サイコドラマ⑥
人の善意は時として、思ってもみない結果を生む。
7月も半ばを過ぎ、夏休みが近付く。「受験の天王山」という言葉が飛び交い、いよいよ穏やかでない空気が教室に漂っていた。僕は相変らずあまり勉強に気乗りがせず、12月時点での自分の成績に、大学の方を合わせればいいのではないか、などと思っていた。
そんな僕とは対照的に、好史は、机に噛み付くようにして勉強していた。僕が声をかけると、今までと変わらない様子で話はできる。しかし、その度に僕は、なんとなく悪いことをしているような気分になった。好史の目の下にはくっきりと隈ができており、見ていて気の毒になってくる。そしてそれ以上に、必死になってノートに向かっている好史を見ていると、自分自身のことが不安で仕方なかった。
「おい好史、ちょっといいか?」と、僕は後ろから好史に声をかけた。
「ん、どうした?」と、好史はシャーペンを置き、僕の方に向き直して言った。
「勉強中悪いんだけど、ちょっと話さないか?」
「ああ、いいよ。折角だし、外にでも行くか」
好史の提案に、僕は嬉しくなった。しかし、実は特に話したい事があるわけでもなかった。下駄箱に着くまでは、どちらが話題を振るわけでもなく、2人とも黙っていた。
夏休みを前にして、外はいよいよ暑くなっていた。昼休みにも関わらず、校庭には誰もいなかった。僕たちは、反時計回りに校舎の裏側に向かった。学校は、校庭が正門に面しているという少し変わった作りになっていて、他の高校に進学した友人は「小学校みたいだ」と言っていた。正門を出て校舎の裏側に行くと、芝生に覆われたスペースが広がっており、校舎に近い位置に休憩用のベンチが幾つか並んでいた。
「どうした、何かあったか?」と好史はベンチに腰鰍ッながら、呑気そうに言った。
「いや、特に何の用事もなかったんだけどさ」と僕は正直に言った。
「そっか」と好史は言った。
少しの間、沈黙が流れた。気温のせいか、少しの風が心地好い。
「にしてもな、もう疲れたよ、俺は」と、好史が言った。
「勉強か?」と僕は聞いた。本当は、村谷さんとどうなっているのか聞きたかったが、どう尋ねればいいのか分からなかった。
「まあ、色々だよ」と好史は言った。
僕は、好史をちらっと見た。呑気そうな声とは裏腹に、表情は暗く見えた。好史は、この暑さの中でも、長袖のワイシャツを着ていた。
「好史」
「ん?」
「本当に大丈夫なのか」
「どうしたんだよ、急に」
「――いや、お前最近見てて辛そうだからさ、何かあったんじゃないかと思って」
「そうか?」
「そうだよ」
急に太陽が雲の中に隠れたので、目の奥がじんわりとなった。好史は視線を落とし、何か言いたそうにしていた。僕は好史の言う気を失せさせるのが浮ュて、ただじっと好史の言葉を待った。
「――小池、お前、前に俺の手首見たよな?」
「気付いてたのか」
「視線で分かったよ。俺も背伸びした瞬間『やべっ』て思ったからさ」
「そうだったのか」
「リスカだよ」
「初めてだったのか?」
「そう。どうなるのかはよく分からなかったけど」
「どうだった?」
「どうだろうな、もう覚えてないよ、初めての時どうだったかなんて」
「そうか」
ここまで聞いて、僕はふと好史の言葉に引っかかるものを感じた。
「好史、もしかして今もやってるのか?」と、僕は努めて冷静に聞いた。
好史はきまり悪そうに下を向くと、ワイシャツの左腕を捲った。左腕は、無数の切り傷でズタズタになっていた。僕は絶句した。太陽が再び雲間からのぞき、頭頂部が熱くなった。
「小池」と、好史が先に口を開いた。
僕は返事の代わりに、好史の方を見た。
「ごめんな」と好史は言った。
僕は何故謝れらたのか分からなかった。
「俺、なんでこんなにちっぽけな人間なんだろうな」と好史は続けた。
「どうしたんだよ」と僕は言った。好史が何を言っているのか、よく分からなかった。
