思い付かないと言って何もしないより、思いつかなくても無理矢理推し進めた方が良いんじゃないかという、当然の結論にたどり着きました。
うさぎ小屋⑨
学生の身分でありながら住所を失いなけなしの小遣いもなくした僕は、最低限の手続きを済ませると改めて自分のしでかしたことの馬鹿馬鹿しさに呆然とした。そして、気付くと溜め池沿いのベンチに横になっていた。汗と雨で湿ったTシャツがくぐもった不愉快な臭いを放っている。不潔さが気になり、授業にもここ数日間は出席していない。所持品を盗まれてから1週間が経過しようとしていた。水分は大学の水道水で充分に事足りたが、食事がとれないのは正直なところ耐えがたかった。暑さゆえに体中の水分とミネラルが抜けていくのだが、補充できているのは水分の方だけである。
「何してるの?」という声が聞こえたので見上げると、先日の「文学部飲み」で隣に座っていた蔵橋さんだった。
「浮浪者やってるんです」と僕は答えた。
「ああ、そういうコンセプトなのね」
「いえ、ほんとに」僕は空腹の不愉快さにたまらなくなりながら答えた。
「どういうこと?」と蔵橋さんは無邪気に質問を続ける。
「気になります?」
「かなり」
「実はですね。とある雨の日にサークルの先輩がふたりでいちゃいちゃしながら歩いてましてね」
「目当ての先輩だったとか?」
「分かりません。あるいはそうだったのかもしれませんが、どちらかというと初めて見た身近な同性カップルに面食らったというか」
「ほう」
「そのうち1人は二重人格で、その時の雰囲気は僕の知っているその人と全然違ったんですよ。」
「うんうん」
「その後もう片方の先輩と部室で会ったんですが、何事もなかったかのようなさっぱりした雰囲気で。彼女は二重人格じゃないはずなんですが、雨の日に目撃した場面と比べるとその二面性はもはや異なる人格なんじゃないかと思ったんです。僕のこれまでの人生にとってその一連の出来事が都会的過ぎたんでしょうね。気付いたら下宿を払ってホームレスになってました」僕は先輩の相槌に心地好さを覚えつつ一気に大まかな経緯を語った。
「なるほど。最後のフレーズの跳躍が随分思い切ってるけど。消化不良になった勢いで家を飛び出しちゃったわけね」
「そうです」
「で、これからどうするの?」
「分かりません。このまま汚くなるにつれどんどん人に頼りづらくなっていって本物のホームレスになるかもしれません」
「なるほど。それは家出計画としてはあまり成功とはいえないね」蔵橋先輩は心配そうに言った。
「そうなんです。ただ、こうして履き古した靴の中敷きみたいな気持ちになってみると、日光が一層気持ち良いですよ」
「私の知り合いには少なくともそんな境地にたどり着いた人はいないけど」蔵橋さんはそういった後、「ちょっと待ってて」と言ってどこかへ駆けていった。
こんな状態の後輩によく声をかけたものだと感心していると、しばらくして蔵橋さんが戻ってきた。手には大学生協の袋がぶら下がっていた。
「ごめんね、こんなことしかできないけど。良かったら食べて」と差し出された蔵橋さんの手には、おにぎりが3つ乗っていた。
「いえいえ、そんな」と辞退しつつ、僕にとってこのおにぎりが命に関わると思うとどうしても視線を離すことができなかった。
いいのいいの、とおにぎりを押し付けて蔵橋さんは去っていった。自分の手元に残ったおにぎりを見て、以前であれば何のありがたみもなかった物に唾液の分泌が止まらなくなっている自分が情けなくなった。
おにぎりを貪り絶望的な空腹感から逃れると、不意に吐き気を伴う倦怠感が押し寄せてくると同時に、蔵橋さんが文学部の先輩や同期に僕の追い込まれている現状を吹聴するのではないかという不安が脳裏をよぎった。とりわけ吉木は「大2病だ」とか言って僕をこき下ろすに違いない。そう考えると、蔵橋さんに自分の境遇を語ったことが今更ながら悔やまれた。
大学にいると見世物にされないとも限らないと思い起き上がろうとした時、聞き覚えのある声が降ってきた。
「おい、お前こんな所でなに干上がってんだ」
「はい……あ、曾我さん」
「汚い恰好してるなあ。何日風呂入ってないんだ」
「分からないですけど、少なくとも1週間は」あなたのせいですよ、と言いたい気持ちを抑え、僕は曾我さんの威勢にどぎまぎしながら答えた。
「とりあえず私の家に来いよ」と曾我さんが言う。初対面の面影は全く感じられない、男性性の強い口調だった。
「いえ、さすがにこの格好では――」
「可愛いエチル倶楽部の後輩が死にかかってるのを見過ごすわけにはいかないって。ここから近いからついて来いよ」そう言うと曾我さんは腕組みをして、僕が立ち上がるのを待った。僕は吐き気を抑えながらゆっくり起き上がった。
