おきると荘の書斎

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衝撃の事実 (コメント返し)

2016-08-18 23:40:00 | ノンジャンル
拍手ってコメント付けられるのか……!!

昨日記事の管理画面見ててふと気付きました。
付けられるどころか、コメント付けて拍手下さってる方がいたんですね。
今まで気付きませんでしたorz

と、いうわけで今回はコメント返し。
半年前の記事ですが、知らなかったので許してください。

コメントを頂いていた記事はこちら

よりによって相当勢いメインで書いた記事だったので、
一度読み返しました。

そして傍目から見て改めて分かる思考のブレっぷり。
でも、言わんとしていることは分かったし自分のいつも持っている価値観と離れているものでもなかったので、
いけるような気がします。

頂いていたコメントはこちら。

――――――――――――――――――――――――――――――――
面白い記事でした!
「感情」と「理性」の関係についてですが、両者は截然と区分できるようなものではない、というのはなるほどと思いました。
そこでなんですが、

①「理性」とは手続きを経た「感情」の発露にすぎず、両者は本質的に同一のものである(=区別できない)。

②「理性」と「感情」はあくまで別個の作用であるが、理性の根幹は感情に統御されており、両者は極めて密接に関連しているため明確な境界線を定めることはできない。

という2つの考え方ができそうだと思いまして、るとすわさんの考えはどちらに近いでしょうか?それともまた別の考えをお持ちでしょうか?
ということがちょっと気になったので、お聞かせいただければと思います~。
――――――――――――――――――――――――――――――――


…………やべえ、難しい。

あ、まずはコメントありがとうございました。
大分昔のことですのでご本人も忘れられてるかもしれませんが、
ともかくありがとうございます。


アレだよね。
まずは質問の意図をちゃんと理解できるかどうかが難しいよね。

確かに俺は感情と理性はそこまでハッキリと分割できるものではないと思います。

ただ、多分質問してもらってる意図のところまで深入りしていくと、
中々厄介な問題ですよね。。。


少しずつ自分の考えをブレイクダウンしていきたいと思います。

まず、理性と感情がなぜ明確に分割できないと考えるか。
これは、俺には理性というものが場所や場面によって姿かたちを変えてしまうフレキシブルな概念に見えているからだと思います。

理性的であること。

これは落ち着きがあることでしょうか。
そうとも言うでしょう。

ここで我慢したら絶対に良くないと思ってキレることでしょうか。
それもそうでしょう。

なんとなく理性的であることって、その人自身の中にある一歩退いた目線からのGOサインを待ってアクションを起こすこと全般を指しているような感じがしますね。


酒を飲んでへべれけになって通行人を殴ってしまうことを理性的とは言わないかもしれません。

でも極論すれば、そこに人がいることで自分の視界が遮られて鬱陶しいという、
極めて自己中心的な立場に立てばそれも合理的な判断だと言えましょう。


そう考えると、理性的であることって「メタ視点からGOサインをもらって動くこと」だと考えられますね。

それが自己中心的な位置から離れれば離れるほど (一般的な価値観に近づけば近づくほど) 、その人は他人から理性的だと判断される。


ひとまず、ここまでの思考の整理からすると、
恐らく②の方が俺自身の考え方に近いと思います。

というかね。
理性って相対的なもんだと思うのよね。


②で書いてもらってる考え方だと「理性の根幹は感情に統御されている」という風になってるよね。

ただ俺の考え方を例えると、
「感情というキャラメルを理性という分厚いオブラートが包んでいるんだけど、ちょっと熱で融けちゃっててもはやどこからがキャラメルでどこからがオブラートなのかよく分からない」
みたいな感じかな。

多分、理性と感情は一番離れている所どうし見ると結構違う風に見えると思うんだよね。
理性が理路整然としているのに対して、感情はごちゃごちゃとしているかと思えば突然真っ直ぐに伸びて行ったりする。

ただし、理性の理路整然度合いは人によって違っていて、
「とっても丁寧に並べたんだよ」といってごちゃごちゃの塊を見せられたりすることもある。



理性はより自分にとって無関係で距離の遠いものを考える時に強く発揮される。
「こうだからこう。こうだからこう。こうだからこう……」

ところが、自分に距離が近くなった途端、理性的なものの言い方は感情を正当化する材料になる。
「違うよ!! こうだからこう! こうだからこう! こうだからこうでしょ!」

更に自分に近づいてくると、さっきの酔っ払いの例みたいになる。
「お前なんか嫌いだ! 死ね!」



結論を出すのが難しいね。

感情は主観的・自己中心的なものの感じ方であるのに対し、
理性は客観的・メタ的なものの見方であるという切り分け方はできる。

ただし、それらは見る人や感じる人によって異なり曖昧に融け合っている。
メタ的な判断が妙に自己中心的な場合もあれば、全然違う場合もある。

その混ざり具合を規定しているのは主体からの心理的な距離感であり、
距離感が遠いものに対するほど人は客観的になる。

更に、その主体と対象との関係を見ている第三者の視点の登場によって、
第三者と主体との距離感、第三者と対象との距離感といったより複雑な関係が生じ、
「理性的に見える」「感情的に見える」といった他者視点での「理性的・感情的観」が発生してくる。


