お久しぶりの心理学雑談。
最近ユングのタイプ論みたいな話に久しぶりに触れる機会があったので、忘れないうちに書いておこうと思います。
ユングは人を2×4=8タイプに分類することが可能だと考えていました。
この辺は高校の現代社会とかでも勉強したかもしれませんね。
ちなみに、2は「外向性」と「内向性」で、4は「思考」「感情」「感覚」「直観」です。
ユング自身も言っていることですが、
タイプは人を分類する時の絶対的な枠組みであるというわけではなく、
あくまで一つの切り取り方です。
皆さんはどのタイプに当てはまっているでしょうか?
「内向性の直観型」とか、「外向性の感情型」とか、
なんとなく一番当てはまる組み合わせがあるんじゃないかと思います。
高校の現社で紹介されているのはこのレベルまでだと思うんですが、
ユングが言っている「思考」とか「感情」って、
それぞれの言葉を聞いて初めてイメージする概念と少し違うっぽいんですよね。
今回はその辺を少し紹介したいと思います。
まずは感覚。
日本語では「考えても分からないんで感覚でやってます」とか言ったりするわけだけど、感覚と直観って区別が結構難しかったりしますね。
まあ、感覚でやってる人はある程度安定して正しいことができそうだけど、直感でやってる人は成功するか失敗するか分からない感じはするので、ニュアンスとしては結構違うのかもしれませんが。
ユングのいう感覚の純粋な形は「何かがある」ということです。
目を瞑って自分の身体に意識を持っていってみてください。
身体に服や風や椅子なんかが触れているのが感じられますよね。
感覚は、まさにその何かがあるという感覚のことを指しています。
それが服なのか風なのかということを理解する一歩手前の、
そこに何かがあるという感覚。
例えば今この文を読んでいるということはPCかスマホのモニターが目の前にあるんだと思います。
でも、今モニターだと思っているものも活字だと思っているものも、
結局は光の反射です。波です。
心身の内外から飛び込んでくるそういった刺激が「ある」ということを感じるのが感覚というわけです。
続いて思考。
思考は「それが何か」ということを司っています。
自分の身体に「服」が触れている。
「活字」が目の前に並んでいる。
思考の機能は概念を付け加えることだとユングは言っています。
次に感情。
思考が物事に概念を付け加えたのに対し、感情は価値を付け加えます。
風が吹いて身体に当たった時それが「気持ち好い」のかはたまた「気持ち悪い
」のか。
確かに物事に同意できるかできないのかとか、許せるのか許せないのかって、
思考と密接でありながらも少し違うところで作用している感じがあるよね。
法律的に許せても感情的に許せないことなんかいくらでもあるだろうし。
まあ、そんなところですね。
最後の直観はユング自身も説明が難しいと言っていますが、
確かにあるのだとも繰り返し主張しています。
先ほどの風が吹いた時の例であれば、
風が吹いたことをきっかけに新しい曲のメロディが思い付くとかそんな感じかもしれないですね。
件pとかアイディアみたいな話は直観の影響を多分に受けていると思います。
4パターンの紹介は以上です。
元のイメージが分かると、自分がどのパターンに当てはまっているのかという分類も少し変わってくるかもしれないですね。
自分と真逆のパターンの人の話とか、一回じっくり聞いてみたいです。
ここから、ユングの意識と無意識についての言葉の中で割と納得感のあるものがあったのでちょっとだけ紹介しておきますね。
まず、人の心はほとんどの領域が無意識であるということ。
基本的に人は意識していることを知覚しているので、意識が中心にあると考えがちですが、
意識は皮膚みたいなもんでそのほかは全部無意識だとユングは言っています。
確かに、地球だって人が暮らしているのは勿論地殻の部分だけで、
全体から見ればほとんどの部分は人と関わっていない。
そして、地球の核が人の目で見られないのと同様、
無意識を直接見ることはできません。
なので、無意識の研究は意識を観て無意識の片鱗を見つけたり、
意識の様子から無意識を想定する形式でしか行うことができないわけです。
例えば、ある単語を言われたら連想される別の単語をすぐに言う、
という課題があった時、あまり言いたくないことであれば無意識がストップをかける。
別の単語を探してしまう。結果として連想に時間がかかる。