「勉強が出来なくて嫉妬して、躍起になっても全然追いつけなくて。高い志を見せられて悔しくても、自分のしたい事なんてはっきりと分からないし。馬鹿なんだろうな」と、好史は自嘲的な声で言った。
「そんなことないだろ」と、僕は言った。
村谷さんとの間のことを話しているのだと、そこで初めて気付いた。
「そんなことなくないんだ。不安があるなら何でも話してくれって言われても、そんなこと言えないし。そんなことは何の解決にもならないんだ。元々持っているものが違うんだ」
好史は、堤防が決壊したかのように喋り出した。
「男子が女子に嫉妬してるなんて恥ずかしいしな。何より、張本人に励まされたって情けないだけだろ。だけどさ、あいつは何も言わなくても励ましてくれるんだぜ? 成績見て、『今回は英語頑張ったよね』とか、『次回は得意な所なんだよね? なら大丈夫だよ』とか。優しいよ、理想の彼女だね、まったく。いや、悪い意味で言ってるんじゃないんだ。結局は俺が悪いんだからな。素直に励まされてればいいのに。素直になることもできないんじゃねえか。それで俺が不機嫌そうな顔すると、『ごめんね』ときたもんだよ。俺はあやして欲しいんじゃねえんだよ!」
好史は思いをひたすらに吐きだしているようだった。僕はどうしたらいいのか分からなかったし、話を全て理解できたわけではなかった。ただ好史が、ただならぬ感情を抱えている事だけは分かった。
「俺に言ってくれれば相談くらい乗るよ」と僕は言った。それ以上の事は言えなかった。
「いや、いいんだ。ごめんな、突然わけ分からんこと口走って」と好史は言った。
「そうじゃないだろ。というか、どうして俺にもっと早く言わなかったんだよ」と僕は言った。
好史は黙っていた。僕は、好史が、「分からないだろう」という目で僕を見ていたのではないかと思った。途端に、虚しい気持ちが僕を襲った。
「ごめんな」と好史はまた言った。
「なんで謝るんだよ」と僕は言った。「ごめんな」という言葉が、僕の深入りを拒絶しているような気がした。
再び沈黙が流れた。僕は、好史の言葉を待つ他なかった。問い詰める事は、無意味だと思った。
「リスカすると、死ねるんだ」と好史が言った。
「どういうこと?」と僕は聞いた。
「なんて言うんだろうな。説明したことないから分からんけど。手首を切る時は、自分を慰める気持ちと、罰する気持ちが混ざってるんだよな。『なんで俺はこんななんだ』って。切った時、痛いだろ? 痛いんだけどさ。どうにもならない気持ちは、そうやって抜くしかないんだよ。抜くっつってもこうやって抜くわけじゃないぞ」と、好史はオナニーのジェスチャーをした。僕は「分かってるよ」と言って、小さく笑った。
「とにかく、そうやって気持ちを抜いてやると、じわじわと血が流れてきてな。そんで、それを見てると、生き返った気がするんだ」
「へえ」と、僕は気の抜けたような相槌を打った。
「なんだよ」と好史は言って、笑った。
「いや、そんな冷静に説明されるとさ、なんか責めるに責められないって言うか、分かった気がすると言うか」と、僕は思ったままのことを言った。
「そんなもんか」と好史は言って、少し間を置いた後、「お前に話して良かったよ」と続けた。
「どうして」と僕が尋ねると、
「案外、そんなもんなのかもな」と、よく分からない事を言った。
この時僕は、本当に好史の気持ちが少し分かったような気がした。何より、好史の辛さの原因を聞けた事で、胸の閊えがなくなったように感じたし、どうしたらいいか分からないのは僕も同じだと思った。
気付くと、5時間目の始業時刻を大分過ぎていた。とは言え、僕も好史も授業に行く気分になれず、その日は午後の授業をサボって街をぶらぶらした。僕は、久し振りに好史の楽しそうな表情を見たような気がした。
しかし、結局それが、僕たちの最後の会話になった。2日後の日曜日、好史は自殺した。学校からそれほど遠くない、踏切での出来事だった。
第六の場面が、こうして幕を閉じる。
