ったりする。
ただし、理性の理路整然度合いは人によって違っていて、
「とっても丁寧に並べたんだよ」といってごちゃごちゃの塊を見せられたりすることもある。
理性はより自分にとって無関係で距離の遠いものを考える時に強く発揮される。
「こうだからこう。こうだからこう。こうだからこう……」
ところが、自分に距離が近くなった途端、理性的なものの言い方は感情を正当化する材料になる。
「違うよ!! こうだからこう! こうだからこう! こうだからこうでしょ!」
更に自分に近づいてくると、さっきの酔っ払いの例みたいになる。
「お前なんか嫌いだ! 死ね!」
結論を出すのが難しいね。
感情は主観的・自己中心的なものの感じ方であるのに対し、
理性は客観的・メタ的なものの見方であるという切り分け方はできる。
ただし、それらは見る人や感じる人によって異なり曖昧に融け合っている。
メタ的な判断が妙に自己中心的な場合もあれば、全然違う場合もある。
その混ざり具合を規定しているのは主体からの心理的な距離感であり、
距離感が遠いものに対するほど人は客観的になる。
更に、その主体と対象との関係を見ている第三者の視点の登場によって、
第三者と主体との距離感、第三者と対象との距離感といったより複雑な関係が生じ、
「理性的に見える」「感情的に見える」といった他者視点での「理性的・感情的観」が発生してくる。
つまり、感情と理性は別個のものであるが尻尾が繋がっている。
ないしは、同じものだがS極とN極のように両サイドが偏っている。
完全に煙にまいている感があるけど、
今の俺ではこの辺が限界だと思います。。。
まあ、さっき②の方が近いって言ったけど、
正直言葉も理論的思考も本質的には欲求からきているような気がするので、
①でもいいのかもしれませんね。
コメントで頂いた2つの意見も「概念・定義としてどう切るか」の違いであってどちらが正しいとは言えないと思うのですが、
②からスタートしつつ個人的には①の方が好きです。
皆さんも考えてみてください。
意外に行きつくところまで行きつくかもしれませんよ。
じゃあ寝ますね。おやすみなさい。
昨日記事の管理画面見ててふと気付きました。
付けられるどころか、コメント付けて拍手下さってる方がいたんですね。
今まで気付きませんでしたorz
と、いうわけで今回はコメント返し。
半年前の記事ですが、知らなかったので許してください。
コメントを頂いていた記事はこちら。
よりによって相当勢いメインで書いた記事だったので、
一度読み返しました。
そして傍目から見て改めて分かる思考のブレっぷり。
でも、言わんとしていることは分かったし自分のいつも持っている価値観と離れているものでもなかったので、
いけるような気がします。
頂いていたコメントはこちら。
――――――――――――――――――――――――――――――――
面白い記事でした!
「感情」と「理性」の関係についてですが、両者は截然と区分できるようなものではない、というのはなるほどと思いました。
そこでなんですが、
①「理性」とは手続きを経た「感情」の発露にすぎず、両者は本質的に同一のものである(=区別できない)。
②「理性」と「感情」はあくまで別個の作用であるが、理性の根幹は感情に統御されており、両者は極めて密接に関連しているため明確な境界線を定めることはできない。
という2つの考え方ができそうだと思いまして、るとすわさんの考えはどちらに近いでしょうか?それともまた別の考えをお持ちでしょうか?