つまり、感情と理性は別個のものであるが尻尾が繋がっている。
ないしは、同じものだがS極とN極のように両サイドが偏っている。


完全に煙にまいている感があるけど、
今の俺ではこの辺が限界だと思います。。。


まあ、さっき②の方が近いって言ったけど、
正直言葉も理論的思考も本質的には欲求からきているような気がするので、
①でもいいのかもしれませんね。



コメントで頂いた2つの意見も「概念・定義としてどう切るか」の違いであってどちらが正しいとは言えないと思うのですが、
②からスタートしつつ個人的には①の方が好きです。



皆さんも考えてみてください。
意外に行きつくところまで行きつくかもしれませんよ。

じゃあ寝ますね。おやすみなさい。

外界に接する

2016-08-17 22:44:00 | 小説
お盆でしたね。

久々に外に出てまいりました。
外界に触れるとやりたいことがいっぱい出てくるよね。

やっぱり、外の世界との交流がなくなると気持ちが停滞するもんですね。

今回一回風を通してみて改めて感じました。

うさぎ小屋④

 1か月が経った。僕は時々授業をサボるようになった。とはいっても、サボって何かをするわけではなく、寝ているかインターネットに興じているか、そんなところだった。ただ、高校生の頃と比べると、散歩をすることが多くなった。色々とやらなければならないことが重なる時期が終わり、改めて自分に与えられた自由な4年間のことを考えると、広大な草原に置き去りにされたような感覚になった。僕はその感覚を紛らわせるために、時々エチル倶楽部に顔を出した。今泉さんと田村さんは終業後の時間帯に決まってやってきた。小嶋さんは常に部室にいた。ちゃんと自分の下宿はあるらしいが、校舎への距離も近く居心地も良いこの場所は、小嶋さんでなくとも油断すれば居着いてしまいそうな吸引力があった。大学という小さな社会の中で、僕のことを認識している人は全体の5%にも満たない。まして、僕という人間を日常の中で思い浮かべる人はほとんど皆無といっていい。そのわずかな繋がりに逃げ込もうとしている僕は、人としてごく自然な状態にあると思う。
 ある晴れた日の昼下がり、空きコマの時間帯に入った僕は少しずつ攻撃的になっていく日差しから部室に逃れ込んだ。部室には田村さんと小嶋さんがいた。
「ロシアの小説は慣れるまでが大変だよね」と田村さんが言った。
田村さんと同じく僕もほとんど本など読んだことのない文学部不適合人間だったが、田村さんがロシア文学を専攻しているという話を聞いてからドストエフスキーの『罪と罰』を読んでみた。なぜ罪と罰かといえば、インターネットで気まぐれに検索してみたところそれくらいしか聞いたことのある本がなかったからだ。
「全然登場人物が覚えられなかったんですよね」僕は言った。
「そうなんだよね。みんな急に愛称とかで呼び合い始めるし」田村さんは笑いながら言った。その中にどれほど本気が含まれているのかはよく分からなかったが、ひとまず僕の感じた読みにくさは理解してくれたようだった。
「そう、それに罪と罰はミステリー小説だからさ。人物名に混乱して気を取られてると何が何だか分からなくなってくるんだよ。本当は思想とか宗教のテーマがずっと流れてるのに、事実関係の把握に忙しくてそこまで読み込めない。そして気付いた時にはロージャが地面に接吻してて、『ああ、これがかの有名な』みたいな感じになって物語が終わる」
「まさにそれでした。かといって2回読むにはちょっと分量が重たいというか」
「分かる。まあ、実際2回目って意外にするする読めちゃうから、考えてるほど重たくはないんだけどね」
「そうなんですね。僕、同じ本を2回読んだことなんて一度もないかもしれないです」
「読み方は人それぞれだからね。読んでみようと思っただけでも文学部の素質あると思うよ、僕からすれば。僕だってほとんど本なんか読まないけど、それでも高校の頃に比べれば義務的に読んでてさ。そうすると、かじるどころかちょっと歯形付けた程度にしか読んでないのに、周りの人がもっと読んてないことに気付くんだよね」
「そんなもんですかね」
「そうだよ、ホントに。その分アニメ・漫画・ラノベみたいな方向でみんな物語に触れてるんだね。僕はそっちにも詳しくないから誰とも話ができないんだけど」
「僕もそうです。昨日社会学の先生がアニメを教材に持ってきてびっくりしました」
「教授も授業をキャッチーにしようと必死だからな」小嶋さんが口を開いた。
「まあ、これから社会人になる人がほとんどである以上、社会で多く取沙汰されてることを取り上げた方が学生のためでもあるだろうしね」田村さんが付け足した。
 その時不意に、ドアが開く音がして薄暗い部室に光が差した。背後を振り返ると、今泉さんではなく小柄で少し派手なスカートを履いている女子学生が入って来るところだった。
「あれ、珍しいお客さんだね」田村さんが女子学生に声をかけた。
「あれ、新しい部員が増えたんだ」女子学生は、小柄な体格に似合った高めの可愛らしい声で言った。
「この子は猪島君。新入生で文学部」小嶋さんが僕を紹介した。
「はじめまして。猪島といいます」
「はじめまして。曾我です」と曾我さんは小声で挨拶して、小嶋さんの顔を見た。
「何後輩相手に緊張してるんだよ」小嶋さんが曾我さんをからかう。
「だって初対面に先輩も後輩も関係ないし、心の準備が……」最後は消え入るような声で言った。
緊張した曾我さんの声を聞き表情を見ていると、何故か僕までドキドキしてしまいどうしていいか分からなくなってしまった。
「曾我さんは俺と同じ工学部。女子の割合が極めて少ない中一人二役で頑張ってるので、部室に来た時には労ってあげてね」小嶋さんはそう言ってからからと笑った。
一人二役と聞き、僕はこの曾我さんこそが二重人格の先輩なのだと悟った。ただ、二重人格がどういう病気なのか、どの程度まで触れていい話題なのかもよく分からなかったので、とりあえずもう一度挨拶をしてこたつの近くに座りなおした。
「とりあえず飲んだら?」小嶋さんは曾我さんに向かって言いながら立ち上がり、棚からウイスキーの瓶を持って来て手際よく水割りにした。
「うん」曾我さんは小さく頷くと、グラスを受け取って一口飲んだ。遠慮がちにお酒を飲む曾我さんの姿は小動物を連想させた。
「さっきも小嶋が言ったとおり曾我さんは一人二役なんだけど」田村さんはこともなげに言った。「あいにく相方が出てくるのを制御することはできないので、臨機応変に対応してあげてね」
「は、はい。でもどうすればいいんですか?」
「基本的には別の人だと思って接してれば大丈夫。ちょっと最初は違和感があるかもしれないけど」田村さんは言った。
曾我さんはなおも恥ずかしそうな表情のまま水割りを飲んでいる。僕はなんとなく未知のものに対する漠然とした不安を覚えたが、同時にそれは好奇心でもあった。
 ふと時計を見ると、既に次の授業の時間帯に突入していた。
「あ、やばい。もうこんな時間だ。曾我さん、よろしくお願いします」僕は一言曾我さんに挨拶をして部室を後にした。新たな部員と出会った僕の心は、はじめて部室に顔を出した時のような新しい気持ちに切り替わっていた。


