おきると荘の書斎

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美術館に行こう。

2016-02-28 21:32:00 | ノンジャンル
こんにちは。

気が向いた時にだけ更新される。それがこのブログ。

今日は、みんな大好き美術館のお話をしましょう。

ぶっちゃけた話、最近いつ行きました?
ツイッターでTLを見てる限り造詣の深い方が多そうなので、
実は結構みんな行ってるんじゃないかという説もありますが、
リアル友人の中でよく美術館に行くという人はあまり聞いたことがありません。

でもね。
面白いんだよ。これが中々。

「お前に件pなんて分からないだろ」とか「僕には分からないや☆」とかいうセリフも聞き飽きるほど使い回されているはずですが、
Pixivで絵師さんの絵を見て楽しめる人には充分すぎるほどの素養があると思うんですけどね、個人的には。

ただ、かくいう俺も深入りするほど美術の世界には詳しくありませんので、
個人的に知っているレベルの簡単な話と、俺個人の楽しみ方をご紹介したいと思います。

まず、西洋絵画の先駆けといえば宗教画でしょうかね。
やっぱり、西洋にはキリスト教という文化が異常なまでに深く食い込んでいるわけです。音楽も絵も。
有名どころでいくとアンジェリコの「受胎告知」とかね。
音楽ならジョスカン・デ・プレとか。

とにかく、件pそのものが現実から一歩神聖なところに踏み込んだもののイメージがありますね。

簡単には触れられないというか。

ただ、現在はサイゼリヤに行ったらいっぱい見れます。


まあ、そんなんで神様とか仏様とか (?) が描かれていくわけなんですが、
ある時から有名画家が人間を普通に描き始めます。

中でも、神ではない普通の女性のヌードの絵が話題になったのがゴヤという画家。
その当時の人たちからすると、これは信じられないタブーだったんですよね。

なんせ、神様はある種イデアですからね。肉体も神聖なものなわけです。
ただ、人間の裸はただの肉体ですから、これは卑猥ということになる。

だから、きっと今の感覚で言うならば、美術館に行ってみたら作品としてAVが流れてました、くらいの感じかな。

まあとにかく、人がガンガン描かれるようになってきた。

この辺までは、個人的には実はそれほど興味ないんですよね……
何かのきっかけでちゃんと見れば好きにはなりそうなんですが。


ただ、ここからの流れは中々面白い。

人が丁寧に描かれる時代も、やがて終わりを迎えます。

まずは印象主義。
代表はモネとルノワールでしょうね。

輪郭? 輪郭ってなんだよ。そんなもんお前らが勝手に物の縁取りを決めてるだけじゃねえか。
ってのが印象主義のイメージですかね。

これ面白いんだけど、音楽も割と似た流れをたどってきてるんだよね。
ここに音楽の話をぶっこむと相当長くなると思うので割愛しますが。

印象派の絵は、沢山の色をちょっとずつ置いてひたすら重ねたような見た目をしています。
今までのクリアな書き方をぶっ壊した。これが面白いですね。

一回ぶっ壊れると、行くところまで行くもんです。

印象主義の後は象徴主義とか野獣派とか、本当に様々な「ぶち壊し」が出てくるんだゾ。


絵には輪郭がなくてもいい!

別に遠近法なんか使わなくてもいい!

色なんて一色でいい!

被写体なんて要らない!

キャンパスなんか切り裂いちまえ!

みたいな感じになっていくんですよね。


ひとつひとつ追いかけると半端じゃない字数になりそうだったので、
一旦思い切って6行にカットしてみました。

いや、これ何が面白いって、段々上手に描こうというところから、自分の気持ちを表現しようとか新しいことをやろうみたいな方にシフトしているところなんだよね。

有名な画家であることって、
何か新しいことをしてそれが評価されたってことの証でもある。

そういう意味で、俺は美術館に行くのが好きです。


俺の美術館の楽しみ方は基本的にそういう感じです。

この人はどんなことをやったんだろう。
何を考えていたんだろう。そんなことを考えながら見る。

そこには、否が応でも物語がついてくるんです。
想いがついてくるんです。

例えばシャガール。
この人は、大好きだった奥さんの死をきっかけに絵柄が一気に変わります。

モネにしても、晩年はほとんど目が見えなくなっている中で、視界に映り込む光をひたすら描き込んでいく。
モネの晩年の絵はパッと見何か分からないです。
でもそんな絵の方が凄く魅力を持っているんですよね。

画家の絵柄が途中で変わった時「何があったんだろう」とか考えたり、
「こんな気持ちになるとこういう風に変わるんだ」と思ってみたりするのも、
また楽しいものです。

また現代の画家はみんな頭がおかs凄い思考回路を持っているもので、
追いかけいているだけでウキウキしてきてしまうんですよ。


そういったこともあって、俺は寄せ集めよりも個人の展覧会の方が好きです。

ちなみに、ツイッターでもよく言うけど俺はクリムトの人物画が好きです。
象徴主義ってところの人たちになると思うんだけど、あの辺の人はみんな好きですね。

あとは最近の日本の人ね。
特に会田誠ですねー。


さて、みなさんも一押しの画家がいましたら、
是非教えてくださいませ。

画家じゃなくても、イラストレーターでも絵師さんでも大歓迎です。

絵師さんだと、ノベルゲーム大好き時代があったので「ヒトナツの夢」のドバトさんとかが好きです。

この前久々にドバトさんのサイトに行ったら、
ロリっ子のエロ絵がいっぱいあって非常に感慨深かったですね。


ただ、やっぱりこのインターネット時代、絵師さんって物凄い数がいて何が何だかよく分からないんですよ……

だからこそ、ネット拡散ではない口コミが大切なんですよねー。

それでは、またお会いしましょう!