うさぎ小屋⑨
学生の身分でありながら住所を失いなけなしの小遣いもなくした僕は、最低限の手続きを済ませると改めて自分のしでかしたことの馬鹿馬鹿しさに呆然とした。そして、気付くと溜め池沿いのベンチに横になっていた。汗と雨で湿ったTシャツがくぐもった不愉快な臭いを放っている。不潔さが気になり、授業にもここ数日間は出席していない。所持品を盗まれてから1週間が経過しようとしていた。水分は大学の水道水で充分に事足りたが、食事がとれないのは正直なところ耐えがたかった。暑さゆえに体中の水分とミネラルが抜けていくのだが、補充できているのは水分の方だけである。
「何してるの?」という声が聞こえたので見上げると、先日の「文学部飲み」で隣に座っていた蔵橋さんだった。
「浮浪者やってるんです」と僕は答えた。
「ああ、そういうコンセプトなのね」
「いえ、ほんとに」僕は空腹の不愉快さにたまらなくなりながら答えた。
「どういうこと?」と蔵橋さんは無邪気に質問を続ける。
「気になります?」
「かなり」
「実はですね。とある雨の日にサークルの先輩がふたりでいちゃいちゃしながら歩いてましてね」
「目当ての先輩だったとか?」
「分かりません。あるいはそうだったのかもしれませんが、どちらかというと初めて見た身近な同性カップルに面食らったというか」
「ほう」
「そのうち1人は二重人格で、その時の雰囲気は僕の知っているその人と全然違ったんですよ。」
「うんうん」
「その後もう片方の先輩と部室で会ったんですが、何事もなかったかのようなさっぱりした雰囲気で。彼女は二重人格じゃないはずなんですが、雨の日に目撃した場面と比べるとその二面性はもはや異なる人格なんじゃないかと思ったんです。僕のこれまでの人生にとってその一連の出来事が都会的過ぎたんでしょうね。気付いたら下宿を払ってホームレスになってました」僕は先輩の相槌に心地好さを覚えつつ一気に大まかな経緯を語った。
「なるほど。最後のフレーズの跳躍が随分思い切ってるけど。消化不良になった勢いで家を飛び出しちゃったわけね」
「そうです」
「で、これからどうするの?」
「分かりません。このまま汚くなるにつれどんどん人に頼りづらくなっていって本物のホームレスになるかもしれません」
「なるほど。それは家出計画としてはあまり成功とはいえないね」蔵橋先輩は心配そうに言った。
「そうなんです。ただ、こうして履き古した靴の中敷きみたいな気持ちになってみると、日光が一層気持ち良いですよ」
「私の知り合いには少なくともそんな境地にたどり着いた人はいないけど」蔵橋さんはそういった後、「ちょっと待ってて」と言ってどこかへ駆けていった。
こんな状態の後輩によく声をかけたものだと感心していると、しばらくして蔵橋さんが戻ってきた。手には大学生協の袋がぶら下がっていた。
「ごめんね、こんなことしかできないけど。良かったら食べて」と差し出された蔵橋さんの手には、おにぎりが3つ乗っていた。
「いえいえ、そんな」と辞退しつつ、僕にとってこのおにぎりが命に関わると思うとどうしても視線を離すことができなかった。
いいのいいの、とおにぎりを押し付けて蔵橋さんは去っていった。自分の手元に残ったおにぎりを見て、以前であれば何のありがたみもなかった物に唾液の分泌が止まらなくなっている自分が情けなくなった。
おにぎりを貪り絶望的な空腹感から逃れると、不意に吐き気を伴う倦怠感が押し寄せてくると同時に、蔵橋さんが文学部の先輩や同期に僕の追い込まれている現状を吹聴するのではないかという不安が脳裏をよぎった。とりわけ吉木は「大2病だ」とか言って僕をこき下ろすに違いない。そう考えると、蔵橋さんに自分の境遇を語ったことが今更ながら悔やまれた。
大学にいると見世物にされないとも限らないと思い起き上がろうとした時、聞き覚えのある声が降ってきた。
「おい、お前こんな所でなに干上がってんだ」
「はい……あ、曾我さん」
「汚い恰好してるなあ。何日風呂入ってないんだ」
「分からないですけど、少なくとも1週間は」あなたのせいですよ、と言いたい気持ちを抑え、僕は曾我さんの威勢にどぎまぎしながら答えた。
「とりあえず私の家に来いよ」と曾我さんが言う。初対面の面影は全く感じられない、男性性の強い口調だった。
「いえ、さすがにこの格好では――」
「可愛いエチル倶楽部の後輩が死にかかってるのを見過ごすわけにはいかないって。ここから近いからついて来いよ」そう言うと曾我さんは腕組みをして、僕が立ち上がるのを待った。僕は吐き気を抑えながらゆっくり起き上がった。