崩して直して崩して直す練習

2016-08-02 00:29:00 | ノンジャンル
こんにちは。

昨日のブログはですね。

えー……


すみませんでした!


いや、大分お酒を飲んでいたこともあって、
脈絡とか一度全部取っ払って出てくるまんまの言葉を書き並べていってみようと思ったんですよね。


そしたらあんな感じになりました。

今は見返す気にもなれないんだけど、
書いてる時は気持ちよかったですね。

なんというか、例えば「川の流れ」と書いた時には川の流れのことをイメージしている感じがして心地好かった。

こういう言葉遊びもあるんですよねー。

言葉はイメージを記号化したものでもあるわけですが、
記号化した途端、言葉だけが先に出てきてイメージが心の奥底に埋められてしまうような気がしますね。

イメージって、日常的に言葉として表現しているものよりも、
もう少し感情が乗っかっている気がするんですよね。

ただ、「朝」と書くたびに鮮明に朝の情景が体験されていたら心が波立って仕方ない。
人は生きているうちにイメージと言葉を丁度よく自分の中でブレンドしているのかもしれませんね。

ただ、最近生活を送るにあたって言葉の方が自分の中で強くなり過ぎているような気もしているんだよね。


そんなこともあり、
時々イメージをぶわっと出すとか、
脈絡や文法や言葉同士の繋がりを少し壊してやるとか、
そういうことを意識してやっていきたいと思っている部分があるんですね。

文脈というものも自分自身の組み立てによって成り立っているわけですし、
そこには論理だけじゃなくて自分に心地好い「組み立て方のお作法」が含まれているはずで、

その癖から逃れるのは難しいけど、
その自分の枠組みから自由になろうともがいてみるのも面白いんじゃないかと思ったりしています。

俺が具体的に何かしているわけではないんだけど、
自分ルールを剥がすのに一番手っ取り早いのは、
別のルールを意図的に作ってそれに従ってみることなんじゃないか。
今はただ自分が思うようにダラダラ書いてるんだけど、

じゃあカタカナ語は一切使わないで書いてみようとか、
一文を短くしてみようとか。
五・七・五のリズムに乗せて言葉を書いてみようとか。

そんな別枠のルールを作って従ってみると、
自分のいつもの書き方では上手く収まらないことが出てきそうな感じがするよね。

その時に色々と工夫したら自分の言葉が別の角度から見えてくるんじゃないか。

無意識に固まった自分ルールに従っている時ほど、
言葉が記号っぽく見えてしまうような気がするので、
そうやって少し崩してみることで、
イメージが広がったりする…………かなあ。

いや、別に言葉とかイメージに執着があるわけじゃないんですけどね。

ただ、話したり書いたりする時に、
少しでも気持ちいい方が人生が僅かに素敵になるんじゃないかと予想しているだけです。

皆さんは、どんな風に自分の言葉と付き合っていますか?