ということがちょっと気になったので、お聞かせいただければと思います~。
――――――――――――――――――――――――――――――――
…………やべえ、難しい。
あ、まずはコメントありがとうございました。
大分昔のことですのでご本人も忘れられてるかもしれませんが、
ともかくありがとうございます。
アレだよね。
まずは質問の意図をちゃんと理解できるかどうかが難しいよね。
確かに俺は感情と理性はそこまでハッキリと分割できるものではないと思います。
ただ、多分質問してもらってる意図のところまで深入りしていくと、
中々厄介な問題ですよね。。。
少しずつ自分の考えをブレイクダウンしていきたいと思います。
まず、理性と感情がなぜ明確に分割できないと考えるか。
これは、俺には理性というものが場所や場面によって姿かたちを変えてしまうフレキシブルな概念に見えているからだと思います。
理性的であること。
これは落ち着きがあることでしょうか。
そうとも言うでしょう。
ここで我慢したら絶対に良くないと思ってキレることでしょうか。
それもそうでしょう。
なんとなく理性的であることって、その人自身の中にある一歩退いた目線からのGOサインを待ってアクションを起こすこと全般を指しているような感じがしますね。
酒を飲んでへべれけになって通行人を殴ってしまうことを理性的とは言わないかもしれません。
でも極論すれば、そこに人がいることで自分の視界が遮られて鬱陶しいという、
極めて自己中心的な立場に立てばそれも合理的な判断だと言えましょう。
そう考えると、理性的であることって「メタ視点からGOサインをもらって動くこと」だと考えられますね。
それが自己中心的な位置から離れれば離れるほど (一般的な価値観に近づけば近づくほど) 、その人は他人から理性的だと判断される。
ひとまず、ここまでの思考の整理からすると、
恐らく②の方が俺自身の考え方に近いと思います。
というかね。
理性って相対的なもんだと思うのよね。
②で書いてもらってる考え方だと「理性の根幹は感情に統御されている」という風になってるよね。
ただ俺の考え方を例えると、
「感情というキャラメルを理性という分厚いオブラートが包んでいるんだけど、ちょっと熱で融けちゃっててもはやどこからがキャラメルでどこからがオブラートなのかよく分からない」
みたいな感じかな。
多分、理性と感情は一番離れている所どうし見ると結構違う風に見えると思うんだよね。
理性が理路整然としているのに対して、感情はごちゃごちゃとしているかと思えば突然真っ直ぐに伸びて行ったりする。
ただし、理性の理路整然度合いは人によって違っていて、
「とっても丁寧に並べたんだよ」といってごちゃごちゃの塊を見せられたりすることもある。
理性はより自分にとって無関係で距離の遠いものを考える時に強く発揮される。
「こうだからこう。こうだからこう。こうだからこう……」
ところが、自分に距離が近くなった途端、理性的なものの言い方は感情を正当化する材料になる。
「違うよ!! こうだからこう! こうだからこう! こうだからこうでしょ!」
更に自分に近づいてくると、さっきの酔っ払いの例みたいになる。
「お前なんか嫌いだ! 死ね!」
結論を出すのが難しいね。
感情は主観的・自己中心的なものの感じ方であるのに対し、
理性は客観的・メタ的なものの見方であるという切り分け方はできる。
ただし、それらは見る人や感じる人によって異なり曖昧に融け合っている。
メタ的な判断が妙に自己中心的な場合もあれば、全然違う場合もある。
その混ざり具合を規定しているのは主体からの心理的な距離感であり、
距離感が遠いものに対するほど人は客観的になる。
更に、その主体と対象との関係を見ている第三者の視点の登場によって、
第三者と主体との距離感、第三者と対象との距離感といったより複雑な関係が生じ、
「理性的に見える」「感情的に見える」といった他者視点での「理性的・感情的観」が発生してくる。
つまり、感情と理性は別個のものであるが尻尾が繋がっている。
ないしは、同じものだがS極とN極のように両サイドが偏っている。
完全に煙にまいている感があるけど、
今の俺ではこの辺が限界だと思います。。。
まあ、さっき②の方が近いって言ったけど、
正直言葉も理論的思考も本質的には欲求からきているような気がするので、
①でもいいのかもしれませんね。
コメントで頂いた2つの意見も「概念・定義としてどう切るか」の違いであってどちらが正しいとは言えないと思うのですが、
②からスタートしつつ個人的には①の方が好きです。
皆さんも考えてみてください。
意外に行きつくところまで行きつくかもしれませんよ。
じゃあ寝ますね。おやすみなさい。