人の善意は時として、思ってもみない結果を生む。
7月も半ばを過ぎ、夏休みが近付く。「受験の天王山」という言葉が飛び交い、いよいよ穏やかでない空気が教室に漂っていた。僕は相変らずあまり勉強に気乗りがせず、12月時点での自分の成績に、大学の方を合わせればいいのではないか、などと思っていた。
そんな僕とは対照的に、好史は、机に噛み付くようにして勉強していた。僕が声をかけると、今までと変わらない様子で話はできる。しかし、その度に僕は、なんとなく悪いことをしているような気分になった。好史の目の下にはくっきりと隈ができており、見ていて気の毒になってくる。そしてそれ以上に、必死になってノートに向かっている好史を見ていると、自分自身のことが不安で仕方なかった。
「おい好史、ちょっといいか?」と、僕は後ろから好史に声をかけた。
「ん、どうした?」と、好史はシャーペンを置き、僕の方に向き直して言った。
「勉強中悪いんだけど、ちょっと話さないか?」
「ああ、いいよ。折角だし、外にでも行くか」
好史の提案に、僕は嬉しくなった。しかし、実は特に話したい事があるわけでもなかった。下駄箱に着くまでは、どちらが話題を振るわけでもなく、2人とも黙っていた。
夏休みを前にして、外はいよいよ暑くなっていた。昼休みにも関わらず、校庭には誰もいなかった。僕たちは、反時計回りに校舎の裏側に向かった。学校は、校庭が正門に面しているという少し変わった作りになっていて、他の高校に進学した友人は「小学校みたいだ」と言っていた。正門を出て校舎の裏側に行くと、芝生に覆われたスペースが広がっており、校舎に近い位置に休憩用のベンチが幾つか並んでいた。
「どうした、何かあったか?」と好史はベンチに腰鰍ッながら、呑気そうに言った。
「いや、特に何の用事もなかったんだけどさ」と僕は正直に言った。
「そっか」と好史は言った。
少しの間、沈黙が流れた。気温のせいか、少しの風が心地好い。
「にしてもな、もう疲れたよ、俺は」と、好史が言った。
「勉強か?」と僕は聞いた。本当は、村谷さんとどうなっているのか聞きたかったが、どう尋ねればいいのか分からなかった。
「まあ、色々だよ」と好史は言った。
僕は、好史をちらっと見た。呑気そうな声とは裏腹に、表情は暗く見えた。好史は、この暑さの中でも、長袖のワイシャツを着ていた。
「好史」
「ん?」
「本当に大丈夫なのか」
「どうしたんだよ、急に」
「――いや、お前最近見てて辛そうだからさ、何かあったんじゃないかと思って」
「そうか?」
「そうだよ」
急に太陽が雲の中に隠れたので、目の奥がじんわりとなった。好史は視線を落とし、何か言いたそうにしていた。僕は好史の言う気を失せさせるのが浮ュて、ただじっと好史の言葉を待った。
「――小池、お前、前に俺の手首見たよな?」
「気付いてたのか」
「視線で分かったよ。俺も背伸びした瞬間『やべっ』て思ったからさ」
「そうだったのか」
「リスカだよ」
「初めてだったのか?」
「そう。どうなるのかはよく分からなかったけど」
「どうだった?」
「どうだろうな、もう覚えてないよ、初めての時どうだったかなんて」
「そうか」
ここまで聞いて、僕はふと好史の言葉に引っかかるものを感じた。
「好史、もしかして今もやってるのか?」と、僕は努めて冷静に聞いた。
好史はきまり悪そうに下を向くと、ワイシャツの左腕を捲った。左腕は、無数の切り傷でズタズタになっていた。僕は絶句した。太陽が再び雲間からのぞき、頭頂部が熱くなった。
「小池」と、好史が先に口を開いた。
僕は返事の代わりに、好史の方を見た。
「ごめんな」と好史は言った。
僕は何故謝れらたのか分からなかった。
「俺、なんでこんなにちっぽけな人間なんだろうな」と好史は続けた。
「どうしたんだよ」と僕は言った。好史が何を言っているのか、よく分からなかった。
