やあ! みんな元気かな?
僕は、たまにはフロイトにも触れとくかお兄さんだよ!
はい、そんなわけで。
今までの心理学雑談では、ユングの理論に触れることが多かったんですが、
今回はフロイトの理論に少し触れていきたいと思います。
今まで書いてきている通り、ユングは心を「意識・個人的無意識・集団的無意識」という風に分けて構造化しています。
そして集団的無意識の中には人間に本能的に備わった「元型」というキャラクターが存在していて、各々の特性を発揮しています。
この辺は、過去の心理学雑談を参照していただければと思いま…………
んー、結構長いし要領を得ない……ので、簡単にまとめると、
「元型とは、心が元々持っている一番自然な特性を、働きごとに分類してキャラクター化したもの」とでも言えるでしょうか。
ユングの心観はそんな感じ。
対して、フロイトは「心の運動性」を重視して、構造化しています。
何を隠そう、フロイトは初めて「無意識」という領域を定義した偉人。
どうやら、当時主流だった催眠術による療法がヘッタクソで、
なんとか催眠術なしで治療する方法を考えていった結果、
言葉によって心の中身を引きずり出す、「精神分析」という方法論に辿り着いたんだとか。
悩み多き人ですね。
しかし一方で、「術」という手段に頼らなかった事が、思弁的、論理的に心を考える礎になったのだと考えると、昨今のノーベル賞受賞者と同じにおいがしてきますね。
さて、そんな紆余曲折があった人なので、フロイトの中の心の構造も少しずつ変わっています。
その中で、最も有名なのが「構造論」とか「第二局所論」とかいう、力動的な考え方です。
難しいことは省いて浅い部分に切り込みたいと思います。
フロイトの第二局所論では、「意識」「前意識」「無意識」「エス」「自我」「超自我」辺りの言葉が重要になってきます。
超自我まで書くと少し面唐ネので、まずは「意識」「前意識」から調理していきましょう。
フロイトが、まず最初に考えた区分が意識と無意識です。
意識は、今こうしてこのブログを読んでいる皆さんの、
それこそ意識している部分ですね。
蜂に刺されて痛いと思ったら、意識が向きます。
一方で、皆さんはいつでも全てのものが意識化されているわけではないと思います。
すぐに意識に持ってこられるけれど、意識に今ある状態でないもの。
これが、前意識という領域にあるものだとフロイトは考えています。
前意識にある記憶なんかは、それについて言われたり、ふとした瞬間に思い出せたりする。
まあ、俺も普段から十二支の名前も47都道府県も懐かしいあの日の思い出も恥ずかしいあの出来事も全て思い浮かべながら生きてるわけじゃないですしね。
そして、更にこの奥にあるのが無意識です。
無意識の領域にあるものは、引きずり出してくるのが難しい。
結構奥に入っているものです。
さて、ここまでは領域の話。
フロイトの力動論に特徴的なのは、「エス」「自我」という概念を用いて、
「働きの上で」心を分解している所にあります。
まず、「エス」。多分、さっき挙げた幾つかの単語の中で、
日常生活で一番使わないのが「エス」だと思います。
「おじちゃん、エスってなあに?」
「エスか、それは…………全てじゃよ」
……そっかー。
エスは、人間の心の全体というか、出発点というか、生まれ落ちた子供の素の心というか、そんな感じのものを指します。
言うなれば、ぴゅあぴゅあはーとのことですね。
そう、ふわふわ時間のことです。
なので、元来エスは無意識にも、前意識にも、意識にも存在すると言っていい。
そして、エスしかなかった心が、外の様々な出来事を経験する中で、一部自我に形を変えていきます。
自我は、心の中身を動かす主役ですね。
我慢する、っていう言葉がありますよね。
皆さんにも、してはいけないことを我慢することがあると思います。
我慢する時は、我慢している自覚がありますね。
こういう時、自我は意識の領域の中で抑圧を行っています。
ただ、じゃあ我慢していない時は全部の欲を満たしにかかっているでしょうか?
多分、そんなこともないんじゃないでしょうか。
無意識に我慢していることだって、沢山あると思います。
我慢している自覚がないので、我慢という言葉が適切かどうかはさて置くとして。
俺個人としては、性欲がない人ってのが一番分かりやすいと思います。
こういう時、自我は、無意識の領域の中で抑圧を行っています。
まとめると、意識とか無意識とかいうのは場所、
エスはぴゅあぴゅあはーと、自我は心のコントロールを行っている主役です。
まあいいや。超自我も書いちまうか。
超自我は、子どもの頃に発生する、「善悪の判断」なんかを司る監査役のことです。
「これは良いこと、これは悪いこと」というのは、
合理的に判断できるようでいて、案外そうでもないものです。
絶対的に何が正しいかなんて、少なくとも俺には言えません。
そんなあなたにご紹介したいのがこちら!
ババーン!!
そんな感じです。
超自我は、子どもの頃、親なんかに褒められたり怒られたり、
することを通じて形成されます。
つまり、「これをするのは良いこと。だって褒められたもーん!」
っていう経験が積み重なり、その人の価値観が出来上がってきます。
しかもタチの悪いことに、自我が形成されるより前に超自我が出来上がってくる。
だから、大人になってから、
自分の価値観そのものが重荷になって苦しむ人が出てくるわけですよね。
そんなわけで、今日はフロイトが考えた心の構造をつらつらと書いてみました。
フロイトは話を理系的に書いてくる上に、中々難しいんですよね。
まあ、でも少しずつまた何か見つけては書いていこうと思いますので、
よろしくお願いします。
ではでは!