感情と理性の話

2016-02-07 23:42:00 | ノンジャンル
こんばんは。

せっかくなので、感情と理性について机上の空論を交わしましょうか。

文学や哲学は全然分からないのでさて置くとします。
純粋な机上の空論を目指しましょう (?)

さて、俺が一番気になっているのは、結局のところ理性と感情を分け隔てることができるのかというところですかね。

理性ってなんだ。感情ってなんだ。という話もありますが、齟齬が出てくるまでは各々の定義に従っていきましょう。

なんたって書いてる間は俺一人だからね。

俺は、理性と感情の分割はできないんだろうと思ってますね。ありきたりだけど。

色々な考え方があると思いますが、まずは出発点を決めましょう (思うところがある方はコメントしておいていただけると嬉しいです) 。


まず俺個人としては理性ってのは言語や手続きが司る概念なんじゃないかと思っています。

……というか、特に何の考えもなしにスタートしているので、一旦その考え方を出発地点と位置付けようと思います。

言語や手続き。

最初は言語かなーと思ったんですが、理性的であるということが「感情的でないこと」を意味するのであれば、目的のために手続きを踏むこと自体がもはや理性的なんじゃないかと。

何が言いたいかというと、おすわりをしてエサにがっつかない犬は理性的でしょうということです。


……いや、アレですよ。
おすわりをしないと100%エサがもらえないことを知っているから待っているわけで、それは理性的とは言わないんじゃないか、みたいな話もあると思います。

でも、それって人間もそうじゃないですか。
後の利益に繋がるから今はやめておくとか、全体の利益になるから自分は黙っておくとか。

前者はもちろん、後者も同じことだと個人的には思います。
他者の利益を自分の利益のように感じるという兼魔ヘ、自己を他者に投影しているからこそ生まれるものでしょうし。

感情との対比ではなく合理性という点から見ても同じことだと思います。
どうするのが合理的なのかという議論は、感情抜きにはちょっとできないんじゃないでしょうか。


俺は、理屈・理論などというものは水色の紙に線を2本引いて「川です」と主張しているに過ぎないと考えています。
今までの部分はふわふわと感じたことを書いていましたが、
この理屈・理論に対する思いは結構昔から強く持っています。

理屈が無意味だと言ってるわけじゃないですよ。
理屈は多くの人の共通認識を寄せ集めて、後の世代もその型にしっかりとはめていくことでその強さを担保されているものですね。

型にはまるのは悪いみたいな言い方が主流の時代がありましたが、
世の中の全員が好き勝手な形でやり始めたら社会なんて簡単に破綻するんじゃないかね……

いや、自然な状態での好き勝手はまだマシかもしれませんね。
自然な状態なら、人はある程度みんなの共通認識を作りたいという気持ちに駆られるでしょうしね。

むしろ、型にはまるのが悪いことだという型にはまっている人たちを野放しにするのが一番大変かもしれませんね。

やー、それでも大して変わらないかなー。
結局好きなもん同士で集まるだけになりそう……




まあいいや。戻って理屈の話ですね。
言いたいのは、理屈って感情の方向に線を引いたものだよねってことですよ。

要するに、自分の言いたいことを言うために石を並べていくんでしょうね。
放っておけばただの石でも、並べれば布石になるわけです。

ただ、石を並べるには何かしらの方向性 (エネルギーとか指針みたいなもの) が必要で、
そのエネルギーはもう少し人の本能に近いところで働いてるんじゃないかと。
それは、自分にとっての正義だったり、組み立て方のお作法だったり、感情の動きの傾向だったり様々な色合いを持っているでしょうけどね。


極端な例を出してみましょう。
喧嘩をするという場面を見てみると、

「ああ、この人は怒った後に悲しくなるんだな。それでスッキリして終わる人なんだな」というところから始まって、

「この人は怒った時に自分を棚に上げて人のせいにする傾向があって、そのあと悲しくなると自分の悪い部分を並べて同情をひく傾向があって、スッキリするとしばらくは照れた気持ちになる人なんだな」
という風に、相手が喧嘩した時の感情の推移と、その時に相手が持っている感情の出し方が段々見えてくる。

これは、感情の状態によって石の並べ方の傾向が変わってくる、という見方にできますね。

そうすると、いざ喧嘩の場面になった時に、

「この人は今悲しいという状態に入っているから、自分の悪いところをどんどん言って、同情をひくことに対して合理的な言葉を使っているな」
というような見方ができるわけですね。

いや、実践でできるかどうかは別よ。


あれ? でもこれって感情をコントロールできてないんだから、理性的とは言えないんじゃないの?

