自分の身を守っていると何も起きずに終わってしまうところがあって、
何か避けたい道を通ることをしないと結果的につまらないだけで終わっちゃうんだよね。
それしんどくない……?
うさぎ小屋⑥
東京の雨は性質が悪い。薄灰色に包まれた街は、いつもより汚く見える。小学生の頃は雨が降ると上を向いて口を開けていたものだが、東京に住んでいたらそんなことは絶対にしていなかっただろう。酸性雨やら環境汚染やら、かつてはいまひとつピンとこなかった言葉が、ここではとてもリアルな感じがする。
火曜日は朝から18:00まで授業が詰まっている。雨の影響は大きく、どの講義も普段の3分の2程度の出席者だった。僕も家を出るか否かで相当迷ったが、後で痛い目に合うのも浮「ので顔を出すことにした。傘が持ち込む雨の湿気とにおいが教室中に広がっていて、気持ちが滅入った。前でピアジェがどうのこうのと言っている先生も心なしか不機嫌に見える。僕は頬杖をつきながらしばらく窓の外を眺めていた。高校生であれば青春の甘酸っぱさに酔うこともできただろうが、大学校舎の2階の窓にはどんよりとした将来の不安だけが映り込んでいた。
棚田のようになった教室では、後ろに座っていても教授の薄い頭がよく見える。逆に言えば教授の側からもこちらがよく見えているということだ。それも人数の少ない今日のような日は、余所見をする不真面目な学生が目について仕方ないことだろう。そんなことを考えながらふと後ろを振り返ると、入り口側の一番奥の席に今泉さんがいた。相変わらず地味な顔立ちだが、けばけばしく仕立て上げた顔より地味な顔を見ている方が安心できた。今泉さんは僕に気付いていないようで、真剣な面持ちで講義に耳を傾けていた。それならもっと前の席の方が聴きやすいと思うのだが、つい目立たない所に落ち着いてしまうのが日本人の性というものだろう。
ひと通り幼児の発達についての話が終わると、少し早めに授業は終わった。そのままエチル倶楽部に顔を出そうかと思ったが、ふと今泉さんの後をつけてみようと思い立った。今泉さんがエチル倶楽部に出てくる頻度は田村さん・小嶋さんに比べると少ない。普段の学生生活をどんな風に過ごしているのか少し気になった。エチル倶楽部の外側の人間関係はどうなっているんだろう。今思えば、今泉さんに限らず他の3人も外の話はあまり口にしなかった。あの別世界のような空間にいると日常を忘れがちなのかもしれない。
今泉さんは校舎を出ると、エチル倶楽部の部室とは反対にある北側の校門に向かった。淡いピンク色の傘には可愛らしい花の模様が描いてある。恐らく適当に買ったものではないだろう、と僕の無知な目でも察することができた。今泉さんによく似合っているが、無頓着にも見える服装と比べると少し不思議な対比だった。
校門を出ると、大学に面した道をしばらく東側に歩いた。駅とは反対側で学生はあまり向かわない方角だった。少し人通りが少なくなったが、それでもカップルや主婦らしき女の人が雨の中を行きかっていた。なんとなく新鮮な印象に、僕はきょろきょろと辺りを見回した。飲食店や小さなオフィスビルが立ち並ぶ通りは、更に少し進むと商店街に繋がっていた。
「早かったね」という今泉さんの声に、僕は我に返って歩みを止めた。
今泉さんが話しかけているのは曾我さんだった。エチル倶楽部の活動というわけではなさそうだった。
「じゃあ行こうか。ここに車停めてあるから」と曾我さんがコインパーキングの看板を指さしながら言った。
僕は強烈な違和感に襲われた。曾我さんの雰囲気はこの前部室で会った時とは明らかに違っていた。声もはっきりしているし、おずおずとした感じも今の曾我さんには全くなかった。得体の知れないものを見たという不安が僕の心の中にじわじわと広がっていく。雨の音が大きくなったような気がした。
これが一人二役か……と、しばし僕は茫然として2人を眺めていた。今泉さんは右腕を曾我さんの左腕に絡めて歩いている。曾我さんはガウチョパンツのャPットに左手を突っ込み、今泉さんから受け取った傘を右手で差している。曾我さんが僕からは見えない運転席に乗り込むと、車のエンジンがかかる音がした。よく見ると車はパーキングのフラップの前に停まっていた。
やがて2人を乗せたセダンはパーキングの出口を左折して遠くの方に消えていった。湿ったアスファルトを蹴るタイヤの音だけが、しばらく僕の耳に残っていた。