「勉強が出来なくて嫉妬して、躍起になっても全然追いつけなくて。高い志を見せられて悔しくても、自分のしたい事なんてはっきりと分からないし。馬鹿なんだろうな」と、好史は自嘲的な声で言った。
「そんなことないだろ」と、僕は言った。
村谷さんとの間のことを話しているのだと、そこで初めて気付いた。
「そんなことなくないんだ。不安があるなら何でも話してくれって言われても、そんなこと言えないし。そんなことは何の解決にもならないんだ。元々持っているものが違うんだ」
好史は、堤防が決壊したかのように喋り出した。
「男子が女子に嫉妬してるなんて恥ずかしいしな。何より、張本人に励まされたって情けないだけだろ。だけどさ、あいつは何も言わなくても励ましてくれるんだぜ? 成績見て、『今回は英語頑張ったよね』とか、『次回は得意な所なんだよね? なら大丈夫だよ』とか。優しいよ、理想の彼女だね、まったく。いや、悪い意味で言ってるんじゃないんだ。結局は俺が悪いんだからな。素直に励まされてればいいのに。素直になることもできないんじゃねえか。それで俺が不機嫌そうな顔すると、『ごめんね』ときたもんだよ。俺はあやして欲しいんじゃねえんだよ!」
好史は思いをひたすらに吐きだしているようだった。僕はどうしたらいいのか分からなかったし、話を全て理解できたわけではなかった。ただ好史が、ただならぬ感情を抱えている事だけは分かった。
「俺に言ってくれれば相談くらい乗るよ」と僕は言った。それ以上の事は言えなかった。
「いや、いいんだ。ごめんな、突然わけ分からんこと口走って」と好史は言った。
「そうじゃないだろ。というか、どうして俺にもっと早く言わなかったんだよ」と僕は言った。
好史は黙っていた。僕は、好史が、「分からないだろう」という目で僕を見ていたのではないかと思った。途端に、虚しい気持ちが僕を襲った。
「ごめんな」と好史はまた言った。
「なんで謝るんだよ」と僕は言った。「ごめんな」という言葉が、僕の深入りを拒絶しているような気がした。
再び沈黙が流れた。僕は、好史の言葉を待つ他なかった。問い詰める事は、無意味だと思った。
「リスカすると、死ねるんだ」と好史が言った。
「どういうこと?」と僕は聞いた。
「なんて言うんだろうな。説明したことないから分からんけど。手首を切る時は、自分を慰める気持ちと、罰する気持ちが混ざってるんだよな。『なんで俺はこんななんだ』って。切った時、痛いだろ? 痛いんだけどさ。どうにもならない気持ちは、そうやって抜くしかないんだよ。抜くっつってもこうやって抜くわけじゃないぞ」と、好史はオナニーのジェスチャーをした。僕は「分かってるよ」と言って、小さく笑った。
「とにかく、そうやって気持ちを抜いてやると、じわじわと血が流れてきてな。そんで、それを見てると、生き返った気がするんだ」
「へえ」と、僕は気の抜けたような相槌を打った。
「なんだよ」と好史は言って、笑った。
「いや、そんな冷静に説明されるとさ、なんか責めるに責められないって言うか、分かった気がすると言うか」と、僕は思ったままのことを言った。
「そんなもんか」と好史は言って、少し間を置いた後、「お前に話して良かったよ」と続けた。
「どうして」と僕が尋ねると、
「案外、そんなもんなのかもな」と、よく分からない事を言った。
この時僕は、本当に好史の気持ちが少し分かったような気がした。何より、好史の辛さの原因を聞けた事で、胸の閊えがなくなったように感じたし、どうしたらいいか分からないのは僕も同じだと思った。
気付くと、5時間目の始業時刻を大分過ぎていた。とは言え、僕も好史も授業に行く気分になれず、その日は午後の授業をサボって街をぶらぶらした。僕は、久し振りに好史の楽しそうな表情を見たような気がした。
しかし、結局それが、僕たちの最後の会話になった。2日後の日曜日、好史は自殺した。学校からそれほど遠くない、踏切での出来事だった。
第六の場面が、こうして幕を閉じる。