と言われると。まあそうなんだけどねー。
ただ、どこまで感情を抑圧できていたら合理的なんでしょうね。
1/2くらい? 1/3くらい? 純情な感情と同じくらい?

というか、感情を抑圧している状態すら一つの感情状態だとも言えますしね。
「怒りの感情を抑圧している状態だと、相手の話を聞いて同意しやすい傾向にある」みたいなね。


まあでも、少なくとも怒って全否定するような状態よりは、
感情の起伏が小さくて肯定も否定もできる状態の方が理性的に見えますね。

そこは俺もその通りだと思います。

じゃあ、なんで理性的なんでしょうね。


個人的には、いわゆる感情の部分はかなり個人の深い本能的な部分に根差しているものだと思います。
逆に、理性的なものは言語に代表されるように、もうちっと外界に近くて緩い部分にあるんだろうと考えてます。

抽象的だねえーーー

人って、長期記憶と短期記憶を持ってるじゃないですか。
それにイメージは結構近いかもしれません。

日々変わり得るような、簡単な思考のセットみたいなものを、ある程度人は持っていて、それが理性的であるところの判断をする際に大きな材料になる。
これが冒頭で言っていたような、言語・手続きのレベルのものかな。

反対に、生まれた時からじっくり形作られた頑固で変わりにくい塊が奥の方にあって、外界から理性の膜を貫かれ奥に侵入されると、その感情のデカい塊が判断の材料になる。

ただ、その境界ははっきりと引けるような線ではなくて、ぼんやりとしていると思います。それに、一次関数的な直線ではなくて、三次関数みたいな曲線で分けられているような気がします。

どうでしょうか。


なんか最終的に意識と無意識のモデルみたいになりましたけど、
私の狭い了見をもって突貫工事をするとこんな感じにまとまります。



…………あ、俺は別に理屈主義者ではないですよ。
どちらかといえば感情を追っかける方が好きです。


ただ、感情の方が好きだからと言って理屈はゴミだと言えないということだけ。

道を逸れるのも構わないと思うけど、知らないうちに脱線しているとしんどいだけで終わっちゃったりするのでね。



またもう少し深く考えられるような気持ちの場面があれば、
こんな感じのことをやりたいと思いますので、付き合ってやってください。

さだまさしの話になった話

2016-02-04 23:42:00 | ノンジャンル
こんばんは。

24時に差し鰍ゥる前に布団にダイブしたいのですが、雑談欲を解消させるためにちょこっと書きます。

雑談欲ってのはね。中々すごいものなのよね。
誰かと延々語り明かすこともなくなってきたので、もう大分鬱憤が溜まってきてるわけなんてすよね。

昨日PCがWindows 10にアップグレードされました。

ただ、もう寿命であることは間違いなさそうなのでそろそろ買い替えを考えていかないといけないかもしれません。

……そんなお金ないんだけどな……


一気に大金を使うってのには結構な抵抗がつきものですからね。
かといって、チビチビ使ってると何も残らずに終わってしまうわけですよ。

節制して節制して、買うとなったら思いっきり大金はたいてちゃんとしたものを購入する。
そういう生き方をしたいですね。

そんなわけで、近日外食を控えてお弁当ばかり食べてます。


さて、雑談といってもTwitterに結構垂れ流してて何も残ってないので、軽いダイジェストでご紹介しますね。


さだまさしのオールタイム・ベストを買いました。
最強です。案山子、檸檬、雨宿り、償い、防人の歌、風に立つライオンと。とにかくもう名曲ばかり。

さだまさしの曲は歌詞のイメージが浮かぶ具体性が魅力ですね。
ただ、物語がひたむきに展開されるわけです。

人の書く文章に引き込まれるのって、やっぱりそこに物語があるからだと思うんですよね。
単純で客観的な真実ではなく。同じ世界でその人の服の匂いを感じるような物語がね。

物語的な歌詞というと、世代がらBUMP OF CHICKENとかを思い浮かべたりもするんですが。
意図はどうあれ、なんとなく共通する部分はあるのかもしれませんね。

個人的に、さだまさしの歌詞で面白いのは、一人称的な物語への関わり方ですね。

バンプの物語って、Kにしてもダンデライオンにしても語り手の視点なんですよね。
それに比べると、さだまさしの物語はどこかに自分が入り込んでいる。
アレですね。車輪の唄とかは少しイメージが近いかもしれません。


例えば「雨宿り」なら


それはまだ私が神様を信じなかった頃
9月のとある木曜日に雨が降りまして

こんな日に素敵な彼が現れないかと
思ったところへあなたが雨やどり


という歌い出し。

うーん。幸せになってほしい。素朴。


……というわけでね。
なぜかさだまさしとバンプを対置する構図になりましたが、
特に深い意味はありません。


さだまさしのことを書いていたら20世紀少年を読みましたって話をしている時間がなくなってしまった。


タイムリミットなので今日はここまで。
おやすみなさい。