僕は、たまにはフロイトにも触れとくかお兄さんだよ!
はい、そんなわけで。
今までの心理学雑談では、ユングの理論に触れることが多かったんですが、
今回はフロイトの理論に少し触れていきたいと思います。
今まで書いてきている通り、ユングは心を「意識・個人的無意識・集団的無意識」という風に分けて構造化しています。
そして集団的無意識の中には人間に本能的に備わった「元型」というキャラクターが存在していて、各々の特性を発揮しています。
この辺は、過去の心理学雑談を参照していただければと思いま…………
んー、結構長いし要領を得ない……ので、簡単にまとめると、
「元型とは、心が元々持っている一番自然な特性を、働きごとに分類してキャラクター化したもの」とでも言えるでしょうか。
ユングの心観はそんな感じ。
対して、フロイトは「心の運動性」を重視して、構造化しています。
何を隠そう、フロイトは初めて「無意識」という領域を定義した偉人。
どうやら、当時主流だった催眠術による療法がヘッタクソで、
なんとか催眠術なしで治療する方法を考えていった結果、
言葉によって心の中身を引きずり出す、「精神分析」という方法論に辿り着いたんだとか。
悩み多き人ですね。
しかし一方で、「術」という手段に頼らなかった事が、思弁的、論理的に心を考える礎になったのだと考えると、昨今のノーベル賞受賞者と同じにおいがしてきますね。
さて、そんな紆余曲折があった人なので、フロイトの中の心の構造も少しずつ変わっています。
その中で、最も有名なのが「構造論」とか「第二局所論」とかいう、力動的な考え方です。
難しいことは省いて浅い部分に切り込みたいと思います。
フロイトの第二局所論では、「意識」「前意識」「無意識」「エス」「自我」「超自我」辺りの言葉が重要になってきます。
超自我まで書くと少し面唐ネので、まずは「意識」「前意識」から調理していきましょう。
フロイトが、まず最初に考えた区分が意識と無意識です。
意識は、今こうしてこのブログを読んでいる皆さんの、
それこそ意識している部分ですね。
蜂に刺されて痛いと思ったら、意識が向きます。
一方で、皆さんはいつでも全てのものが意識化されているわけではないと思います。
すぐに意識に持ってこられるけれど、意識に今ある状態でないもの。
これが、前意識という領域にあるものだとフロイトは考えています。
前意識にある記憶なんかは、それについて言われたり、ふとした瞬間に思い出せたりする。
まあ、俺も普段から十二支の名前も47都道府県も懐かしいあの日の思い出も恥ずかしいあの出来事も全て思い浮かべながら生きてるわけじゃないですしね。
そして、更にこの奥にあるのが無意識です。
無意識の領域にあるものは、引きずり出してくるのが難しい。
結構奥に入っているものです。
さて、ここまでは領域の話。
フロイトの力動論に特徴的なのは、「エス」「自我」という概念を用いて、
「働きの上で」心を分解している所にあります。
まず、「エス」。多分、さっき挙げた幾つかの単語の中で、
日常生活で一番使わないのが「エス」だと思います。
「おじちゃん、エスってなあに?」
「エスか、それは…………全てじゃよ」
……そっかー。
エスは、人間の心の全体というか、出発点というか、生まれ落ちた子供の素の心というか、そんな感じのものを指します。
言うなれば、ぴゅあぴゅあはーとのことですね。
そう、ふわふわ時間のことです。
なので、元来エスは無意識にも、前意識にも、意識にも存在すると言っていい。
そして、エスしかなかった心が、外の様々な出来事を経験する中で、一部自我に形を変えていきます。
自我は、心の中身を動かす主役ですね。
我慢する、っていう言葉がありますよね。
皆さんにも、してはいけないことを我慢することがあると思います。
我慢する時は、我慢している自覚がありますね。
こういう時、自我は意識の領域の中で抑圧を行っています。
ただ、じゃあ我慢していない時は全部の欲を満たしにかかっているでしょうか?
多分、そんなこともないんじゃないでしょうか。
無意識に我慢していることだって、沢山あると思います。
我慢している自覚がないので、我慢という言葉が適切かどうかはさて置くとして。
俺個人としては、性欲がない人ってのが一番分かりやすいと思います。
こういう時、自我は、無意識の領域の中で抑圧を行っています。
まとめると、意識とか無意識とかいうのは場所、
エスはぴゅあぴゅあはーと、自我は心のコントロールを行っている主役です。
まあいいや。超自我も書いちまうか。
超自我は、子どもの頃に発生する、「善悪の判断」なんかを司る監査役のことです。
「これは良いこと、これは悪いこと」というのは、
合理的に判断できるようでいて、案外そうでもないものです。
絶対的に何が正しいかなんて、少なくとも俺には言えません。
そんなあなたにご紹介したいのがこちら!
ババーン!!
そんな感じです。
超自我は、子どもの頃、親なんかに褒められたり怒られたり、
することを通じて形成されます。
つまり、「これをするのは良いこと。だって褒められたもーん!」
っていう経験が積み重なり、その人の価値観が出来上がってきます。
しかもタチの悪いことに、自我が形成されるより前に超自我が出来上がってくる。
だから、大人になってから、
自分の価値観そのものが重荷になって苦しむ人が出てくるわけですよね。
そんなわけで、今日はフロイトが考えた心の構造をつらつらと書いてみました。
フロイトは話を理系的に書いてくる上に、中々難しいんですよね。
まあ、でも少しずつまた何か見つけては書いていこうと思いますので、
よろしくお願いします。
ではでは!