この特性を利用したテストが言語連想検査です。
また、人は意識していることが自然だと思いがちですが、
人の従来の姿は意識していないことです。何も意識せずにぼんやりしている。
これこそが人の自然体。
意識するということは、神経を集中させるということです。
張り詰めるということなんです。
意識して考えることが当たり前になっているというのは、実は凄く不自然なことかもしれません。
誰かの頬っぺたをつねってみよう。
びよんってなるよね。
意識しているというのは、その状態を続けていること。
手を放してみましょう。
自然な顔の形に戻るよね。それが無意識の状態。
そりなんだよなあ
みつを
ユングは自我が自己感覚と記憶の複合体 (コンプレックス) であると述べています。
コンプレックスって自分の弱みとか気にしている短所みたいなイメージがあるけど、
元々は複合しているものという意味なのでその辺りも一般的な言葉のイメージとは乖離しているような気がします。
とにかく、そんな自我が意識の引力によって外界の刺激や内界の無意識からの問いかけを引き寄せ、顕在化させているというのが人の心の在りようである、と。
だから、統合失調なんかで心が怪我をしてしまうと、
外界の何かと内界の何かが思わぬ形で結び付いてしまったりすることになり、
心の中にあったものが実際に見えたり聞こえたりするようになってしまう。
よく神経症が「了解可能」で精神病は「了解不能」と言われますが、
神経症水準の人が一般の人と同じ不安や苦しみを感じているのに対し、
精神病水準に入っている心は何か違う結び付きができてしまったものに苦しんでいる、と考えるとしっくりくるんじゃないかと思います。
専門家でない人が精神病圏に入っている人と関わる時の大変さはこの辺りに生まれてくるんだろうし、
励まして治してやろうみたいな安易な心持ちで接するのは絶対に間違ってるよね。
ちょっと話は逸れましたが、
無理な生活を続けていれば身体が病気になるのと同じように、
心だって無理してれば病気になります。
自分は大丈夫だ、みたいな病気になるやつにありがちな思考はそろそろ捨てた方が身のため (心のため) かもしれませんね。
ではでは。
最近ユングのタイプ論みたいな話に久しぶりに触れる機会があったので、忘れないうちに書いておこうと思います。
ユングは人を2×4=8タイプに分類することが可能だと考えていました。
この辺は高校の現代社会とかでも勉強したかもしれませんね。
ちなみに、2は「外向性」と「内向性」で、4は「思考」「感情」「感覚」「直観」です。
ユング自身も言っていることですが、
タイプは人を分類する時の絶対的な枠組みであるというわけではなく、
あくまで一つの切り取り方です。
皆さんはどのタイプに当てはまっているでしょうか?
「内向性の直観型」とか、「外向性の感情型」とか、
なんとなく一番当てはまる組み合わせがあるんじゃないかと思います。
高校の現社で紹介されているのはこのレベルまでだと思うんですが、
ユングが言っている「思考」とか「感情」って、
それぞれの言葉を聞いて初めてイメージする概念と少し違うっぽいんですよね。
今回はその辺を少し紹介したいと思います。
まずは感覚。
日本語では「考えても分からないんで感覚でやってます」とか言ったりするわけだけど、感覚と直観って区別が結構難しかったりしますね。
まあ、感覚でやってる人はある程度安定して正しいことができそうだけど、直感でやってる人は成功するか失敗するか分からない感じはするので、ニュアンスとしては結構違うのかもしれませんが。
ユングのいう感覚の純粋な形は「何かがある」ということです。
目を瞑って自分の身体に意識を持っていってみてください。
身体に服や風や椅子なんかが触れているのが感じられますよね。
感覚は、まさにその何かがあるという感覚のことを指しています。
それが服なのか風なのかということを理解する一歩手前の、
そこに何かがあるという感覚。
例えば今この文を読んでいるということはPCかスマホのモニターが目の前にあるんだと思います。
でも、今モニターだと思っているものも活字だと思っているものも、
結局は光の反射です。波です。
心身の内外から飛び込んでくるそういった刺激が「ある」ということを感じるのが感覚というわけです。
続いて思考。
思考は「それが何か」ということを司っています。
自分の身体に「服」が触れている。
「活字」が目の前に並んでいる。
思考の機能は概念を付け加えることだとユングは言っています。
次に感情。
思考が物事に概念を付け加えたのに対し、感情は価値を付け加えます。
風が吹いて身体に当たった時それが「気持ち好い」のかはたまた「気持ち悪い
」のか。
確かに物事に同意できるかできないのかとか、許せるのか許せないのかって、
思考と密接でありながらも少し違うところで作用している感じがあるよね。
法律的に許せても感情的に許せないことなんかいくらでもあるだろうし。
まあ、そんなところですね。
最後の直観はユング自身も説明が難しいと言っていますが、
確かにあるのだとも繰り返し主張しています。
先ほどの風が吹いた時の例であれば、
風が吹いたことをきっかけに新しい曲のメロディが思い付くとかそんな感じかもしれないですね。
件pとかアイディアみたいな話は直観の影響を多分に受けていると思います。
4パターンの紹介は以上です。
元のイメージが分かると、自分がどのパターンに当てはまっているのかという分類も少し変わってくるかもしれないですね。
自分と真逆のパターンの人の話とか、一回じっくり聞いてみたいです。
ここから、ユングの意識と無意識についての言葉の中で割と納得感のあるものがあったのでちょっとだけ紹介しておきますね。
まず、人の心はほとんどの領域が無意識であるということ。
基本的に人は意識していることを知覚しているので、意識が中心にあると考えがちですが、
意識は皮膚みたいなもんでそのほかは全部無意識だとユングは言っています。
確かに、地球だって人が暮らしているのは勿論地殻の部分だけで、
全体から見ればほとんどの部分は人と関わっていない。
そして、地球の核が人の目で見られないのと同様、
無意識を直接見ることはできません。
なので、無意識の研究は意識を観て無意識の片鱗を見つけたり、
意識の様子から無意識を想定する形式でしか行うことができないわけです。
例えば、ある単語を言われたら連想される別の単語をすぐに言う、
という課題があった時、あまり言いたくないことであれば無意識がストップをかける。
別の単語を探してしまう。結果として連想に時間がかかる。
この特性を利用したテストが言語連想検査です。
また、人は意識していることが自然だと思いがちですが、
人の従来の姿は意識していないことです。何も意識せずにぼんやりしている。
これこそが人の自然体。
意識するということは、神経を集中させるということです。
張り詰めるということなんです。
意識して考えることが当たり前になっているというのは、実は凄く不自然なことかもしれません。
誰かの頬っぺたをつねってみよう。
びよんってなるよね。
意識しているというのは、その状態を続けていること。
手を放してみましょう。
自然な顔の形に戻るよね。それが無意識の状態。
そりなんだよなあ
みつを
ユングは自我が自己感覚と記憶の複合体 (コンプレックス) であると述べています。
コンプレックスって自分の弱みとか気にしている短所みたいなイメージがあるけど、
元々は複合しているものという意味なのでその辺りも一般的な言葉のイメージとは乖離しているような気がします。
とにかく、そんな自我が意識の引力によって外界の刺激や内界の無意識からの問いかけを引き寄せ、顕在化させているというのが人の心の在りようである、と。
だから、統合失調なんかで心が怪我をしてしまうと、
外界の何かと内界の何かが思わぬ形で結び付いてしまったりすることになり、
心の中にあったものが実際に見えたり聞こえたりするようになってしまう。
よく神経症が「了解可能」で精神病は「了解不能」と言われますが、
神経症水準の人が一般の人と同じ不安や苦しみを感じているのに対し、
精神病水準に入っている心は何か違う結び付きができてしまったものに苦しんでいる、と考えるとしっくりくるんじゃないかと思います。
専門家でない人が精神病圏に入っている人と関わる時の大変さはこの辺りに生まれてくるんだろうし、
励まして治してやろうみたいな安易な心持ちで接するのは絶対に間違ってるよね。
ちょっと話は逸れましたが、
無理な生活を続けていれば身体が病気になるのと同じように、
心だって無理してれば病気になります。
自分は大丈夫だ、みたいな病気になるやつにありがちな思考はそろそろ捨てた方が身のため (心のため) かもしれませんね。
ではでは。